概念の自己実現は、限定存在の直接判断を無限判断に導いた。それは述語の二重否定がたどり着く無概念な定言である。しかしそれは内容の直接的同一に満足する直観主義である。これに対して反省は、次に質を廃棄した主語と述語の同一を目指す。さしあたり無限単称判断も具体を主語とし、普遍を述語とする。しかしここでもその主語と述語の非同一は、既に否定判断である。それゆえに悪無限を避ける判断の運動は、さらなる述語の二重否定を放棄し、主語の二重否定に進む。ここで主語と述語の非同一が最初に否定するのは、無限判断が無限定に現す単一な主語である。しかしその空虚な主語は、元の主語に対して否定的な主語と入れ替わる。このときの主語は、単一な主語とそれに否定的な主語を包括する具体全体である。ところがその具体全体は普遍に対して部分であり、相変わらず述語と無限定に同一しない。そこでその主語と述語の非同一は、主語の具体全体を否定し、主語の具体を普遍化する。この普遍化した主語は、述語の普遍と無限定に同一となる。したがってその主語は普遍化した具体であるだけでなく、具体化した普遍となる。これにより主語と述語の内属関係も逆転し、両者の関係は必然となる。
[第三巻概念論第一編「主観性」第二章「判断」B「反省の判断」の概要]
限定存在の直接判断から推移した反省判断の論述部位
・反省の表象判断(量的限定)の全容
-単称判断 …述語の普遍が主語の具体を包括。“具体は或る特定の本質”
-特称判断 …単称判断の単一な主語の否定。主語の特殊化。“或る具体は或る特定の本質”
-全称判断 …特称判断の部分限定された主語の否定。主語の普遍化。“全ての具体は或る特定の本質”
・類 …主語の具体が全称判断において普遍化したもの。
1)反省の蓋然的判断
ここでの主語と述語は、いずれも具体的な表象である。その普遍は、多様な特性と実存の綜合として現れる。しかしそれはまだ限定存在を自らの否定の根底に持つ現象に留まる。それは例えば「赤」などの質を廃棄した量として現れる。したがって限定存在の質的判断との比較で言えば、この判断は量的判断である。端的に言えばそれは、自己自身を反省する自己としての判断である。この量化した普遍は、既に本質として特定されている。それゆえに主語の具体は述語の普遍を内属するのでなく、逆に述語の普遍が主語の具体を包括する。この包括は、限定を述語ではなく主語において現す。そこで反省の判断は、単称判断・特称判断・全称判断として現れる。
2)単称判断
単称判断は、限定存在の直接的具体と普遍ではなく、表象の具体と普遍を主語と述語として結合する。例えばそれは“ソクラテスは人間である”のような肯定判断として現れる。ここでの“人間”は主語“ソクラテス”の一つの本質であり、その判断の形式は“具体は或る特定の本質である”となる。しかしその主語と述語の非同一は肯定命題を否定し、それを否定判断に転じる。ただし述語の普遍は、主語の具体に対して自立した即自存在である。そこでこの肯定命題の否定は、述語の“人間”ではなく主語の“ソクラテス”を限定する。すなわちそれは“或るソクラテスは人間である”の特称判断となる。
3)特称判断
特称判断は、単称判断の否定である。ただし特称判断が否定するのは、単称判断の主語の単一である。それが転じる単称判断の否定は“或る具体は或る特定の本質である”である。ここでの主語の非単称、すなわち特称は、主語を量的に拡大して限定する。このような主語の特定が持つ特殊性は、主語の具体を廃棄して抽象化することをせず、逆に主語をより具体化する。しかしその主語は、述語に適合する主語と適合しない主語の両側を包括する。そしてその両側の包括が、主語を無限定にする。したがってその否定表現の“或る具体は或る特定の本質ではない”は、元の肯定表現を反転させただけで内実的に変わらない。例えばそれは“或るソクラテスは人間ではない”となる。ただしここでのソクラテスは個人ではなく、また人間ではないソクラテスを含む多者である。このような特称の無限定が主語の具体を普遍化し、特殊にする。しかしその主語の無限定は、主語の具体化に逆行する。悪無限を避ける主語の具体化は、主語の完全な限定に帰結するしかない。したがってここでも主語と述語の非同一は、特称命題を否定する。
4)全称判断
全称判断は、特称判断の否定である。この否定判断が否定するのは、特称判断の主語を部分限定する“或る”である。したがってこの否定判断は、具体の部分限定を否定し、全てを限定する全称判断となる。すなわちそれは“全ての具体は或る特定の本質である”となる。例えばそれは“全てのソクラテスは人間である”である。ここでの主語の不特定は、主語の量的拡大を無限定にする。このような全称の全体性は、主語を完全に具体化する。そしてその主語は、述語に適合する主語だけを包括し、適合しない主語を包括しない。そしてその両側が、主語を無限定にする。したがってその否定表現の“全ての具体は或る特定の本質の一つではない” は、元の肯定表現を反転させただけで内実的に変わらない。例えばそれは“全てのソクラテスは人間ではない”となる。このような全称の限定は、主語の具体を完全に限定された普遍にする。
4a)全称限定における普遍の擁立
全称判断の主語が持つ普遍は、さしあたり具体を総括した蓋然として現れる。それは単に多くの具体に現れる共通の質である。しかし蓋然は経験的普遍に留まる。蓋然にさらに多くの具体が該当したとしても、その共通性は概念の普遍に到達しない。概念の普遍は、共通の質を具体に該当させる方法や規則である。それは具体全体を網羅する即自対自存在である。それゆえに全称判断の主語は、この具体全体の即自対自存在を前提する。ところがこの前提された即自対自存在を擁立するのは、主語の全称限定である。全称判断の主語は、単称判断において単なる具体であった主語が、特称判断において特殊な具体に転じ、さらに全称判断において普遍な具体に転じたものである。したがって全称限定された主語は、特称限定された対自的具体の対自存在であり、その特称限定された主語は、単称限定された即自的具体の対自存在である。その普遍化した主語は、前提されている具体全体の対自即自存在と同じものである。つまり全称判断が実際に前提する主語は、単称判断における具体の否定的同一である。反省はこの否定的同一の対自をもって単称判断を特称判断に転じ、さらにその反省が特称判断を全称判断に転じる。すなわち反省は、前提にした即自存在を廃棄し、その即自対自存在を擁立する。全称判断の主語は、自己復帰した単称判断の主語にすぎない。全称判断の主語は、普遍化した具体であるとともに、具体化した普遍である。類とは、このような具体化した普遍を言う。それは客観的普遍である。
4b)主語と述語の内属関係の逆転
類は主語の或る特定の本質ではない。或る特定の本質は類に内属する。したがって類は主語にだけ現れる。一方で反省の判断はその主語と述語を、それぞれ表象の具体と普遍にして始まった。そこでの普遍は述語にだけ現れ、主語は述語に内属する現象に過ぎなかった。しかし特称判断において主語の外延が拡張し、さらに全称判断において主語が普遍化すると、主語と述語の内属関係は逆転する。ここでの主語の具体は客観的普遍であり、述語は主語に包括される特殊に転じる。この主語と述語の内属関係の逆転は、判断そのものを廃棄する。したがってその逆転は、繋辞の限定の生成でもある。ここでの主語は客観的普遍であり、述語の特殊は反省された普遍を含む。両者は癒合し、同一となる。逆にこの癒合した主語と述語を分離して現れる判断は、述語が主語に内属する必然だけを表現する。それが表すのは、主語が述語を包括すること、端的に言えば主語による述語の所有である。その直接的な帰結は“個別は類に属する”の定言である。
(2021/10/29) 続く⇒(ヘーゲル大論理学 第三巻概念論 第一篇 第二章 C) 前の記事⇒(ヘーゲル大論理学 第三巻概念論 第一篇 第二章 A)
ヘーゲル大論理学 概念論 解題
1.存在論・本質論・概念論の各章の対応
(1)第一章 即自的質
(2)第二章 対自的量
(3)第三章 復帰した質
2.民主主義の哲学的規定
(1)独断と対話
(2)カント不可知論と弁証法
3.独断と媒介
(1)媒介的真の弁証法
(2)目的論的価値
(3)ヘーゲル的真の瓦解
(4)唯物論の反撃
(5)自由の生成
ヘーゲル大論理学 概念論 要約 ・・・ 概念論の論理展開全体 第一篇 主観性 第二篇 客観性 第三篇 理念
冒頭部位 前半 ・・・ 本質論第三篇の概括
後半 ・・・ 概念論の必然性
1編 主観性 1章A・B ・・・ 普遍概念・特殊概念
B注・C・・・ 特殊概念注釈・具体
2章A ・・・ 限定存在の判断
B ・・・ 反省の判断
C ・・・ 無条件判断
D ・・・ 概念の判断
3章A ・・・ 限定存在の推論
B ・・・ 反省の推論
C ・・・ 必然の推論
2編 客観性 1章 ・・・ 機械観
2章 ・・・ 化合観
3章 ・・・ 目的観
3編 理念 1章 ・・・ 生命
2章Aa ・・・ 分析
2章Ab ・・・ 綜合
2章B ・・・ 善
3章 ・・・ 絶対理念
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