客体による支配に対し、意識の自由を可能にするものは何か? それについての筆者の回答は、客体の支配の無効化であった。そして筆者はこの無効化を、単に意識の自由を可能にするものではなく、意識それ自体を可能にするものだとみなした。このような筆者の考えは、客体に支配された意識をそもそも意識と扱わないことに由来した。しかしこのような是非論に対して、そもそも客体の支配が許す範囲で、最初から意識の自由は可能だったのではないのか、という疑問が当然湧き上がってくる。この疑問は、この考察の始まりに想定した意識の自由についての可能性への問いかけ自体を無意味にするものである。そしてこの疑問は、上記の筆者の回答に対して、客体の支配の無効化を実現するのも、やはり意識なのではないのか、という反論を生むことになる。言うなればこの疑問は、神的意識が物質を生み出したとする観念論、もしくは原初からの意識と物質の共存を想定した二元論に通じている。
ただしこの疑問に対して、筆者はすでに考察の中で、不完全ながらその外堀を埋めている。なぜなら、原初からの意識と物質の共存を認めることは、人間的意識を物体や動物に対しても認めることに等しいからである。もちろん人間と物体、人間と動物の区別についての検討は、まだ不十分なままである。それでも人間的意識のみを意識と認めるなら、その意識は客体の支配に耐えられない限界で消滅することも理解できるはずである。そしてそのとき人間的意識は、動物的本能、または単なる物理反応に成り下がるはずである。言い換えるなら、客体の支配が人間的意識を許容する範囲でのみ人間的意識が可能であり、客体の支配が人間的意識を許容しないなら人間的意識は不可能なのである。これは、客体の支配の無効化が意識の自由を可能にするという筆者の結論と何も変わっていない。筆者は既に、物体における人間的意識という無意味な理屈について、ブログの別の記事(物質と意識)でその馬鹿馬鹿しさを取り上げた。物理反応も本能も、人間的意識とは別物である。そのように原初から意識を物質と共存させようとする考えは、原子を延長と魂の混成体に扱ったスピノザ唯物論の単なる復活だとも言える。もしそれが、意識存在を物質存在に先行させようとするものであるなら、シェリングの宇宙意識やヘーゲルの絶対理念の焼き直しである。これらを避けるとするなら、動物や物体における意識的なものを、単なる物理運動か、それが発展しただけの本能に扱う必要がある。
しかし、客体による支配に対して最初から意識は自由なのではないか?と言う疑問には、上記の答え方では回答にならないような別の重要な内堀がまだ残っている。
人間的意識は、客体の支配下にあっても、客体による支配を離脱する力を秘めている。例え肉体的に死滅しつつあっても、意識は時空を超えた世界を散歩できる。このことは人間的意識の特異性と言って良い。それが意味するのは、古来から使い古された表現の通りに、人間の本質は自由だということである。逆に言うなら、自由ではない人間は、人間ではないことに帰結する。この意識の自由をさらに言い換えるなら、意識は自己原因だと言っても良い。人間とは、精神であり、自己であるとキェルケゴールは示した。それは自由ではない意識もまた、意識ではないことに帰結する。ただし必ずしもこの事実は、客体による支配の無効化において人間的意識を成立させようとする筆者の見解に対立するものでは無い。人間的意識の自由は、人間の本質を示す重大な事実である。しかしそれは、意識が物質に先行して存在するのを示していないし、肉体を離れて意識が存在可能であるのを示していない。そのような人間的意識のもつ先験性の錯覚は、その非物質性に根差している。
もともと作用主体による作用対象への関わりの原因は、作用主体にある。肉体としての作用主体が、世界としての作用対象に関わるのである。一方で意識は、自らを主体として理解している。ところが意識は、作用主体と作用対象に挟まれるその間隙に巣食うものである。つまり意識は常に、関わりの原因より後に発生する。自らを主体と理解するなら、意識は自らの位置をその間隙に置くわけにいかない。この作用主体は物質にすぎないものである。意識は自らを物質ではないと思っているので、この作用主体と同化するわけにもいかない。意識に残っている自らの居場所は、作用主体が関わりを開始する以前となる。
このような意識の因果の観念論的逆転は、関わりを常に自らの自発性のもとに行う錯覚を生む。ところが人間的意識は、この錯覚を本物にし始める。資本論流に言うなら、W-G-Wが、G-W-Gになってゆくのである。ハイデガーの表現で言うなら、投企的被投が、被投的投企になってゆくのである。ただしこの例えは、資本論の記述不備まで継承するので、あまり良くないかもしれない。というのは、資本循環全体での金融資本の役割はG-W-Gであるが、金融資本も産業資本であるのに変わらないからである。つまり金融資本であってもその資本循環の本質は、産業資本と同様に、W-G-Wだからである。それと同様に人間的意識も、実際に自らの居場所を作用主体が関わりを開始する以前に置くことはできない。意識にできるのは、作用主体へのキックバックを通じて、作用主体と作用対象に挟まれる間隙をより充実させることだけである。
人間的意識として現れる以前の意識は、作用主体と作用対象という客体に支配されるような、意識と呼ぶに値しない単なる物理運動である。この状態で意識が人間的意識として存在可能だとしても、その意識にはせいぜい客体の因果律を、あたかも自らの因果律だと思い込むのが関の山である。ところが客体の因果律と意識の因果律が対立する事情が生まれるなら、話が変わってくる。人間的意識は、客体支配の無効化とともに生れ出る。生まれ出た時点の人間的意識はまだ、次のこと以外に何も所持していない。その唯一の所持品とは、自分が客体の因果律から自由だという事実である。そしてこの事実を人間的意識は、意識と存在の一体化と理解する。この一体化した“我思う”と“我在り”は、人間的意識において、その生誕において疑念を挟む余地の無い事実として現れる。しかもこの事実は、人間的意識の生誕とともにすでに与えられており、それは経験的事実ではなく、先験的事実として現象する。そのことにおいて人間的意識は、自らを自己原因と確信する。しかしこの確信に従う人間的意識の挑戦は、ことごとく客体の支配に対して敗北する宿命にある。赤ん坊ではない大人にしてみれば当り前のことなのだが、自らを自己原因とみなす確信は、意識自らの単なる思い上がりにすぎなかったのである。ただしこの意識の挫折は、意識に客体と自らの区別を確信させ、意識に他者という存在を与えることになる。
前の記事(意識3:意識独自の因果律)では、客体による支配の無効化が意識自由を可能するのを説明した。しかしそこでの説明は、意識自由の現実化を説明するのに不十分なものであり、特に意識が持っている先験的自己原因性に対する説明が必要であるように見えた。そのことに対して筆者は、ここでの考察における唯物論的説明で決着をつけられると考えている。
ただしここでもまだ、課題となっていた人間概念の検討に入ることはできない。というのは、これまでの説明の中では、客体や他者をただ単に意識と異なるもの、つまり物質や対象化された関係にみなしているという粗雑さを放置してきたからである。サルトルは、ヘーゲルの絶対理念の始元に対し、存在のうちに区別という形で無を素知らぬ顔で持ち込んだと非難した。この非難は、筆者のこれまでの人間的意識の考察にも該当している。というのは、筆者は意識のうちに、客体や他者という形で物質を素知らぬ顔で持ち込んでいるからである。このような粗雑な表現は、作用主体に対する肉体という表現のあいまいさにも現われている。そして実際にこの肉体という表現は、作用主体における所与の扱いを説明する手間を、筆者が面倒がっただけの表現であった。同様に客体の説明の欠如も、意識と客体の区別に対する自らの了解を前提にしている。いずれも哲学的考察として手前勝手な記述要領である。これまでの考察をより確固としたものとするためにも、筆者にはこれらの点について次にある程度の説明をしておく必要がある。
(2012/03/01)
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