本質とは、直接知の即自態にあった存在が対自態に至った姿である。存在論において存在から質と量および度量を展開したヘーゲルは、再びその対自形態において同じ事柄を本質論として見直す。存在論における始元は、存在と非存在を排他的統一する成として現れた。それは存在と無が相互移行する運動体である。そしてその存在と無の排他的統一が、限定存在である。そこでの排他的統一から外れた存在と無の統一は、対立が静止した空無な観念にすぎない。それは生命の無い限定存在である。存在論における存在と非存在の対立は、本質論では本質と非本質の対立として現れる。そしてその排他的統一が、反省である。またここでの排他的統一から外れた本質と非本質の統一は、対立が静止した空無な印象(仮象)として現れる。それは運動の欠けた反省の姿である。ただし本質論における対象の本質と非本質は、それぞれ個物の同一性と区別に現れるので、本質論における本質と非本質の対立も、もっぱら同一性と区別の対立に転じて語られる。以下では存在論から概念論への橋頭保として、存在論の抽出的概括を行ったヘーゲル本質論の冒頭部分を概観する。
[第二巻本質論 第一篇「自己自身における反省としての本質」の第一章「印象(仮象)」の概要]
存在と本質の対立から派生する諸契機についての論述部位
・本質的存在 …直接的存在の否定として現れる限定存在。
・非本質的存在 …本質的存在の否定として現れる限定存在。
・印象(仮象) …本質に廃棄された無限定な直接知としての空無な限定存在。本質を内に隠した存在の余計な外皮。
1)本質
知識は存在の真理を背後的実体として想定し、直接知を突き抜ける。この存在の真理が本質である。本質は、存在を媒介にして想起された自己であり、存在の無時間的な過去である。存在が自己想起を通じて本質になるのは、存在自身の本性に従う。存在論の始まりにおいて、絶対者は存在として現れた。しかしここでの絶対者は本質である。それは全ての限定を外面的に否定した存在であり、無限定で単純な統一である。ただし最初に空虚な単純性として現れる純粋な本質は、意識の抽象であり、ただの製作物である。本質はそのようなものに留まらず、何らかの他者に対する限定存在に移行する。その何らかの他者とは、本質に対立する存在の抽象である。しかしその自己の他在は、自己に外的な否定ではない。それは自己の自己自身が他在として現れた姿である。すなわち本質は他者一般に対するのでなく、自己自身に対峙する対自存在である。本質はその規定性において質であるが、その全体は量として現れる。しかし存在における限界量が直接的であったのに対し、本質における限界量は本質自らが、自己と自己自身の統一に準じて擁立する。
2)ヘーゲル論理学における本質論の位置づけと構成
存在が概念に転化する運動において、本質は両者の中間に現れる。そこで擁立される本質の限定存在は、即自態にある対自存在である。それは概念と同様に即自かつ対自存在である。しかしそれは概念と違い、対自存在として自己自身を排他的に統一する即自存在ではない。その限りで本質の限定存在は、概念における即自かつ対自存在ではない。すなわち本質は存在の最初の否定であり、そのさらなる否定が概念である。本質はまず自己自身における反省である。次にそれは実存とともに現象する。そしてさらにそれは現実性において自己を啓示する。
3)本質的存在と非本質的存在
本質は自己の他在を媒介にして、その相関において擁立される。このときに媒介として現れる自己の他在は、直接知としての存在である。そしてこの存在に対峙する本質の即自存在が、反省である。ただしまだこの反省は、単純な自己関係、すなわち反照である。さしあたりここでの本質は、存在の直接性と対峙する同じ直接性である。そして一方の存在も、本質との関係において否定的な直接性である。両者は等しく直接性であり、その区別は外面的である。したがって両者における本質的存在と非本質的存在の区別も恣意的である。しかしこの本質的存在は、直接的存在を否定する限定存在なのでやはり存在である。一方の非本質的存在も、本質的存在を否定する限定存在なのでやはり本質である。それゆえにこの両者は、互いに単なる他者ではない。この否定の否定は、本質的存在と非本質的存在をそれぞれ本質と存在へと復帰させる。ただしここでの存在は、本質の欠けた空無な印象(仮象)Scheinである。しかしそれは、自らに内在していた本質の余計な外皮と化している。
4)印象(仮象)
存在は本質の欠落のゆえに、本質の他者一般の姿を装う。その現す姿は本質の欠落のゆえに、限定存在を持たない。この直接的な無限定存在は、印象として現れる。ただしそれは、無限定存在としての限定存在である。この限定性の喪失は、印象を自立することの無い対他存在にする。それに残された限定性は、反省された純粋な直接性だけとなる。しかし反省において現れるこの直接性は、脱自を媒介として現れた空無な限定である。この印象は、哲学史において次のような概念として登場した。
・懐疑論における幻影(経験論における印象) …客体としての印象自体が擁立するものではなく、自立的ではない主観。内容として現れる多様な規定そのもの。
・観念論における現象(カント) …物自体と無関係に現れる主観。経験論における印象と同じ。所与の知覚内容。
・ライプニッツにおける表象 …単子と無関係に現れる多様な規定。
・フィヒテにおける衝撃 …自我と無関係に現れる非我。
本質と区別された印象は、再び本質に復帰することはない。そこでの本質は印象を廃棄しており、存在も本質の側に移る。したがって印象の空無は、本質に対する無である。そしてこの無は、もともと本質の即自存在としての無である。なぜなら本質の存在は、無との自己同等性における自己保持だからである。同様に印象の直接性も、空無との自己同等性である。したがってそれは、本質の無と同じものである。そのように空無は、本質に対してのみ現れる印象の存在である。すなわち印象の空無は、存在において現れる本質の無である。それに対して印象の自己同等性は、空無の持つ否定を否定する。その否定の否定は印象の直接性を廃棄し、それを自己関係的に自己同一な自立した直接性に置き換える。ここで現れ出た直接性は、空無な印象とは別に印象として存在する無である。それは同時に本質としての映像であり、反省である。
(2019/06/26) 続く⇒(ヘーゲル大論理学 第二巻本質論 第一篇 第二章)
ヘーゲル大論理学 本質論 解題
1.存在論と本質論の対応
(1)質と本質
(2)量と現象
(3)度量と現実性
2.ヘーゲル本質論とマルクス商品論
3.使用価値と交換価値
ヘーゲル大論理学 本質論 要約 ・・・ 本質論の論理展開全体
1編 本質 1章 ・・・ 印象(仮象)
2章 ・・・ 反省された限定
3章 ・・・ 根拠
2編 現象 1章 ・・・ 実存
2章 ・・・ 現象
3章 ・・・ 本質的相関
3編 現実 1章 ・・・ 絶対者
2章 ・・・ 現実
3章 ・・・ 絶対的相関
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