C章B節の実践理性で世俗と徳の統一を示したヘーゲルは、善の実現を人倫的共同体に見出す国家論へと弁証法記述を進める。ここでは、理性から精神へと至る橋頭保でもある精神現象学のC章C節を概観する。
[C章C全体の概要]
自己自身を否定した自己意識は、次に観察理性において自己自身を物として確信した。しかし自己意識は、実践理性において自己自身を全実在として確信することで、自己自身の全面肯定に回帰する。そこでの自己意識は、手段を媒介にして自ら立てた目的を現実にする自由な個人である。その目的を規定するのは個人の関心であり、手段を規定するのは個人の才能であり、この関心と才能の両者が個性の内容になっている。ただし実際にはそのいずれもが、個人を取り巻く環境に規定されている。しかも個人の行為において現実化した仕事は、個人の元を離れて一般者として振る舞う。したがって個人は、自らの思惑と裏腹に一般者に規定されており、せいぜい一般者の外化における媒介でしかない。個人の目的と手段と行為も、一般者の実現における偶然な契機に過ぎないわけである。しかし仕事の現実は、単なる成果としての仕事ではなく、これらの契機の統一である。それこそが個人を規定した一般者であり、個人が現実化した事そのもの、すなわち事自体である。それゆえに事自体は現実と個人性の統一であり、事はそれについての意識の確信として現れる。すなわち事は、物のような単なる対他存在ではなく、自由な対自存在である。そしてこれにより自己意識は、実体へと到達する。カントにおいて不可知とみなされた物自体は、ヘーゲルにおいて可知な事自体に置換されたわけである。しかしこの自己意識は、まだ実体についての直接的意識であり、事自体から離れて些末な事を追いかけ回すだけの糞真面目な意識である。それゆえに主語に現れるのは個人であり、事自体ではない。しかし行為の完遂において個人の自己満足は露呈するものである。またその経験が、最終的に事自体を主語に置き換える。この事自体は、個人の区別を自らの内容にしたカテゴリーとして現れる。すなわち事自体は人倫的実体であり、そのカテゴリーはアプリオリに承認された法則である。それゆえここでの自己意識も、そのアプリオリな法則を知っていなければならない。ところが実際に自己意識の知るアプリオリな法則は、自己矛盾の排斥だけである。それでも立法と司法について自己意識が語ろうとするなら、それは事自体から離れて些末な事を追いかけ回すだけの糞真面目な意識となるのが関の山である。それが生み出す法則は暴君的悪法であり、その裁きは屁理屈に留まる。しかし実際の事自体は人倫的自己が承認する現実世界にあり、法則はそれに従う。それは実在する個人から遊離し、不可知な実在を追い求めさせるような信仰ではない。
0)個人と一般の融和
実践理性において自己意識は、自己自身を単に物として確信するのではなく、全実在として確信する。またヘーゲルによれば、それにおいて一般性と個人性は相互に浸透する。かつて自己意識において自己自身を単純に肯定した自己意識は、観察理性において自己自身を否定し、自ら否定性として現れた。ところが自己意識は、再び自己自身の全面肯定に回帰するわけである。それゆえに自己否定的現実に対して理性が立てた目的も、結果的に現実と融和することになる。このなし崩し的な妥協では、行為だけが現実であり、その目的は個人性の伝達である。またこれまでの自己意識の変遷も、全てその統一を類にしたカテゴリーとして整理統一される。それゆえ個人の現実性はこの統一の内にあり、その行為の内容も統一された形式に吸収されている。形式に吸収されない内容として残るのは、形式に対立し単独に現れる個人だけである。
1)本源的本性としての個人
一見すると個人の行為は全て自由であり、個人はそれを自己制御している。ところが個人が思い込む自らの絶対的実在性は、運動の結果に過ぎず、それ自体は自己関係としての否定でしかない。自由なはずの個人の目的は、実際には否定態一般が個体に応じて浸透してきただけのものである。それは始めに目的として現れ、手段を媒介にして個人から外化する。しかしその内容に何も変化は起きていない。そこでの実在は個人の天賦の才能だけであり、意識はそれ以上の内容を持ち得ない。したがってその内容は、目的として現れた段階で既に現実であり、行動はそれを生成するだけである。なるほど意識は、目的の外化を通じて自己自身を知るように見える。しかしその始まりである現実的環境は、もともと個人の現実的関心の内にあった本源的本性である。このような事前決定は、目的だけでなく、その手段についても該当している。違いがあるのは、関心が目的の内容を決定するのに対し、才能が手段において行為を決定することだけである。そしてこの関心と才能の両者が、存在と行為の相互浸透において個人性そのものとなっている。したがって個人性の現前の順序は、最初に環境であり、関心であり、行為である。ただし最後に外化した仕事は、既に一般的なものであり、個人の元を離れる。それにより個人は、仕事において自己自身の評価を可能にするだけでなく、他者の評価をも可能にする。ちなみにここでの仕事評価と善悪の倫理評価の間に差異は無い。いずれにおいても、その結果は個人の本源的本性の実現であり、つまりは環境が個人として現出しただけのものにすぎない。したがってそれらの評価も、せいぜい行為した個人がその正否を自体的に解釈するだけである。
2)仕事として現れる存在と行為の統一
仕事は、個人が自らを一般性に押し出した個人の対他存在である。しかし行為結果として仕事を規定した個人の否定性はと言うと、それは既に消失している。また仕事に結実している個人の関心も、他者の関心に置き換えられる形で実際には消失してしまう。したがって仕事には行為と存在の間、つまりはそれを為した個人の目的と結果の間にギャップがある。ただしそれは、個人の本源的本性と仕事自身の形式の間のギャップとしてもともとあったものである。このギャップは、上述で見たようにその内容に変化はないので、実際にはギャップではない。個人の本源的本性は消失する契機に過ぎず、その現実は仕事としてのみ残るからである。一方で消失したとは言え、やはりそれらの契機は互いにギャップを抱えているようにも見える。例えば仕事の実在性と概念は、仕事の内容において個人の本源的本性と目的として分離しており、同様に仕事の行為においても目的と手段として分離している。さらにこれらの契機全体と仕事の現実もそうである。しかしこれらのギャップも、行為における偶然に含まれるものに過ぎない。別にそれによって、仕事における行為の統一と必然が消え去るわけでもない。必然とは、偶然を凌駕するから必然なのである。したがって仕事の現実は、個人性が持っている概念を超える威力を仕事に与えている。しかし今ではこの現実も、単独では意識自身において既に消失して行く契機に過ぎない。真理は、仕事の契機と行為の統一の内にある。そもそも意識にとって現実は、意識の確信に対立する。真の現実は、本源的本性として現れる存在、および目的として現れる行為の統一であり、目的として現れる意欲、および手段として現れる遂行の統一だからである。したがってこの統一こそが真の仕事であり、事そのものとしての事自体である。それは環境や手段や現実の偶然性から独立した持続する存在である。
3)一般者としての事自体
事自体は、現実と個人性の統一である。したがってそれは、純粋の行為一般として個人の行為であり、また目的でもある。しかもそれは現実化でもあるので、事自体はそれ自身が現実である。そして事とは、この事自体についての意識の確信である。事は感覚的確信と知覚において現れた物と同様に、経験において真理の勝ち抜き戦の勝者として意識が生成する真理である。ただし物が対他存在であるのと違い、事は自由な対自存在である。一方で事自体の把握において自己意識は自己の実体に到達したので、今では自己意識はそれ自身が実体となる。ただしこの自己意識は、実体についての無媒介な意識であり、真に実在的な実体ではない。すなわちそれは、個別の契機を述語としてのみ表現するのだが、主語は個人や特定の他者のままであり、事自体を主語として表現するに至っていない。事自体は個別の契機を種とした類であるが、肝心の種からまだ自由なままである。ところがこのような事自体に根付いたはずのカント式の糞真面目な意識は、個別な契機を追いかけ回してしまう。事自体は類なので、その意識はその都度に個別の契機を述語に使い、事自体を仕立て上げることができる。しかもこのときの意識は、例えそれが行為の結果を伴わない純粋な行為になったとしても、その駄目な仕事を自己満足する。ここでの目的や行為や現実などの諸契機の選択的排除は、恣意した個人自身と他者の両方を騙す。このような総合の欠けた思想は、抽象に留まる個人の行為を通じて行為一般と言う現実に突き当たるしかない。それゆえに騙された個人自身または他者が次に目指すのは、その純粋な行為の完遂である。ここでは、騙された者も実際には騙されることに自己満足するだけの共犯者である。そしてもっぱらその行為の完遂は、実現された事自体が単なる自己満足に過ぎなかったと言う現実を露呈する。ただし逆にその完遂を通して、意識は事自体の本性を経験する。それは、個人のみならず他者をも契機にして、事自体が事として対他存在すると言う現実である。すなわち個人も他者も主語ではなく、主語は事自体なのである。事自体は個人性に浸透された一般者であり、その純粋な姿をカテゴリーとして現す。そこで次に問題となるのが、そのカテゴリーの中身である。
4)立法的理性と司法的理性
単純な精神的実在は、自己意識としてある純粋意識である。そこでの個人は、ただの一般的自己である。それに対して形式的な事自体における個人は、個性的自己である。その個人の区別は、事自体の内容になっている。また事自体が現すカテゴリーは、対自において得た自己相当性において絶対的である。したがって事自体は人倫的実体であり、事の意識は自己を対象にする人倫的意識である。またこの人倫的実体の法則は、アプリオリに承認される。一方で、個人の自己意識は人倫的実体の対自存在であり、結局は人倫的実体に属している。したがって自己意識も、人倫的実体の法則をアプリオリに知っている立法的理性だと考えられる。すなわちそのアプリオリな法則は、定言的命令として現れなければならない。しかし定言がアプリオリであるためには、定言の持つ表現に不備があってはならない。定言の不備は、その定言の先験性に反するからである。ところが定言が経験的対象を持つとすれば、定言は対象の偶然性において、経験性を持たざるを得ないし、当然ながら不備を持つ。それゆえに定言がアプリオリであるための条件は、定言の対象もまたアプリオリなものに限られてしまう。しかしそれは、内容に対するものではなく、形式に対するだけの無内容な定言に留まる。そのような定言が目指すのは、せいぜい自己矛盾の排斥ぐらいである。つまりその理性は、実際には立法的理性ではなく、司法的理性である。ところが司法的理性はどうかと言うと、それも立法的理性と同じ要領で空疎なものである。もともと単純な人倫的実体は、内容に関して自由な形式的一般性である。そこでは一般性が意識に現れる場合、特殊に対抗した威力を持つ類として現れる。したがって内容と一般性は、対立するものである。ところが立法的理性における一般性は、形式的な精査に留まり、内容的な精査に踏むこむことをできない。つまり形式は内容を受容しており、内容の形式性だけを精査する。結果的に司法的理性は、正反対の主張も受容するしかない。したがって司法的理性は、立法的理性と同程度に、人倫的実体の根拠および法則の理解にとって無益である。
5)自己意識と人倫的実体
立法的理性と司法的理性は、上記に登場した糞真面目な意識の二形式である。ただし既に見た糞真面目な意識が個別の契機の間を恣意的に浮遊していたのに対し、ここでの糞真面目な意識は個別の法則の間を恣意的に浮遊している。したがって直接的な立法は暴君的悪法であり、直接的な司法は屁理屈でしかない。それらは人倫的実体と異なるものである。なお人倫的実体はまだ個人の内に留まっているが、その理性において一般者として実在している。すなわちそれは、個人性を廃棄して一般性に根拠を持つ純粋意志である。そしてそれは抽象的理念としてあるわけではなく、現実の世界に存在している。その法則が妥当するのは、法則が自己意識の承認しない主人への奉仕を強制するものではなく、人倫的自己のための法則であるときだけである。当然ながら法則に対する知は、実在に辿り着くことが無いような信仰と異なる。そのような差異が個人と一般者の差異であり、自己意識と人倫的実体の差異である。
(2016/08/14)続く⇒(精神現象学D-A) 精神現象学の前の記事⇒(精神現象学C-B)
ヘーゲル精神現象学 解題
1)デカルト的自己知としての対自存在
2)生命体としての対自存在
3)自立した思惟としての対自存在
4)対自における外化
5)物質の外化
6)善の外化
7)事自体の外化
8)観念の外化
9)国家と富
10)宗教と絶対知
11)ヘーゲルの認識論
12)ヘーゲルの存在論
13)ヘーゲル以後の認識論
14)ヘーゲル以後の存在論
15a)マルクスの存在論(1)
15b)マルクスの存在論(2)
15c)マルクスの存在論(3)
15d)マルクスの存在論(4)
16a)幸福の哲学(1)
16b)幸福の哲学(2)
17)絶対知と矛盾集合
ヘーゲル精神現象学 要約
A章 ・・・ 意識
B章 ・・・ 自己意識
C章 A節 a項 ・・・ 観察理性
b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
B節 ・・・ 実践理性
C節 ・・・ 事自体
D章 A節 ・・・ 人倫としての精神
B節 a項 ・・・ 自己疎外的精神としての教養
b項 ・・・ 啓蒙と絶対的自由
C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
c項 ・・・ 良心
E章 A/B節 ・・・ 宗教(汎神論・芸術)
C節 ・・・ 宗教(キリスト教)
F章 ・・・ 絶対知
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