16a)不幸の哲学
ヘーゲルにとってカント哲学は克服すべき不幸の思想である。なぜカント哲学が不幸の思想なのかと言えば、カントにおいて物自体が到達不可能な目的として現れるからである。意識は目的実現を果たせないので、常に悲壮な決意で“事”にあたり、目的実現を見ることも無く消える。なぜなら意識は、そもそも目的と分け隔てられており、目的は意識の彼岸に現れるからである。「精神現象学」の随所でも、“不幸な意識”に始まる一連の不幸シリーズの思想が登場する。ヘーゲルはそれらをどれもカントを念頭にして描いている。このようなカントに対してヘーゲルは首をかしげる。目的実現が本当に不可能なのだろうか? なぜ幸福を断念する必要があるのだろうか? ヘーゲルはその答えをフィヒテとシェリングを通じて受け取り、カント思想の克服を確信する。そして当然のことながらカントとの対比において、ヘーゲルは自らを幸福な意識と捉えることとなる。カントと違い、ヘーゲルにおいて物自体は到達可能な目的である。目的実現を果たせる以上、意識は特に考える必要さえ無しに形式的に“事”にあたり、目的実現を確認して悦に入る。なぜなら意識は目的の定立において既に目的を実現しており、あとはそれを外化するだけだからである。ただし用語の問題として、カントにおける“物自体”Ding Sichは、到達不能な対象として規定されている。そこでヘーゲルにおける到達可能な目的は、カントにおける物自体と区別して表現されなければならない。そこでヘーゲルは、自ら立てる到達可能な目的を“事自体”Sache selbstと呼び、“物自体”と区別する。ここでの“事自体”は、外在的現実として現れる“事”の内在的理念である。“事”は仕事を指し、“事自体”はその目的を指す。ヘーゲルはカントにおける意識と対象の分裂を、仕事と目的の分裂と理解する。したがってカントが見い出した現象と物自体の間にある乗り越え不可能な深淵も、ヘーゲルにおいて事と事自体の間に現れている。
16b)対象認識と目的実現
フィヒテとシェリングにおけるカント不可知論の克服は、意識における始まりの現存在の復元として進んだ。始まりの現存在では、意識と対象が一体にあり、両者は分裂していないからである。対象は神的意識の直接知に現れている。それゆえに彼らは、自己否定において対象を認識せずとも、自らの直観の内に対象が現れると考えた。しかしヘーゲルは彼らの直観主義に対してストア主義的退行を感じ取り、不満を感じる。それゆえにヘーゲルは今一度カントに戻り、その観察理性の克服を目指す。カントにおける認識は、直観の放棄において自己否定する理性が行う。意識と対象の修復不能な分裂は、この自己否定がもたらした必然的結末である。理性認識を可能にするための自己否定が、逆に認識を不可能にしたわけである。一方でカントに従えば、意識は対象を知り得ないはずなのに、現実の意識はその知り得ないはずの対象を知り得ている。この可知を意識の錯覚と理解するのは、不合理である。もし認識の全てが不可能であれば、人間は道を歩くこともできない。したがってそこには、意識が常に自己と対象の分裂を克服している現実がある。ここでヘーゲルが注目するのは、意識が行う自己と対象の結合運動である。それは食餌行為を筆頭にした生命活動として現れ、人間の日常的な経済的営為を成している。端的に言えばそこでの認識は、対象を観察するのではなく、食べている。しかし余程の原初的な生命体を別にして言えば、どんな生命体も周囲の物を何でもかんでも食べたりしない。すなわち生命体は食事をする前に、食餌対象を観察する。このときに生命体は、一度自らの食欲を放棄しなければならない。そしてその放棄に耐えた後、生命体は食事をする。もちろんここでの食欲の放棄が表現するのは、自己否定である。したがって生命体は一度カント式の不幸を目指し、そこから急遽一転して逆に幸福を目指しているように見える。そこで疑問として現れるのは、生命体がこの不幸と幸福を同時に目指す矛盾をどのように解消しているのかと言うことである。
16c)生命体における自己否定
答えはむしろ人間の日常的な経済的営為から得られる。人間は種を播き、収穫した農作物を食べている。つまり人間は種をそのまま食用にしない。さしあたり種を播く人間は、種蒔きの行為自体に満足している。言い換えるなら、人間は仕事に満足することができる。もちろんその満足を根拠づけているのは、実在しない収穫後の農作物である。それはまだ非現実の抽象としてのみ存在する。つまり人間は未来の食事の可能態において満足する。仕事が可能態であるにも関わらず人間が満足を得るのは、その非現実の抽象が可能性としての実在性を有するからである。もちろんそれは可能態だとは言え、現実の食事ではない。したがってそれがもたらす満足も偽りである。人間においてこの偽りの満足を可能にする前提は、偽りの満足に耐えるための肉体的余力である。それは実在する自由でもある。この自由が偽りの満足を可能にし、さらには種蒔きおよび収穫後の農作物を可能にしている。結果的に人間は偽りの満足によって、一貫して幸福を追求している。この幸福追求の図式は、生命体における不幸と幸福の同時追及の矛盾を説明する。すなわち生命体が自らの食欲を放棄するのも、代わりに自ら用意した食事の可能態に満足したからである。ヘーゲルにおいて“事”は、この可能態であり、それは仕事と同義である。したがって生命体は、さしあたり食事に満足していなくても、余力さえあれば、食事の代わりに仕事に満足することができる。可能態としての仕事が現実の食事になるのは、仕事の完了時である。そして仕事の完了とは、食事の可能態が現実の食事と入れ替わることに等しい。ここでの現実の食事は、事の実体、すなわち事自体になっている。生命体は仕事を通じて目的と一体になり、それにより自己と対象の分裂を克服する。結果的に生命体は、一度もカント式の不幸を目指していない。つまり生命体における意識と対象の分裂は、事と事自体の間に深淵を生んでいない。このことは、意識の不幸が対象との分離にあるのではなく、目的との分離にあるのを表現している。それだからこそ意識と対象の分裂は、単なる外在的な区別に留まっている。もちろんこの単なる外在的区別も、意識の不幸として現れるのは可能である。その条件は、意識においてその分裂に耐える余力が無い場合である。その条件は、自由の欠如として言い換えられても良い。この条件に該当する意識、すなわち余力の無い意識は、幸福との遭遇がそのまま幸福であり、不幸との遭遇がそのまま不幸となる。それゆえにもともとその意識には、カント式に不幸を目指す必要が無い。そのような意識において事と事自体の間の深淵は、せいぜい偶然な仕事の失敗に留まる。しかし理性が目指す不幸がそのような偶然の不幸だとしたら、その自己否定は自ら仕事の失敗を目指す馬鹿として現れる。その非合理な自己否定の姿は、あまりにも理性的ではない。そこで次に現れる疑問は、事と事自体の間に生まれる深淵、すなわち仕事と目的の間の齟齬がいかなる必要において生まれるのかへと立ち戻る。このことは、自己否定の必要性に対するそもそもの疑問として現れる。
16d)合目的な自己否定
ヘーゲルは、不幸な意識の最初の姿をストア主義と懐疑主義を経験した意識が到達する自己否定において語る。それは思考停止において自ら持つ支配力の全てを宗教教団に委譲する自己意識の姿である。自己意識が自ら持つ支配力とは、意識の自由であり、意識の存在である。したがって自己意識は自己否定により意識ならぬものとなり、実在性を失う。すなわち自己意識は自己否定により物体化し、意識としての実在性を失う。これにより自己意識の仕事は他者のための奉仕として現れ、労働となる。しかし自己否定において自らの個別性を放棄した自己意識は、逆に一般者の資格を得る。なぜならここでの一般者は教団であり、自己意識はその教団と一体化したからである。そしてその一体化により自己意識は、神の目線を手に入れる。そのことが表現するのは、自己意識が理性になったと言うことである。言い換えるなら、個人は労働を通じて教団と一体になることにより、自己と対象の分裂を克服したと言うことである。したがって個人における自己否定は、自己責任の放棄と対象認識の実現の二面において必要性を得ている。もちろんそれは、個人が仕事を通じて目的に到達するための必要性であり、すなわち幸福を得るための必要性である。それゆえに個人は、仕事に満足したときと同様に、自己否定においてもカント式の不幸を目指していない。つまり個人における労働と仕事目的の分裂は、事と事自体の間に深淵を生んでいない。したがって労働と仕事目的の分裂は、意識と対象の分裂と同様に、単なる外在的な区別に留まっている。ただしこの分裂の外在性は、個人の奉仕と教団の下賜の双方向において、その移動する物品の等価を前提にする。そこに過大な下賜があれば、個人の自己否定は虚偽となり、逆に過大な奉仕があれば教団の一般者としての地位が虚偽となる。つまりこの個別者と一般者の相関は先験性を得ている。それだからこそ「精神現象学」の自己意識の章で、ヘーゲルは突如として教団を一般者として登場させている。そこにある暗黙の前提とは、教団への奉仕が個人の使命であり、そして個人の幸福は教団の使命だと言うことである。したがって教団が個人にとって一般者でないのなら、ここでの労働と仕事目的の外在的区別は、一気に意識の不幸へと転じる。そのときの教団は、単なる支配者だからである。同じことを奉仕と下賜の量的関係で見るなら、教団への奉仕と教団からの下賜は、多くの奉仕に釣り合わない少ない下賜において不等価である。端的な場合を考えれば、個人が一方通行的に教団に対して奉仕するなら、そこにはカント式に不幸を目指す意識、すなわち不幸な意識が登場する。そのとき不幸な意識が経験するのは、労働と仕事目的、または事と事自体の分裂である。したがってここでの不幸の必然は、個人における教団への過大な奉仕の必然として現れる。ただしそのままでは、不幸な意識の必然は、共産主義式の所有の分断、および剰余価値の争奪の必然に留まる。それに対してヘーゲルは、既にそれを超える不幸への没入、自己否定の必然をもってカント式の不幸の意識を幸福の意識に転じている。
16e)自己否定への没入
労働は教団のための奉仕であるにも関わらず、仕事目的は個人の生活保全のままにある。それゆえに教団による下賜は、個人にとって生活原資として必要不可欠である。そうでなければ個人は教団への奉仕において餓死せざるを得ない。したがって一見すると奉仕と言う名の自己否定は、すぐにでも個人と教団の間に対立を生みそうである。もちろんその一般者に対する希求は、一般者によって真理認識を実現する個人にとっての必要性においても起きる。それゆえに例え教団が一般者でなくても、個人にとって教団は一般者だとみなされる。むしろ教団が一般者であるのは、一般者が教団であるからである。それは真理が物として現れたときと同様、一般者を教団として表現しただけに留まっており、既存の宗教団体が一般者であるのを保証していない。すなわち既存の宗教団体が教団であるのを保証していない。ちなみにこのことを逆に言うなら、教団は宗教団体として現れるとも限らない。ヘーゲルは自己意識の章において教団を一般者として登場させた。しかしここでの一般者の定立は暫定のものであり、その一般者の内実は精神を指している。ヘーゲルにおいて自己意識は事を通じて事自体に到達し、幸福を得る。言い換えれば、自己意識は仕事を通じて目的に到達し、幸福を得る。もし仕事が慣習として形式化した仕事でなければ、仕事の目的も分からずに何らかの仕事が始まることは無い。それゆえに事自体に対する不可知論は、本来的に成立しない。ただし仕事は慣習として形式化され、その目的は常にその本来の姿を失う。またそもそも事自体は、事を外化した時点で一旦役割を終えている。したがってその忘却はむしろ当然の結果である。しかし忘却されるのは事自体であり、事ではない。また事自体も、忘却されただけであり、消滅したわけではない。あるいは消滅したのは個人の目的として現れた事自体であり、その一般化され必然となった事自体ではない。なぜなら事が現実性を得て存在する以上、事自体も存在するからである。事自体は、本来あった個別かつ偶然な姿を脱ぎ捨てただけであり、今では一般かつ必然の事の形式として現れる。それは仕事の規則であり、法であり、人倫である。したがって精神の始まりの姿は、教団ではなく人倫にある。ただし精神の姿が教団であるか人倫にあるかに関わらず、一般者の希求が個人の自己否定を引き起こすのであれば、意識の不幸はそもそも成立しない。すなわち例え教団が吸血集団であろうと、共同体が支配者の専制下にあろうと、それへの奉仕は、個人が希求したものでしかない。このようにしてヘーゲルの幸福の哲学は、カントにおける専制の肯定と癒合し、なおかつカントの不幸志向を否定する形で完成する。(2017/11/26)
ヘーゲル精神現象学 解題
1)デカルト的自己知としての対自存在
2)生命体としての対自存在
3)自立した思惟としての対自存在
4)対自における外化
5)物質の外化
6)善の外化
7)事自体の外化
8)観念の外化
9)国家と富
10)宗教と絶対知
11)ヘーゲルの認識論
12)ヘーゲルの存在論
13)ヘーゲル以後の認識論
14)ヘーゲル以後の存在論
15a)マルクスの存在論(1)
15b)マルクスの存在論(2)
15c)マルクスの存在論(3)
15b)マルクスの存在論(4)
16a)幸福の哲学(1)
16b)幸福の哲学(2)
17)絶対知と矛盾集合
ヘーゲル精神現象学 要約
A章 ・・・ 意識
B章 ・・・ 自己意識
C章 A節 a項 ・・・ 観察理性
b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
B節 ・・・ 実践理性
C節 ・・・ 事自体
D章 A節 ・・・ 人倫としての精神
B節 a項 ・・・ 自己疎外的精神としての教養
b項 ・・・ 啓蒙と絶対的自由
C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
c項 ・・・ 良心
E章 A/B節 ・・・ 宗教(汎神論・芸術)
C節 ・・・ 宗教(キリスト教)
F章 ・・・ 絶対知
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