カントは、現象を根拠付けるものとして物自体を措定する一方で、ヒュームにならって、現象から物自体へと認識が遡及するのを否定する。したがって認識は自らの起源を知りえず、物自体は認識の単なる思い込みとしてのみ成立する。当然ながらカントにおける物自体は、単なる観念を超えることができない。このようにカントが現象と物自体を分離するのは、物理的原因の規定的優位を認めると、世界は物理的因果に規定されるだけであり、世界の内に自由が存立できなくなると、カントが考えたことによっている。しかし現象を物理的原因から解放してしまえば、因果律の全体が崩壊してしまい、世界は再びヒューム経験論のカオスに後退してしまう。そこでカントは、世界における物理的因果の扱いを放置し、自由における意思的因果の救済だけを目指す。すなわち彼は、作用因を経験的因果として放棄し、目的因だけを先験的因果として許容した。つまり原因から結果に至る物理的因果は、目的から結果に至る意志的因果へとすり替えられたわけである。結果的に世界は、物理的因果ではなく観念的因果に規定されることとなる。このような因果の捉え直しにより、世界の内における意識の自由は可能となったかもしれない。それどころか世界の内には意識の自由だけがあり、逆に意識の不自由はむしろ不可解なものとして現れることとなった。
なるほどスピノザは意識の自由を、自らの物理的必然に無自覚なだけの単なる錯覚として扱った。このスピノザの機械的唯物論に対してカントは、そこに意識の自由の死を見出し、憤慨する。一方で不自由が消失したとはいえ、因果に支配されず、逆に因果を支配するカント版の自由は、悪行を容認するような気ままな自由ではない。自由は、物理から解放された代わりに、道徳律に拘束されるからである。当然ながら世界は、観念的因果に規定されるだけであり、相変わらずそこに自由は存立し得ない。意識の自由が、自らの倫理的必然に無自覚な限りで現れるなら、相変わらず意識の自由は単なる錯覚にすぎないわけである。したがってカントの意に反し、スピノザに限らずカントにおいても、意識の自由は因果の必然にすぎない。見方によればこの観念的制約は、物理的制約よりはるかに悪質である。スピノザにおいて偶然は、それ自体が一つの必然であった。意識は自らを、錯覚であるとしても自由だと理解し、そのことに罪悪感を抱く理由は無かった。むしろ逆に物理的必然において、意識は自らの罪から解放されていた。しかしカントにおいて偶然は、単なる悪として現れてしまう。すなわちスピノザが個人に限定された自由に対して道義的非難を加えないのに対し、カントは個人に限定された自由に対して道義的非難を加えざるを得ない。なぜならそのような自由は、道徳律からの逸脱にすぎないからである。物理が個人の自由を当然視し許容するのに対し、道徳律は個人の自由を非難し攻撃するわけである。このように物理とイデアの規定的優位の扱いが異なれば、必然から外れた存在者の自由は、全く異なったものとして現象せざるを得ない。ただし道徳律がそのような悪質な全体主義として現れるかどうかは、道徳律自体の正当性にかかっている。もちろんカントは、不当な道徳律の登場を最初から度外視している。そのような道徳律は、単なる不道徳だからである。だからこそ道徳律における自由の死滅こそが、必然的な自由となり得ている。カントが「純粋理性批判」の中で、カオスとの対比だったとはいえ、封建的身分制を擁護したのも、彼の理屈からすれば妥当な結論だったわけである。もちろん唯物論から見れば、このカントの理屈そのものが道徳律に反している。
カントにおける道徳律は、物自体と同じものである。物自体と言うと、まるでそれは物体であるかの語韻がある。実際にはカントにおいて認識の基底にあるのは観念であり、物質ではない。すなわちカントにおける物自体はイデアである。そして道徳律とは、人間のイデアとして限定された物自体にほかならない。そもそも人間のイデアを含めて、机や椅子などの個々の存在者のイデアは、形相因として具体的な存在者それぞれの本質であり、そのあるべき姿を表す。例えば机のイデアは、机のあるべき姿であり、そのイデアに外れた具体的な机を机らしからぬものとして排除する。ただし机のような物体に善悪は無いので、規格外の机は単なる不良品としてのみ現れる。不良品の机は、ことさら悪とみなされ非難されるような代物ではない。それに対して人間のイデアは、人間のあるべき姿として、イデアに外れた具体的な人間を人間らしからぬものとして排除する。もちろんこの人間における規格は、物理的外観や肉体的組成により表現されるものではない。なぜなら人間とは、意識だからである。そしてこのような人間における規格は、机の場合と違い、善悪として現れる。不良品としての人間は、悪とみなされ非難されるべき対象として現れる。しかしイデアは、いかなる資格においてイデアたり得るのか? または道徳律は、いかなる資格において道徳律たり得るのか? プラトンがイデアを天上の不変体に扱ったのと同様に、カントは先験的格率として道徳律を理解する。当然ながらカントの道徳律が受け止めるべき疑惑は、プラトンのイデア論が受けてきた哲学的疑惑と同じものである。アリストテレスが考えたように、イデアは現実世界の存在者から切り離され、先験的に天上界に君臨するようなものであってはならない。同様に道徳律も、現実世界の人間から切り離され、先験的に天上界に君臨するようなものであってはならない。そのようなでっち上げられた人間のイデアは、ときとして現実世界の人間生活を破壊する非人間的な姿をとることさえある。そのような非人間的な道徳律は、支配的イデオローグの思いつきとして、すなわち虚偽観念として生まれ出てくるものであり、権力者の悪法として現れる場合もあれば、カルト宗教による滅私奉公や殉教への勧めとして現れる場合もあるし、説得力をもたせるために虚偽事実や虚偽論理を駆使して、わざわざ唯物論の装いまでして世界に出現する場合さえある。
カントは、自由を自己原因として捉え、行動規則それ自体として自由を扱う。つまり普遍的な先験的格率、すなわち道徳律こそが自由だとみなす。ところがその一方で、道徳律に関知しない個人の意識も、道徳律に関知しないままに自己原因となり得ている。結果的に普遍的な先験的格率に従う自由と個別的な経験的格率に従う自由の二つが、ともに自らを自己原因として宣言する事態が可能となる。基本的にカントは、後者を現象に満足する幸福とみなし、前者の物自体を希求する苦難に対立させている。ただし彼においてこの両者は、必ずしも対立するものではない。せいぜい経験的格率は、先験的格率の低次の現れにすぎないからである。しかし両者の対立に注目し、カントのように普遍的かつ先験的な道徳律に屈服しないのであれば、そこには実存主義への道が開かれることとなる。両者の対立図式は、イデアと存在者、または本質と現実存在の対立図式と同じものだからである。もちろんその対立図式を、観念と物質の対立図式にみなすのも可能である。その場合にカントへの反発は、唯物論への道に通じることとなる。いずれの場合でも、抽象は具体から導出されるものであり、その逆ではない。あるいは、理念は現実矛盾の彼岸であり、その逆ではない。カントの描く善人は、徳を尊敬し、狂信に陥らず、慢心することなく義務を履行する。しかし肝心の徳の正体が何なのか? 信ずるものの真性はどこにあるのか? 正義に慢心することの何が問題なのか? 義務性は善性を保証する事柄なのか? それらの正体不明さは、つまるところ善を基礎づけるものを明らかにすることだけを要求する。それを明らかにしているのであれば、なるほど徳は尊敬すべきものとなるし、狂信の虚偽性も暴かれるし、その基礎付けに対する謙虚な姿勢も必然となるし、道徳律が定言として現れることも納得できるというものである。もちろん善を基礎づけるものとは、真理である。それは人の心から発するものではなく、具体的事実として世界に物理的に存在するものでなければならない。
(2013/12/07)
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