(1)ファシズムの諸形態
近代以前の独裁的秩序は、封建秩序として現れてきた。そしてこの身分制が、この独裁体制と現代の独裁体制の区別になっている。ただし身分制封建秩序は、民意に対して支配者側の意向を強制する。その強制は既に独裁であり、支配層内部の権力集中度、および民意との乖離がその独裁の程度を上下させていた。これに対して近代の独裁体制としてのファシズムは、いずれも一見民主的な国民運動として始まる。しかしそれは、支配層を支えるために国民が相互監視する全体主義国家として結実した。それは歴史的に以下の3形態で現れてきた。
・民族主義ファシズム
・赤色ファシズム
・宗教的原理主義
これら3種のファシズムは、別種の方向から国民運動を形成する。しかしそれらはいずれも、最終的に似たような独裁体制を擁立する。それらはいずれも国民の精神的支配を目指し、その精神的支配の頂点に体制支配層を鎮座させる。もちろんその精神的支配の内容が正当であるなら、その支配も妥当かもしれない。しかしその正当性は、国民により了解される必要を持つ。そしてその了解過程は民主主義であり、それは独裁的秩序と対立する。それゆえに独裁体制における精神的支配は、それ自体が既に不当である。しかも往々にしてその精神的支配の内容も不当である。当然のことながら独裁体制は国民から離反する。もし独裁体制がその不当性を払拭したいのであれば、自ら独裁体制であるのをやめる必要を持つ。しかし独裁体制が独裁体制である由縁は、独裁体制が自ら独裁体制であることに固執することに従う。その固執の背景には、独裁支配層が持つ経済的特権階層としての生活基盤がある。この記事は以下において、これら3形態の成立と相関を確認する。
(1a)ファシズムと民族主義
ファシズムの基調は、国内における異民族の暴力的駆逐と自らの対立勢力の暴力的弾圧、国外における自国権益の暴力的維持とそのための対外的な軍事進出として現れる。つまりその対外的特徴は、民族浄化と侵略的民族主義である。それはイタリアに始まり、より先鋭化してドイツナチズムに伝播し、形態を変えて国家主義や全体主義となって世界を席捲した。その母体イデオロギーは、基本的に民族主義である。しかし民族主義の全てが、このファシズムの基調を目指すのでもない。ファシズムにおける民族主義は、特定階層とその支持層を民族として括り、その利益の暴力的実現を目指す。端的に言うとその民族主義は、特定階層の利害を代弁する一つの経済的な階級意識である。それゆえにその民族主義は、民族の枠にこだわる必要も無く、その範囲設定も恣意的で良い。ちなみにその不明瞭な民族的境界の多くに、宗教の差異が使用される。それと言うのも不明瞭な民族的境界の多くが、宗派境界と重複するからである。逆に言うなら民族間の差異もその程度の差異にすぎない。つまりその差異は、もともと相互対立に値するような問題ではない。このことから現代世界の民族主義の多くを、イスラム宗派が代行する。もちろんイスラム同士の対立では、国内権益の中心にいるイスラム宗派がその排外的中心を占拠し、他のイスラム宗派を弾圧する。また逆に例えばユダヤ教のように、宗教が民族的境界を形成することもできる。したがってその民族的境界は、地域における特定の共通利害を表現するだけであり、実際の民族境界ではない。またそれだからこそ民族主義者は、同じ民族同胞に対しても売国奴とか非国民のレッテルを貼ることができる。このときに民族主義者は自らを愛国者だと信じており、自分の方が国家への裏切者かもしれないと疑うことも無い。ところがその民族主義はその暴力支配によって、逆に自らの民族を非人間的部族に貶める。そしてそのような非人間的部族は尊敬もされず、むしろ軽蔑される。しかもその軽蔑は、他国や他民族からだけでなく、自国民からも注がれる。加えてファシストが行う国民の暴力支配は、経済と文化の発展において足枷となる。したがってファシストは愛国を語りながら、自国の経済的文化的発展を阻害する。ファシストはその行動面において全く国を愛しておらず、自らが所属する利益集団だけを愛している。
(1b)ファシズムと共産主義
イタリアのファシスト運動は、同時期に高揚した共産主義運動の影響下にあり、共産主義の多くの活動形態を模倣した。また実際ナチズムの場合、その党内には後に党内右派に粛清される社会主義者が存在した。ただしその活動形態の類似は、単にファシストが共産主義運動を模倣したことだけでなく、両者の支持母体の共通性にも従う。共産主義とファシズムのいずれにおいても、その運動の牽引者および支持者は、国内において虐げられて不利益を受けていた社会階層である。ただし共産主義の支持母体が無産者であったのに対し、ファシストの支持母体は自己資本を持つ小資本家であった。しかし小資本家は、無産者に対する搾取者にもなる。そして当時の共産主義運動は、資本家の大小に関わらず、搾取する小資本家を容赦無く攻撃していた。それゆえに両者はその類似性に関わらず、互いに相手を敵として憎悪し対立した。一方でファシズムは共産主義のような平等社会の未来像を持たず、科学的合理性への信頼も無い。その運動の根底にあるのは、自らの零落に対する怨嗟であり、無方向な支配の衝動である。その非合理な情念は、人権や平等の理念と適合しない。実際にファシズムは、平等の理念を攻撃し、強者による弱者支配を唱えた。また本来的に社会主義や共産主義は、平等な人権に根差す国際主義である。それに対してファシズムの対外政策は、他民族支配を目指す帝国主義に収斂する。そこでファシズムが民族主義に傾斜するのは、それが人権と平等と競合できる理念を代表するからである。ファシストはその民族主義において、自らの民族的優位を確信している。しかしその確信に特段の根拠は無い。その民族優位性の多くは、異民族に対する自民族のインフラの優位や富裕度に従う。つまりもっぱらその確信は、単純にその地域における土着特権に従う。とは言え民族主義は、それだけだと独裁の根拠として弱い。ファシズムにとっても、民族主義だけを口実にして、同じ国民を弾圧する上で非合理である。それゆえにファシズムは、その粉飾のために社会主義を看板に掲げる。しかしここでファシズムが語る社会主義は、人権と平等を実現するためのものではない。彼らの社会主義が目指すのは、彼らの考える国家権益の実現にある。もちろんその国家権益は、実際には特定の利益集団の権益であり、国民全体の権益ではない。このためにファシズムが掲げる社会主義は、特定の利益集団から外れた多くの人権を、当たり前のごとく侵害する。結果的にその矛盾は、人権の実現を目指すはずの社会主義が、恒常的に人権を侵害する奇怪な事態に至る。そしてそのあまりのギャップのゆえにファシズムも、自らの民族社会主義を本来の社会主義と区別し、国家社会主義を自称した。その呼称は今でこそ排外的民族主義の劣悪思想を表現する。しかしその登場当初の国家社会主義は、共産主義に対抗可能な超人思想としてもてはやされていた。
(1c)スターリン主義
ファシズムにおける自らの零落に対する怨嗟、および無方向な支配の衝動は、共産主義にとっても他人事ではない。それは共産主義において労働者階級の階級的憤怒であり、その理解が搾取資本家に対する容赦無い攻撃を正当化させる。また目指すべき目標が人権と平等な生活の実現であるなら、目的が手段を浄化すると信じられてもいた。そしてロシアにおいてレーニンが赤色クーデターを実現すると、ロシア・ボリシェヴィズムが共産主義を体現するようになった。しかしその共産主義の左傾化は、レーニンにおける民主主義軽視の姿勢を、さらに共産主義陣営内で徹底させる。結果的にそのレーニンの致命的欠陥は、ロシアに人権と平等な生活を実現するどころか、その対極の世界を生み出した。それがソヴィエト・ロシアにおけるスターリンの共産主義独裁体制である。なるほど共産主義は、ファシズムの独裁体制と敵対した。ところが共産主義の独裁体制は、その敵対した体制と差異が無く、むしろもっと非道であった。その独裁体制は国内における他党派だけでなく、自らの対立勢力となり得る党内諸派の全てを暴力的に駆逐した。さらにそれは国内において宗教や文化芸術、社会科学など、自らの対立勢力となり得る全ての思想の芽を壊滅させた。そして国外においてその独裁体制は、旧時代のロシア権益の暴力的回復とそのための対外的な軍事進出を進めた。その対外膨張の理屈では、あからさまにロシアの民族主義が謳われた。しかしそれは、理論としての共産主義と関係無いものであった。結局その共産主義独裁は、民族主義ファシズムを単に共産主義色に染めあげたものとなった。しかしその共産主義色は、それが偽りだとしても、やはりロシアの民族主義独裁を制約する。またその共産主義独裁の成立過程は、民族主義ポピュリズムから生じる民族主義ファシズムと異なる。したがってその差異は、共産主義のファシズムを民族主義ファシズムから区別し、赤色ファシズムとして扱う。しかし共産主義の金看板は、その体制がただ単に赤色ファシズムだと言う真実を覆い隠した。また共産主義者を含めて左派活動家の多くが、その赤色ファシズムを、ロシア共産主義の存命のために必要なものと理解した。この左派活動家の沈黙においても共産主義の金看板は、大きな役割を果たした。結果的に全世界の左派活動家がファシズムを糾弾する中で、ロシア共産主義がもたらした人道的災厄の多くが無視された。ロシア共産主義独裁の真実は、ロシア共産主義独裁が自らに加えた桎梏に耐えきれず、自ら悲鳴を上げたことで、ようやく全世界的な公然の事実となる。しかし第二次大戦後の戦後復興でそれなりにロシアの国力が回復すると、再びロシア共産主義独裁は、ロシア全土をスターリン式独裁の酸欠状態の中に沈没させる。その独裁がもたらす桎梏に対して、再びロシア共産主義自身が音を上げるのは、その30年後となる。ただしこのときにロシア共産主義の方向転換は時すでに遅く、ロシア共産主義体制自体が崩壊した。
(1d)赤色ファシズムとプーチン独裁
ソヴィエト・ロシアの共産主義の金看板は、ロシアの赤色ファシズムの存命に大きな役割を果たした。その一方でその金看板は、ロシアの赤色ファシズムにとって足枷でもある。それは共産主義的平等をロシアの赤色貴族に要求し、赤色貴族の特権を制約する。その体裁を整える上でロシアの赤色貴族の階層は、企業における役職階層よりも、軍隊における指令系統に近いものとなる。またその政策決定の方向も、ファシスト集団の民族的な利益実現ではなく、ロシア共産主義体制の秩序維持とその対外的拡張に重点が置かれた。前者の民族的な利益実現と後者の共産主義体制の秩序維持は、建国当初のソヴィエト・ロシアにおいて多くの点で同一であった。しかしその軍隊における指令系統は、ファシスト集団の個人的な利益実現に対立し、自らを窒息させた。また自由な報道が無い巨大化した体制において、軍隊式の上位下達には限界がある。その現場無視の硬直した指令系統は、一方で体制の末端に進むほどに怠惰と指令無視を蓄積させる。他方でそれは、中間指令系統における汚職と腐敗を生む。さらにロシア権益の地方民族と東欧共産圏への分配は、ソヴィエト・ロシアの大きな負担でもあった。そこでソヴィエト・ロシアがその補正を目指すと、共産主義体制の秩序維持と対外的拡張が、反対に体制の配下にいる民族と東欧共産圏の自立へと作用する。しかしそれは、当時のロシアの民族的利益を損なうものだともみなされ得る。しかもその不協和音は、ロシア国内において進行した地道な国民生活の安定、および西側報道を通じた西側比較での相対的貧困の露呈により増大した。そしてそれは、ロシアの指導部と軍部の対立に発展し、最終的にソヴィエト・ロシアを崩壊させた。ちなみに北朝鮮のウルトラ・スターリン主義体制の存続を可能にしたのは、国内における国民生活の安定の遅延であり、その絶対的貧困を暴露する西側報道の侵入阻止である。そのどちらが崩れても、おそらく北朝鮮の独裁体制の存続は難しい。この旧ソ連や北朝鮮に比べると、中国の赤色ファシズムの行方はまだ流動的である。中国における情報統制は旧ソ連よりゆるやかであり、民主化を含めた中国近代化の必要についても、共産党内に常に理解者が現れてきた。その歴史的経緯が、中国の流動性を支える。それゆえに中国共産党独裁政権に対する現在の対応についても、中国がポスト習近平時代という形で、民族主義と国際主義のどちらの方向にふれるかの見極めを要する。一方でロシアは共産主義の金看板を失うことにより、その赤色ファシズムを民族主義ファシズムに純化させる国内基盤を得た。ロシアの特権集団は、今では平等や革命などの共産主義的使命を気に掛ける必要も無い。彼らは純粋にロシア民族主義を謳うことで、自らへの利益集約を可能にしている。実際にプーチンの狙いも共産主義の復権ではなく、純粋にロシアの民族的栄光の復活である。またそもそもプーチンは共産主義を嫌い、独裁に抵抗する貧者による革命一般を否定している。彼がスターリンに興味を示すのも、ただ単にスターリンにおける赤色ファシズムを尊敬するだけの理由に従う。
(1e)宗教的原理主義
独裁的秩序の転覆に必要なのは、独裁的秩序に対抗する革命集団の擁立であり、その維持と拡大である。ひとたび革命集団が擁立されれば、独裁的秩序の下での不合理な貧困と差別が、むしろその革命集団の増大に作用する。ただし貧困と差別に苦しむ者が革命集団の側に合流するのは、彼らが自らの苦悩の原因を独裁的秩序に見出す場合に限られる。ところが不合理な貧困と差別に苦しむのは、もっぱら無学で粗暴な底辺世界の住人たちである。そしてその無学と粗暴が、往々にして彼らをそのまま底辺世界に押し留める。それどころか彼らにおける自らの零落に対する怨嗟、および無方向な支配の衝動は、むしろ彼らをファシズムに誘う。このときに独裁的秩序の支配層が彼らを積極的に支援して自らに癒合するなら、無学で粗暴な底辺世界の住人たちは独裁的秩序の支配層に加わり、その独裁的秩序を補強する。それゆえに発展途上国における革命は、貧者における階級的怨嗟を正しく特権支配層の側に向けさせるような単純な説明を要する。そしてその単純な説明に適した思想に共産主義が選ばれてきた。ところが共産主義の看板の腐食は、世界の民衆を共産主義から離反させた。それでもここで必要なのは民主主義革命であり、共和制の実現である。しかし独裁的秩序の転覆に必要なのは、先に示した通り、やはり独裁的秩序に対抗する革命集団の擁立とその維持と拡大である。ところがその主体となるべき民衆において民主的であろうとする部分は弾圧され、他方の部分が愛国ファシストに転じて独裁的秩序を支持する。結果的にその革命主体の不在、および共産主義の歴史的後退は、不合理な貧困と差別に苦しむ民衆に、非民主的かつ非愛国的かつ非合理な革命主体を擁立させる。そしてもっぱら宗教がそこに現れる。それはもっぱら宗教的因習に従う伝統的な家父長的社会秩序として現れる。その非民主性を支えるのは、硬直して定型化した社会原理である。その原理は定型化しており、話し合いを要しない。そして話し合いを要しないがゆえに、その革命集団において個々のメンバーは消耗品となる。その革命集団において骨となるのは、原理的な社会秩序の思想である。一方でこの革命集団の非愛国性は、既存の支配層の代わりに神の信託集団を国家に据える。つまりその革命集団は、既存国家への反逆において、個々のメンバーに新たな国家を与える。結局その革命主体は、既存の愛国ファシズムが支持する支配集団の代わりに、異なる支配集団を擁立しただけの別種の愛国ファシズムにすぎない。またすぐ判ることだが、その革命集団の活動形態と組織方針は、レーニン型ボリシェヴィズムである。つまりその別種のファシズムは、没落した共産主義の代わりに、宗教的原理を革命思想に据えただけの別種の赤色ファシズムでもある。ただ赤色ファシズムと違い、この原理主義ファシズムは、民族主義ファシズム以上に平等社会の未来像を持たず、科学的合理性への信頼も無い。おそらくその擁立する未来社会像は、イラン式の原理主義聖職者集団の宗教的専制国家、またはサウジアラビア式の宗教的君主国家である。そしてその科学的合理性の欠如は、自己破壊的なカルト式熱意において、他宗派と他民族、および体制内の民主主義者の殺戮を正当化する。当然ながらその話し合いの否定は、他の民主国家との話し合いを否定するだけでなく、宗教的原理主義者同士の話し合いを否定する。したがって彼らは、紛争の終止符の打ち所を知らない。つまり共産主義の歴史的後退は、旧時代の悪鬼を現代に蘇らせるものとなった。
(2)ファシズムにおける観念論
ファシズムは国民の精神的支配を目指し、その精神的支配の頂点に体制支配層を鎮座させる。その支配の不当性は、民主主義の不在にある。そして民主主義の必要は、独裁支配層の経済的特権が持つ不当性暴露の必要に従う。加えてその不当性暴露を可能にするのは、自由な報道である。自由な報道が目指すのは事実報道であり、思い込みの虚偽ではない。端的に要求されるのは対象の物理認識であり、その言い訳ではない。これに対してファシズムは、言い訳を通じて対象の物理的様相それ自体の隠蔽を謀る。そしてそれを推し進める形で、ファシストは事実報道を遮蔽し、自由な報道を窒息させる。この自由な報道の欠落は、そのまま民主主義を不可能にする。ここに待ち構えているのは、階級対立が対象認識を不可能にする認識上の困難である。マルクスにおける哲学者としての問題意識もここにあり、彼が共産主義革命を提示したのもその解決指針に従う。ファシズムにおける対象認識の遮蔽は、その成長過程に連携している。以下にその成長過程を確認する。
(2a)ファシズムと民主主義
民族主義ファシズムは民主主義ポビュリズムの中から発生する。彼らは弾圧されてもいないのに、自ら挑発的暴力を繰り返して鎮圧され、それを政治的弾圧とみなして抗う。彼らにとって批判一般は自らの信条への脅威であり、その批判を暴力で封じ込める。その言論弾圧は、ファシストが権力の座に近づくほどに過激になり、最終的に批判者を他民族の外国人、または外国の手先とみなして収容所に収監し、処刑する。この民族主義ファシズムは、もっぱら実在したことも無い理想的な過去の復元を目指す。もちろんその非現実な復古主義は、宗教的原理主義においても変わらない。その理想的過去は、民族主義ファシズムにおける民族的栄光と同様に、実は極悪な過去を逆に美化して生まれた幻影である。それゆえに両者はともに、伝統的な強権的家父長秩序の復活を目標とする。単純に言うとその目指す目標は、強者による弱者支配である。いずれにおいてもその背景にあるのは、自らの零落に対する怨嗟、および無方向な支配の衝動である。一方で宗教的原理主義は、赤色ファシズムと同様に、民主主義ポビュリズムの中から発生するのでなく、もっぱら既存の独裁的秩序に対する転覆要求から生じる。そしてそれらの背景には、民主主義の未発達な社会状態がある。しかし革命集団の目標が独裁的秩序の転覆なら、その転覆後の社会秩序は、独裁の対極である民主的秩序となるべきである。このときに革命集団が集団外からの批判を許すのなら、自らの集団内部からの批判を許さないのは、不合理である。それゆえに革命集団が民主的秩序を目指すのなら、その革命集団はそれ自身が民主的である必要を持つ。この場合に宗教的原理主義であろうと、赤色ファシズムであろうと、その当初は民主的でなければいけない。とは言え、組織における批判の抑制は、その組織に迅速な行動を与える。その一方で批判の抑制は、組織行動の柔軟性を奪う。それは組織内外の問題検討を不十分にし、その問題対応を困難にする。それゆえに独裁体制においてさえ支配層は、自らの周辺に有識者を必要とする。当然ながらこの自由な意思疎通は、民主的組織ではさらに必要とされる。理想を言うとそこではメンバー全員が個々に有識者となる。ところがこれらの民主主義の必要は、やはり意思決定の遅延をもたらす。そしてその遅延は、革命集団の迅速な局面打開の対応において命取りである。ただし一般的な運動方針は、必ずしもそのように局面打開の迅速性を必要としない。それが要請されるのは、革命集団に対する独裁体制による弾圧への対処である。革命集団における組織防衛の必要は、革命集団内部における民主主義を制約する。それは革命集団に対し、メンバー間の自由な意思疎通を制約し、指揮系統を分裂させることにより、摘発時の被害を局所化する組織形態を選ばせる。この場合に上位組織を防衛するために、その指揮系統も旧式軍隊の上意下達になる。しかし端的に言うとこの組織形態に組織方針を話し合う余地は無く、したがって非民主的である。民主主義を目指す革命集団が、非民主的になるのは矛盾である。そしてこのジレンマが、革命集団自体を非民主的に変質させる。その変質の背景には、革命集団内部における支配層の不当な経済的特権が控えている。ちなみに組織防衛のために必要だった民主主義の制約は、少なくとも革命集団が政権奪取した後に不要となる。それゆえに革命集団が政権奪取した後に民主主義に制約をかけるのは、その革命集団自体の虚偽性を表現する。
(2b)ファシズムと善
独裁的秩序がもたらす不合理な貧困と差別は、自らの零落に対する怨嗟、および無方向な支配の衝動と癒合して新たなファシズムの芽を生む。その一方は既存秩序を補完する愛国に純化し、他方は既存秩序を破壊する反体制的情熱に純化する。ただしいずれの情熱においても、その正当な部分はファシズムに進まずに、民主主義の実現に進む。両者に共通するのは、その不幸な境遇に対応した自らの空虚であり、その虚無の代償を得ようとする渇望である。もしその渇望が単純な自己富裕の実現に留まるなら、そこに特段の善は必要とされない。しかし不合理な貧困と差別にある者は、そもそも普通の暮らしでさえままならない。このときに物理的富裕から見放された人間が目指すのは、精神的富裕である。そこに現れるのは、物理的価値ではなく精神的価値であり、すなわち善である。またそれゆえに人は、不合理な貧困と差別の中にあっても悪徳の中に身を委ねず、逆に悪徳を避ける。しかし人が虚無の代償に善を得ようとするほど、その善の純粋さが人を自己否定に追い込む。そしてその自己否定は、その個人における善に対する滅私奉公として現れる。特に不幸な境遇にある個人にとって、否定すべき自己はもともと既に無に等しい。むしろ失う者の無い無産者の方が、容易に善を通じてより大きな価値を手にする。それどころか失う者の無い無産者は、自らの生に絶望しており、死に場所さえ求める。その死の代償が善であるなら、彼は容易に死を望む。もちろんその典型例は、原理主義における自爆テロであり、そもそも原理主義が手本にした民族主義や共産主義における自己犠牲行為である。いずれにおいても絶望は人に対して、命を賭した挺身行為に誘う。ところがその命がけで得た善が本物の善であるかどうかは、また別の問題である。もしその行動が本物の善を実現するなら、その死も無駄にならないかもしれない。しかしそうでなければ、その死は無駄であり、場合によって正反対にそれは悪を実現させる。厄介なのは、命を賭した挺身行為を行う個人が、ただ単に死にたいだけであり、死ぬ口実として既存の正体不明の善を使う場合である。その場合にその善の真偽は、彼自身にとってもどうでも良い。このときに彼の対他存在は、結果の生死に関わらず、その虚偽の善を信奉する組織において聖人となる。しかし彼が本物の聖人であるかどうかは、相変わらず別の問題のままである。ここで必要となるのは、既に善ではなく、真理である。それは意識が捏造するものではなく、物理が構成する。その物理は、情報の直接性と量を必要とする。その情報量は一方で空間的量であり、他方で時間的量であり、同時に広がる事実の連鎖と時間経緯において整合する必要を持つ。そのような情報全体の体系だけが、その個々の情報間の整合性確認を通じ、物理的真に近づく。
(2c)ファシズムと真理
ファシズムの信じる善は、物理的真に対立する。単純に言えばファシズムの善は意識の捏造であり、単に思い込まれただけの嘘である。それは直接的情報とその量と整合せず、逆に直接的情報とその量がその嘘を露呈させる。それゆえにファシズムは情報一般に敵対し、自ら信じる嘘を正しい情報と称して外部世界に流通させる。このときにファシストの組織指導者は、自らに都合の悪い情報を組織内で沈黙させる。しかしその同じ情報は、組織外からも飛来する。それゆえにファシストが国家を支配するなら、国内におけるファシズム組織に対する不都合な情報の全てを暴力的に封じ込める。さらに彼らは国外からの情報を遮蔽し、国外情報が同調する国内批判者を外国諜報機関の代理人とみなし、売国奴に仕立て上げる。一方で自由な報道とは自由な表現であり、自由な表現は虚偽表現を含む。もともと物理的真は、その実態と正反対に現象することも多い。それゆえに直接的情報と言えども、往々にしてそれは単独で虚偽となる。そのために直接的情報は、事実の連鎖と時間経緯において整合する必要を持つ。このことは表現が虚偽になる一般的な可能性を示す。それゆえに端的に言うなら表現の自由とは、虚偽を述べる自由でさえある。しかし虚偽表現は正される必要がある。ただしその否定は、物理的暴力によって行われるのではなく、対抗する正規表現と話し合いが行う。ここで虚偽表現を是正するのも、事実の連鎖と時間経緯における整合性に従う。それが期待するのは、納得による虚偽表現の自己縊死であり、自然死である。そうでなければ虚偽表現の暴力的否定は、そのまま表現の自由の否定に連携する。ところがファシストは、この虚偽表現の補正必要を逆手に取る形で、ファシストに都合の悪い自由な表現の全てを弾圧する。実際にはそこでファシストが恐怖する対象は、自らの嘘の露呈であり、自己欺瞞の自覚である。その自己欺瞞は、例えば勝てば官軍であるとか、信じ続けた嘘は真実に転じるとかの虚偽格言に自らの居場所を求める。それが表現するのは、真理は意識であり、意識が真理を規定すると捉える観念論の王道である。しかし物の見方を変えたところで物理的真は変わらない。主権国家を侵略したのはロシアであり、ロシアが加害者でありウクライナは被害者である。不幸の現実を思い込まれただけの幸福に塗り替える虚言を、物理的真は許さない。またその自覚があるからこそロシアファシストは、ウクライナで起きた戦争の真実をロシアの自国内から排除する必要を持つ。おそらく現代の戦争に対する正しい方策は、そのような現実をファシズム国家の国内にあますことなく流布させることである。そして現代世界は、この方策を実現する強力な武器としてインターネットを生み出した。ところが現状を言えばインターネットにおいてさえ、相変わらずそこにファシストによる情報防衛網が構築されつつある。また一般的見解とか学問的見解と称する情報も、実際にはそもそも多様に満ちて対立し合っている。しかも貧困が蔓延する独裁体制下では、外国語翻訳の困難だけでなく、そもそもインターネット自体が完備されていない。そして戦争が終結していない現実も、この世界における事実情報の基盤的欠落を表現している。
(2d)真理と良心
上位階層への批判や指摘が不可能な国家では、そのような情報発信行為が発信者の命取りとなる。そこでは上位階層の問題を改善できず、現場無視の指揮系統の責任を誰も取らない。当然ながらそのような国家では、汚職と腐敗も批判されずに放置され、蔓延する。そしてその腐敗は最上位階層に集積するので、最上位階層における中心的指導者でさえ、その利害対立の中で抹殺される事態が生じる。このような事態は、国家水準の場合に限らず、非民主的な革命集団内部の職業的革命家の間でも生じる。ただし革命集団における汚職と腐敗は、単なる組織上位階層の生活利益により生じない。そのような上層部の生活利益を追求するだけの革命集団は、暴力団やネズミ講と同様の、不法な経済的搾取集団と変わらない。もともと革命集団のメンバーが期待するのは、やはり悪に対抗する善である。そしてその善の対極にある悪を、独裁体制が体現する。それゆえに非民主的な革命集団におけるその特異な汚職と腐敗は、そのスローガンとする独裁体制との対決において先鋭化する。一見するとそれは組織における汚職と腐敗ではなく、むしろ民族主義や共産主義、または宗教における自己犠牲的献身の深化である。さしあたりその汚職と腐敗は、集団指導部における物理生活的な私的資産の取得に進まない。しかしその代わりに集団指導部は、精神的資産を取得する。その精神的資産は、民族主義や共産主義、または宗教の自己都合的解釈である。しかしそれは、その解釈の徹底を通じた組織内権力の私物化となる。そして結局その精神的資産の私物化は、物理生活的資産の私物化に転じる。本来なら革命集団の自己犠牲の献身相手は善であり、集団指導部がその善を体現する。ところがその集団指導部が批判や指摘を免れていれば、その集団指導部が善を体現しているのかも怪しい。そして集団指導部が汚職と腐敗にまみれているなら、その自己犠牲的献身も、集団指導部が提唱する善を実現するだけになる。そして集団指導部が提唱する善が実は悪なら、その自己犠牲的献身も、実際には善ではなく悪を実現することになる。このときにその革命集団は、その過激なスローガンと正反対に、暴力団やネズミ講と同様、あるいはもっと不法な経済的搾取集団に転じる。この場合に末端メンバーは、善が実現すると信じながら、悪を実践する。ここでの集団指導部が行う善の粉飾は、末端メンバーを現実乖離に晒す。しかしもっぱら末端メンバーはその現実乖離を、集団指導部が示した組織方針に従って無視する。このときに彼の心を支えるのは、悪を善に塗り替えることへの無反省である。そこには物理の塗り替えを意識の勝利と勘違いする間違った観念論がある。ところが良心は真理の側に立っており、真理だけが良心の声として現れる。もちろんファシストも、自らの行為を良心に従ったと思っているであろう。しかしそうであるならファシストは、真理の隠蔽に走る自らの行動様式を説明できない。このときに隠蔽される物理的真は、ファシストに対して良心の声として現れる。したがって真理を隠蔽するファシズムは、自らの思惑と逆に良心の声の対岸に立つ。その虚偽と真理の両岸を隔てる深淵を構成するのは、相変わらず経済的階級の差異である。
(2024/01/14)続く⇒ロシアン・ファシズムの現在(2)
英語版(1a)⇒The present state of Russian fascism (1)
英語版(1b)⇒The present state of Russian fascism (2)
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