唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル精神現象学 解題(D章C節a/b項.道徳的世界観)

2016-11-05 11:00:21 | ヘーゲル精神現象学

 D章B節b項とc項でヘーゲルは、信仰と純粋透見の対立から啓蒙における絶対的自由が実現すること、絶対的自由は君主の絶対的自由に転じ、逆に個人の絶対的不自由を出現させるのを示した。次のC節でヘーゲルが示すのは、絶対的自由の現実であるはずの道徳的自己意識の非実在であり、逆に非現実な道徳的精神であるはずの良心が実在として現れることである。ここでは、ヘーゲルが個人において宗教に連なる道徳的精神を語った精神現象学のD章C節a項とb項を概観する。


[D章C節a項の概要]

 意識において神的実在とは義務であり、この義務と関わるのが自己意識である。義務に関わらない意識は他在として現れる。自己意識の目的は自己確信を含む道徳意識の知である。義務の遂行において目的と個人は一体化し、個人は満足する。また現実的な道徳性が目指すのも、自己意識と自然、および道徳と幸福の調和である。ただしその統一が実現すると道徳は死滅する。そこでその完成は常に彼岸の目標のままに留まる物自体として現れる。しかし非現実な実体は実体ではないので、自己意識の自然に対する即自的調和、および道徳意識の幸福に対する対自的調和を結合する現実的行動が要請される。ただし道徳意識の内にある純粋義務と別に、もともと自然法則は神的意識の内にある。したがって自然は既に、無内容な純粋義務、および内容に関わる自然法則の両者を統一している。同様に神的意識は、純粋義務以外の全ての義務を規定し、それらの必然づけにおいて義務一般と純粋義務を連携し、幸福を道徳意識に実現させている。さらに現実行動における純粋義務を神聖たらしめているのも、神的意識である。したがって義務が自己意識の実体であるなら、現実意識もまた思惟における此岸の完全な存在となるべきである。このことから神的実在は、不完全な現実意識を完全と認め、彼岸からそれに幸福を分与する思想として現れる。ところが道徳的世界観による純粋義務と現実の統一では、純粋義務は自己以外の存在者だけを対象にする。それはむしろ非道徳な現実を完全体にみなし、自己の内にある義務にそぐわない幸福を廃棄させる。この世界観は純粋な道徳意識ではなく現実世界の法則から始まり、思惟と自然の統一を単なる事実としてのみ表象する。したがってその義務の実現も、意識の自己否定において意識の彼岸に現れるだけの思惟となる。つまり現実的な道徳的自己意識は存在せず、義務は意識の彼岸にだけ存在する。しかしそれは此岸の現実として実現されるべきである。


[D章C節b項の概要]

 道徳と自然、または目的と現実の間に肯定的な相関も否定的な相関も無い。同様に道徳と幸福の間に肯定的な相関も否定的な相関も無い。両者の間に対立を見い出すカント式努力は虚しいものである。つまり悪徳の栄えは道徳の仮面を被った人が感じる嫉妬であり、有徳の至福も恣意的な道徳に従う人が感じる期待に過ぎない。道徳的世界観における道徳意識は、両者の調和を実体として彼岸に立て、両者の対立を表象として此岸に措く。しかしそもそも両者が対立しているなら、道徳が自然のうちに実現することもない。また幸福も自らの自然法則を持つ一つの自然である。それは自己意識が自己実現するための道具であり、それ自身が自己意識でもある。そこで道徳意識は、現実を目的の実現にすり換える形で、純粋義務を自然のうちに実現する。言い換えれば道徳意識は、彼岸にあるものを此岸にすり換える形で、道徳と自然、そして道徳と幸福を調和する。結果的に、義務によって自己否定の不幸を要請された自己意識は、両者の調和において自己実現の幸福を得られるようになる。つまり幸福において道徳は完成する。もし義務が意識の彼岸に存在するだけであるなら、道徳は恒久的未完成になる。たとえ道徳を暫時完成しても、それは道徳の暫時死滅にしかならない。また道徳には量的区別や部分は無く、一つの純粋義務ないし徳だけがあるからである。すなわち未完成な道徳は非道徳である。それゆえに道徳的自己意識は、立法者として現れる別の実在に対し、義務の神聖化を要請する。ところが一方で道徳的自己意識は自らの義務を絶対視しており、立法者の神聖を自らの神聖にすり換えてしまう。つまり道徳的自己意識は、立法者の神聖を実は信じていない。義務は自然と感性に関係して現れるので、自然と感性に現れる義務こそが道徳の自体的実在を表し、立法者の神聖は非現実な抽象だからである。ここでの非現実な抽象が具体的現実として存在する矛盾は、抽象的な純粋義務が具体的な義務として現れる矛盾、または非現実な物自体が超越的他在として存在する矛盾である。意識はこの矛盾の無自覚がただの偽善であり、欺瞞であるのを自覚するに至る。意識は抽象的内在を現実的他在へとすり換えるのを止めて、純粋義務を直接実践する自らの良心へと戻って行く。


0)自己意識の自己確信と自由

 もともと人倫的世界で真理を知るのは、死者だけであった。死者の代弁者は家族から民族そして国家へと移るが、いずれにおいても代弁者と個人は乖離したままである。そこで代弁者ではなく個人の方が、自己否定により国家と一体化する教養の世界を目指した。しかし此岸の個人が死者の真理に到達することは無い。そこで個人は、此岸の否定により神的実在と一体化する信仰を目指す。しかし彼岸における信仰の対自は啓蒙となって逆に信仰を否定し、個人を死滅させてしまう。個人の死滅の後に残ったのは一般意志である。そこで個人は、純粋知である限り自らが実存することを悟る。この自己意識は既に意識の対立を超えており、その対象の確信を知に変えた意識の支配者である。すなわちその意識の知は真と等しい。自己意識の知は自らにとり実体となっており、自己意識と不可分の統一をなしている。したがってこの自己意識は、本能ではなく知において義務を遂行し、自己疎外や現実逃避ではなく純粋知の自己確信において一般者である。つまり神的実在は、知として存在する全現実である。またもしそれが知として存在しなければ、意識に対して効力を持たない。しかも自己意識において自らの自由の知は、自らの存在および目的となっている。それは自己意識が持つ唯一の内容であり、それだからこそ自己意識は絶対的に自由である。


1)非現実な道徳

 意識の始まりでの自己意識は意識ではなく、その対象も他在ではない。対象を他在にするのは自己の否定性である。それは自己意識を意識にし、義務に関わらない他在を自己意識から追放する。ここでの義務は、自己意識を規定する神的実在である。しかし義務は、純粋意識において自己意識の実体をなしているので、自己意識にとって他在ではない。自己意識と他在の両者は相互に自由であり、その自由において自己意識と自然法則の相互に無縁な道徳的世界観が築かれる。それゆえに道徳の実現は、自然法則の自由に翻弄される。逆に言えば自己意識は、実現を見届ける幸福を得ている。そのことは実現の幸福に無縁な自然意識に対し、自己意識が既に幸福であるのを示している。また自己意識の目的は自己確信を含み、道徳意識の知において満足する。そのことは、道徳意識の目的実現において個人が満足するのを示す。すなわち義務の遂行において目的と個人は一体化する。自己意識と自然、および道徳と幸福は、相互の調和を要請されている。それゆえに現実的な道徳性は、対立する衝動と思惟の統一、あるいは感性と理性の統一を目指す。ただし自由に幸福な自然、そして衝動ないし感性にある自己は、この統一において一般的自己を現すための廃棄対象として現れる。しかもその統一の実現は道徳の死滅にほかならならないので、その完成は常に彼岸の目標のままに留まる。それだからこそカントにとって、物自体は不可知な実体であった。しかし非現実な実体は、実体ではない。そこで次に要請されるのが、自己意識の自然に対する即自的調和、および道徳意識の幸福に対する対自的調和を結合する現実的行動である。


2)道徳の現実化

 純粋義務は、知の関心として現れる義務の形式であり、義務の遂行を自己目的にする。この純粋な道徳意識は内容を持たないので、内容の実現とも無縁である。一方で純粋義務以外の全ての義務は、多様な内容に関わる自然法則に過ぎない。純粋義務が道徳意識において存在するのに対し、自然法則は自然において存在する。自然では自然法則が対応する多様な内容に連繋しており、純粋義務と自然法則も統一されている。それゆえにその統一は道徳と幸福の調和である。しかしその調和の現実が、逆に道徳意識における両者の意識の対立を露わにする。ここでの道徳意識は純粋義務の意識であり、幸福の実現に関わる意識は自然を支配する神的意識である。それは純粋義務以外の全ての義務を規定し、それらの必然づけにおいて義務一般と純粋義務を連携し、幸福を道徳意識に実現させる思惟的実体である。したがって現実行動において現れる純粋義務は、神的意識を媒介にしてのみ神聖となる。そして逆に現実意識に自己卑下をもたらし、現実意識にとって幸福を神的意識の恩寵たらしめる。しかし義務が自己意識の実体としてあるので、この不完全な現実意識もまた思惟における此岸の完全な存在である。そこで神的実在は、不完全な現実意識を完全と認め、彼岸からそれに幸福を分与する思想として現れる。


3)道徳的自己意識の不在

 道徳的世界観は純粋義務と現実を、道徳的自己意識の概念において統一する。ところがこの道徳意識は、純粋義務を自己以外の存在者だけに適用し、むしろ非道徳な現実を完全体にみなし、自己の内にある義務にそぐわない幸福を廃棄する。しかもこの道徳意識は、自らの概念的完成に興味を持たない。一方で純粋思惟の自由と自然の自由はいずれも意識のうちにあるので、道徳意識は思惟と自然の統一を単なる事実として表象する。そして現実は理屈にかなう限りでのみ実在するので、この道徳的世界観も、純粋な道徳意識ではなく現実世界の法則から始まる。それゆえに法則は対象の知、または世界の目的と現実の調和、あるいは道徳と現実の調和として実現する。しかしここでの法則の実現は、意識の自己否定において意識の彼岸に現れるだけの思惟にほかならない。したがって道徳的に完成した現実意識は存在せず、現実的な道徳的自己意識は存在しない。ここでの意識の彼岸に存在する義務は、此岸の現実として実現されるべきである。


4)自然に対する非道徳の思い込み

 道徳的世界観における意識は、自らの対象を道徳として自ら生み出し、それを彼岸として立てる。つまり意識にとって道徳は、自分自身であるのに自分自身ではない。これと同じ要領で行為における意識は、自分自身と自分自身ではないものを相互にすり換える。例えば道徳行為において意識は、対立する道徳と自然を調和させる。ここでの義務は、自己意識に対して自己否定の不幸を要請している。それに対し自己意識は、自らの彼岸として立てた道徳を此岸の自然の実現とすり換える。結果的に両者の調和は、自己意識に対して自己実現の幸福として現れる。このようなことが可能なのは、道徳意識が道徳と自然の対立を実は信じていないからである。ちなみに両者の調和は、道徳と義務の両方を廃棄する。したがって意識は両者の調和を実体として彼岸に立て、両者の対立を表象として此岸に措いただけである。さらに行動一般において意識は、目的と現実の対立を信じていない。例えば現実の行動は個別者の偶然な行動であり、彼岸の究極目的ではない。ところがその行動において内容を問わない義務の遂行、すなわち純粋義務は実現している。しかしそれは意識が現実を目的の実現にすり換えただけである。そもそも自然法則と道徳が対立しているなら、道徳は自然のうちに実現しない。また純粋義務は行動内容を問わないので、自然法則を道徳にすり換えるのも可能である。ただしこのすり換えは現実肯定に帰結し、道徳一般の否定性を廃棄してしまう。ちなみにここでも道徳行為の目的は、自らの廃絶として現れる。結果的にいずれにおいても道徳と自然の間に、肯定的な相関も否定的な相関も無い。


5)幸福に対する非道徳の思い込み

 自然と幸福の対立と同じことは、道徳と幸福の対立にも該当する。なぜなら幸福は自己意識が自己実現するための道具であり、それ自身が自己意識だからである。また幸福は自らの自然法則を持つ一つの自然である。したがって意識の方が幸福に適合すべきである。ここでも行動内容を問わない純粋義務から言えば、幸福において道徳は完成する。ところが意識は道徳と幸福の調和を実体として彼岸に立て、両者の対立を表象として此岸に措く。結果的に道徳の現実的完成は、道徳の恒久的未完成にすり換わる。ここで道徳の暫時完成をもって、道徳の恒久的未完成をすり換えることもできない。道徳には量的区別や部分は無く、一つの純粋義務ないし徳だけがある。また道徳の暫時完成は、道徳の暫時廃絶だからである。道徳と幸福の間に肯定的な相関も否定的な相関も無いので、両者の間に対立を見い出すカント式努力も虚しいものとなる。純粋義務を除いて道徳の基準が存在しないのであれば、悪徳の栄えは道徳の仮面を被った人が感じる嫉妬に過ぎず、有徳の至福も恣意的な道徳に従う人が感じる期待に過ぎない。


6)純粋義務への回帰

 道徳は完全でなければならず、したがって未完成な道徳は非道徳である。それゆえに道徳的自己意識は、立法者として現れる別の実在に対し、義務の神聖化を要請する。ところが道徳的自己意識は自らの義務を絶対視しており、立法者の神聖を自らの神聖にすり換えてしまう。つまり道徳的自己意識は、立法者の神聖を実は信じていない。また実際に義務が自然と感性に関係して現れるので、立法者の神聖は非現実な抽象でしかない。むしろ自然と感性に現れる義務が、道徳の自体的実在を表す。ここでの具体的現実として非現実な抽象が現れる矛盾は、抽象的な純粋義務が具体的な義務として現れる矛盾、または非現実な物自体が超越的他在として存在する矛盾である。意識はこの矛盾の無自覚がただの偽善であり、欺瞞であるのを自覚する。そこで意識は、抽象的内在を現実的他在にすり換えるのを止めて、純粋義務を直接実践する自らの良心へと戻って行く。

(2016/11/05)続く⇒(精神現象学D-Cc) 精神現象学の前の記事⇒(精神現象学D-Bb)


ヘーゲル精神現象学 解題
  1)デカルト的自己知としての対自存在
  2)生命体としての対自存在
  3)自立した思惟としての対自存在
  4)対自における外化
  5)物質の外化
  6)善の外化
  7)事自体の外化
  8)観念の外化
  9)国家と富
  10)宗教と絶対知
  11)ヘーゲルの認識論
  12)ヘーゲルの存在論
  13)ヘーゲル以後の認識論
  14)ヘーゲル以後の存在論
  15a)マルクスの存在論(1)
  15b)マルクスの存在論(2)
  15c)マルクスの存在論(3)
  15d)マルクスの存在論(4)
  16a)幸福の哲学(1)
  16b)幸福の哲学(2)
  17)絶対知と矛盾集合

ヘーゲル精神現象学 要約
  A章         ・・・ 意識
  B章         ・・・ 自己意識
  C章 A節 a項   ・・・ 観察理性
        b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
      B節      ・・・ 実践理性
      C節      ・・・ 事自体
  D章 A節      ・・・ 人倫としての精神
      B節 a項  ・・・ 自己疎外的精神としての教養
         b項   ・・・ 啓蒙と絶対的自由
      C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
         c項  ・・・ 良心
  E章 A/B節   ・・・ 宗教(汎神論・芸術)
      C節      ・・・ 宗教(キリスト教)
  F章         ・・・ 絶対知

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