唯物論者

唯物論の再構築

唯物論1a(物質と観念)

2014-01-11 23:19:28 | 唯物論

 ヘーゲル弁証法は概念生成の動きを、存在の量的増減が質に転化したものとして理解する。例えば一本の木が数を増やせば林だが、大量の木々は森である。一滴の水は水溜りを作るが、水溜りが大きくなれば池にも湖にもなる。一度限りの出来事は偶然だが、毎度必ず起きる出来事は必然である。充実した存在は実在だが、欠落した存在は空である。そもそも質そのものが、特定の存在者の量的差異を表現している。このように何らかの量的差異は、差異の両端に立つ異なる存在者を明るみに出し、それを外化して概念として意識に刻み込む。ただしこの量から質への転化には特に理屈があるわけではない。そのように生まれ出た概念も、対象の印象的変化の単なる受容にすぎない。池と湖の中間の大きさの水溜りを適当な言葉で表現することも可能である。少なくとも人間が介在しない限り、そこに先験的規則は無い。その質的差異表現は、単なる共同体成員間の決め事だからである。言うなればそこに現れた質は、単なる観念である。
 このようなヘーゲル弁証法の観念性について、二種類の指摘が可能である。第一に、その概念生成に意識が関与する必要は無いということである。量的増減による質的変化は、物理的に発生している。したがって概念に対応する実在も、何らかの形で既に現実世界に生まれ出ている。つまり観念の弁証法とは、自然の弁証法が意識に反映しただけのものである。第二に、対象の印象的変化の基礎には、人間の生活感覚が存在するということである。当然ながら人間の生活と無関係な量的増減は、質に転化することは無い。したがって全ての非現実な単なる表象は、それがどれだけ大量化し、巨大化し、持続しようとも、単なる表象でしかない。もちろんその端的な例は、直観形式としての時空間、または存在や無である。それらはどれだけ大量化し、巨大化し、持続しようとも、単なる時空間であり、相変わらず存在や無であるほかにない。
 一方でヘーゲルは、真無限との対比で悪無限の観念性を理解してもいる。悪無限とは、量において質的限界を持たない単なる無限である。その運動は、同次元の循環が永久に続く虚しい反復である。その反対に真無限とは、量において質的限界を持ち変化する無限である。その運動は、循環の終点に別次元の循環が開始するような発展的成長である。一見するとその運動には、発展的成長と逆方向の緊縮的退行もあり得そうに見える。しかし退行は、循環の始点に回帰するだけの悪無限に繋がるしかない。したがって真無限には、発展的成長の道だけが残されている。ヘーゲルは、この真無限をロゴスとしての絶対理念が成長する姿に重ね合わせており、その点でおそらく物理運動の側を悪無限のごとく理解している。もちろんその構図は、カントにおける定立と反定立の解消不能な命題対立の構図と同じである。ところが先に示したように、質的限界を持たない不変の存在者とは、表象や形式のような純粋な観念の側である。そのことが示すのは、純粋な観念運動こそが悪無限だと言うことである。逆に質的限界を持つ有限な存在者とは、物理的実在を得た現実存在である。物理運動こそが真無限なのである。このように言うと、物体が何やら立派なものに見えそうである。しかし実際には、物体はその有限性のゆえに、悪無限から見捨てられただけの存在にすぎない。簡単に言えば、観念が不変体であるのに対し、物体は可変体なのである。言い換えるなら、観念が不死であるのに対し、物体は必死なのである。ここでの「必死」は「必ず死ぬ」という意味に使っているが、言葉の元の意味である「命懸け」として理解してもそれほど大差は無い。真無限は、有限存在にとって自らが有限存在であるがゆえの逃げ道の無い宿命だからである。このような真無限と悪無限の両者の差異は、物質と観念の差異をそのまま表現している。すなわち、物質とは何かと言うなら、それは量において質的限界を持つ有限な存在のことである。逆に観念とは何かと言うなら、それは量において質的限界を持たない無限な存在のことである。すぐわかるように、この定義における観念は、プラトンのイデアそのままとして現われる。

 存在概念とは、物質と観念の包括的表現である。と言うよりも、おそらく逆に物質と観念が、存在の派生概念である。いずれにせよ「存在」という言葉は、物質と観念の両方を表現可能である。とは言え、現代世界において観念より物質の方が、「存在」や「実在」という表現と意味の被ることが多いように見える。とくに「実在」は、「存在」以上に、物質であるのが基本である。ところが観念論は、プラトンやカントのように、観念の側を実体に扱う。実際に「観念の存在」や「観念の実在」は、観念の物理的実在と無関係に、成立可能な表現である。したがって「存在」や「実在」が観念であることも、充分に可能である。筆者はこのことを、物体と観念の境目が旧世界において無かったことに由来していると捉えている。ここで言う物体と観念の境目の欠如とは、ケンタウロスや河童のような空想の産物が、旧世界において物理的実在を疑われ得なかったことを念頭にしている。悪魔の不在証明のように、可能の非実在は、経験論的帰納でしか説明できない。当然ながら、物理世界における想像上の怪物や聖霊の消滅は、科学進歩だけではなく、公教育や公共的情報網、さらには民主主義の普及を必要とする。迷信は、物理と倫理の両面から否定されることでのみ、その最終的な消滅が実現可能である。
 ちなみに物質と観念のそれぞれを存在の派生概念と捉えるなら、唯物論と観念論の代わりに存在の一元論が成立しそうに見える。しかし実際にはそのような観点の変更で、唯物論と観念論の二元的対立が消滅することは無い。またそれに類似した試みは、既に現象学が行なっている。結局その場合でも存在概念は、唯物論の場合では物質を基本にし、観念論の場合では観念を基本にして、それぞれの自己都合で理解されるだけである。上記の筆者の理解でも「存在」や「実在」を、物質として捉えている。一方で現象学の始祖フッサールにおけるヒュレー底層は、観念として現われている。そもそもフッサールもハイデガーも、素直に観念論を自称している。物質と観念がそれぞれ存在の派生概念であっても、規定的優位を物質と観念のどちらに措くのかという基本問題は、何も変わらない。むしろ「存在」を物質と観念の包括的表現として理解した場合、前述の「量において質的限界を持つ有限な存在」という物質概念は、その限定的内容において存在概念から自ら離脱せざるを得ない。存在は限定概念ではないからである。もちろんその場合、包括的概念だったはずの存在概念も、物理的規定を失い、ただの観念概念と変わらなくなってしまう。またこの点にこそ、観念論の一つの起源がある。すなわち限定が欠落した存在概念は、物質ではなく観念に実体規定を求める理屈の一つの基礎となっている。

 規定的優位が物質と観念のどちらにあるのかという問いは、物質と観念のどちらが現象の実体なのかという問いである。このような実体概念は、哲学において完全不可分な不変体として扱われている。この理屈において現象は、自己原因ではなく、実体の影に過ぎない。もし移ろいやすい実体があるとしたら、それは現象に過ぎない。今度はその偽実体を支えるために、さらなる実体が必要となるだけである。一方で先に確認したように、物質は不完全で可変な有限体である。したがって物質は、実体たりえないかのように見える。逆にプラトンのイデアやカントの物自体のような観念的実体は、この実体概念を満足させるもののように見える。しかしそれは、観念論にはまり込んだ哲学者の錯覚である。足場を持たずに移ろいやすいのは、観念の方であり、物質ではない。現象との関係では、物質は有限体ではなく無限体であり、逆に観念の方が無限体ではなく有限体として現れる。物質の有限性は、時間軸における未来でのみ発生するからである。逆に言えば、純粋な観念には時間軸における過去が欠落している。当然ながらプラトンやカントでさえ、イデアや物自体がいかなる姿をしているかを知り得ない。カントが不可知論を唱えるのも、理の当然なのである。むしろ誰しもが知っているのは、物理的事実が実在し、完全不可分な不変体として意識の前に立ちはだかっていることである。それは不変であるがゆえに、絶対的真理を体現し、世間に徘徊する捏造観念を自らの存在を通じて告発する。ただし物理の不変性は、同時に無力な意識にとって無慈悲なものでもある。それは変えることのできない過去として、意識を苛むものだからである。

(2014/01/11)


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