7)事自体の外化
対象についての自己意識の判断は、対象に対峙する自己自身の状態把握の形で、まず快や不快などの感情として個別意識に現れる。それらの感情の現れは対象認識と異なるが、それにもかかわらずそれらはもっぱら感情の原因となる対象と結合している。例えばそれは風の涼しさであり、光のまぶしさであり、下手な料理のまずさであり、腐肉の悪臭である。それらの感情はいずれも、あたかも対象の一般的属性の如く対象に貼り付いている。しかしその感情は個別意識のものであり、その対象判断は意識一般のものではない。すなわちそこでの対象と感情の相関は、個別意識の恣意として現れるのであり、意識一般に認められた相関ではない。ここでの相関の恣意は対象についての感情を偶然に留め、せいぜいその相関を個別意識において必然にするだけである。例えば私にとって納豆はおいしい食品だが、世間一般としておいしい食品かどうかは確定されない。実際に納豆嫌いの人は世の中に沢山いる。この対象と感情の結合の必然は、それを行った個別意識の成り立ちの解明において明らかにできるかもしれない。しかしそのためには、個別意識の感情の正当性についての生理学や神経医学、または精神医学や心理学的アプローチが必要であり、あるいはその正当性を公に承認する司法の場が必要である。「精神現象学」におけるヘーゲルの論述は、基本的にそのような方向にある。しかし全ての感情の必然性を人倫的共同体が精査し、承認するのは無理である。それゆえにその仕事の多くはもっぱら科学や司法ではなく、文学や演劇などの芸術が担ってきた。いずれにせよそれらが確認すべきことは、自己自身の状態把握であったはずの個別意識の感情が、何故に対象に結合され、その結合が必然となり、因果となるかであり、さらにその因果を何が保証するかである。
7a)客体化する快
因果帰結の原型は有機体の捕食行動であり、捕食による自己と物の結合における快である。すなわち食事は、快に帰結する。しかしこの因果系列は、食事が原因となって快に帰結すると見るのではなく、快を目的として食事が行われると見ることもできる。前者の因果帰結は機械論であり、後者の因果帰結は目的論である。また大雑把に言うと前者の因果帰結は唯物論であり、後者の因果帰結は観念論である。ただし空腹と無関係に意識の恣意が食事を実現したと見るなら、前者も観念論となる。またあくまで空腹の物理的解消が快なのだと見るなら、後者は逆に唯物論となってしまう。それゆえにむしろ前者の因果帰結は観察理性に現れる因果であり、後者の因果帰結は実践理性に現れる因果であると言うべきであろう。つまり前者はヘーゲルから見た経験論やカントであり、後者はヘーゲルにとってフィヒテ以後のヘーゲルに至るまでのドイツ観念論の系譜である。ヘーゲルは機械論的因果を必然の欠けた経験的数量関係だと理解しており、目的論的因果こそが必然を説明する正しい因果把握だと考えている。この目的論的因果把握は、アリストテレス以来の意識を第一原因とみなす観念論の王道的な因果把握である。すなわちヘーゲルもまた意識を第一原因とみなす観念論の王道にいる。機械論的因果が必然を説明できないことは、経験論における因果の崩壊に如実に現れる。経験的真理は過去の実績に過ぎず、必然ではなく蓋然でしかない。それに対して目的論的因果では、目的の実現は意識が確約する必然である。その確約をする意識とは精神であり、さらに言えば神としての絶対理念である。しかしまだここでは精神についての言及に至っていないので、さしあたり自己意識が目的の実現を確約する。しかしここでの目的とされた快は、食事が意識にもたらした感情であり、自己意識にとって自己従属者である。この快をかろうじて意識の単なる自己目的でなくさせているのは、食べ物の実在である。それゆえに意識は物において快の客体を擁立し、それを目的とする。これにより快は、対象となる物の属性となる。例えばそれは、肉のおいしさであり、水のうるおいとして現れる。ところが本来そのような快は、対象の感情的把握ではなく、意識の自己自身の感情的把握にすぎない。すなわちもともと快とは、自らの肉体についての意識による感情的把握である。それが表現しているのは、例えば肉や水を飲食したときの肉体が安定を取り戻した状態である。したがって快は物に付着しているように見えるだけであり、そもそも物の属性ではない。同様に肉のおいしさも、もともと糖分やグルタミン酸のような物質ではない。快が物に付着しているように見えるのは、意識の自己自身についての感情的把握を、意識が対象と結合したからである。糖分のような栄養がおいしさとして理解されるのは、快と栄養を結合する意識の運動によるものである。一見するとそれは、熱や音などの物を結合して一つの物質に仕上げた観察理性の運動と似ている。しかしここでの実践理性の運動は、快などの感情的判断を物体に結合し、その物を意識的存在に変えている。すなわちここでの意識は、対象に快をなすりつけることにより、対象を物ではなく事に変えている。事に変わった物は、意識にとって客体化した意識の仕事の成果であり、自己意識から疎外されて現実化した意識の自己である。
7b)感情の客体化の必然性
意識が自らの感情を対象に結合する必要は、第一に感情の不変性を獲得するためであり、そのこと自身は意識の自己同一を維持するためである。そして第二に感情を一般化するためであり、そのこと自身は個別の因果を一般化するためである。すなわちそれは偶然の因果を必然に扱うためである。
7ba)不変的自己の維持
もともと感情とは、意識における意識自らについての直観的な状態把握である。それは意識の他者としての物についての直観ではない。つまり食事における快は、意識自らの空腹の物理的解消の直観であり、他者としてある食物についての直観ではない。しかし目的実現などで得られた感情は、食事の完遂などで、対象と自己の結合が成就するとともに消失する。しかし意識の自己は事の前後で変化しておらず、感情の変化はその事実に反する。この場合に変化した感情は、変化しない自己意識と区別される。それは意識からの感情の客体化であり、すなわち意識からの感情の外化である。意識から疎外された感情は、当然のことながら対象の側に移らざるを得ない。結果的に意識自らについての直観だったはずの感情は、対象についての直観となり、端的に言えば物の属性として不変性を得て現れるようになる。例えば肉を食べて得た快は、意識の感情でありながら、美味などの肉の属性として現れるようになる。また対象と自己の結合により自己意識は対象を自らの支配下に措くが、自らの支配下にある対象は既に他者ではなく自己である。自己意識による支配欲は支配の実現とともに行き場を失う。例えば食事を通じて意識は食物を咀嚼し飲み込むが、食べてしまえば食物は他者ではない。それは既に自らの肉体に合一している。自己意識の食欲は食事の実現とともに虚無に陥る。ここでも不変性を持たない感情の正当性は根拠を喪失し、感情は意識もろともに虚実となってしまう。意識がこの虚実を避けようとするなら、ここでも感情を自らと区別し外化せざるを得ない。自己意識にとってこの外化は、自らの自己同一を維持する上で避けることのできない必然なのである。逆に言えば、自己意識が感情の変化を受容し、その変化した感情に自己自身を見い出すなら、自己意識は自らの変化を知ることができる。このときの感情は対象の側へと疎外されず、その感情は当の自己意識の属性として現れる。
7bb)因果の必然性の確保
自己自身の状態把握としての感情は、直観であり、知覚や概念ではない。すなわち自己意識にとって感情は、個別意識であり、意識一般ではない。そもそも感情は特定の個人の感情であり、それが世間一般の個人感情と同じである保証は無い。その普遍性の欠如は、例えば食べ物の好き嫌いのように個人意識それぞれの個性として現れる。これが対象の物理属性であれば、その対象を調査し、熱や音を測ることで意識一般に通用するような対象概念を構成できる。しかし感情は対象の物理属性ではないので、対象を測定することで意識一般に通用するような感情概念を構成できる保証も無い。ただし対象に関わる感情が対象の物理属性に根差すなら、意識一般に通用するような感情概念は構成可能である。そのような感情には、例えば甘さのような味覚がある。味覚は感情なのだが、ほとんど対象の属性の如く意識一般に通用可能である。しかもその物理との共通性において、例えば糖分濃度などで計測可能である。逆に物理との共通性において、むしろ感情として見えにくい感情もある。例えば熱は体感では暑さの感情として現れるし、音は騒々しさなどの感情にもなる。この暑さや騒々しさなどにおける感情と物理との共通性は、意識一般において対象と感情の間の因果を通用可能にする。すなわち気温の上昇は暑さの上昇に等しく、音量の増大は騒々しさの上昇に等しい。ここでの対象の状態と感情はほとんど語義が同義であり、それゆえに両者の因果相関について不可知論の侵入の余地もほとんど無い。そしてそのほとんど同義の扱いのゆえに、意識が自らの感情を対象に結合した経緯も、意識自らにおいて忘却されている。しかし物理との共通性の薄い感情の場合、または同じことであるが、感情の個別性が濃いほどに、感情と対象の因果相関における個別意識の恣意の混入が露見し易くなる。例えばそれは、或る曲が田中さんの好きな音楽であり、同じ曲が山田さんの嫌いな音楽となるようにである。田中さんにとってその音楽の美しさは曲の持つ属性である。しかし山田さんにとってその判断は、田中さんの個別意識の恣意に過ぎない。すなわち或る曲が意識の恍惚に帰結すると考える田中さんの因果は、山田さんにおいて田中さんの恣意として現れる。もちろん田中さん自身も、趣味の違いの把握を通じて自らの恣意を自覚できる。したがってここでの対象と感情の因果は簡単に崩壊する。とは言え個別意識における対象と感情の間の因果は、一般性の欠けた形でその効力を維持する。この場合の因果は、当の個別意識に限定された特殊な因果として現れる。そしてこの特殊な因果の存在は、因果の不可知論を惹起する一つの根拠になっている。しかし感情を意識の個別性のままに留める限り、その対象と感情の因果はやはり必然性を持たない。対象と感情の因果が必然となるのは、その感情が意識一般に通用するのを前提にするからである。このことは、先に見た暑さの感情で確認したことでもある。意識がこの因果の偶然を避けようとするなら、個別意識の内にある感情を意識一般の感情へと一般化しなければならない。なぜなら個別意識の内にある感情は、一般化することによってのみ、他者に対し因果の必然を得るからである。そしてここでも外化を通じて感情は、あたかも対象の属性の如く現れる必要がある。個別意識から疎外された感情は、対象の側に物の属性の形態で移らざるを得ず、またそれでこそ一般者となるからである。
7c)目的論
快などの感情は、直接知に現れる物の形状や性質と違い、意識の仕事の成果である。例えば食事が成功した場合の成果は、生命体のエネルギー補充の完遂であり、その肉体的条件の安定であり、それらの自己把握が食事の達成感としての快に結実する。逆に食事が成功しなかった場合の成果は、不快に結実する。いずれの感情の生起も、その因果は意識が自ら立てた因果の帰結にすぎない。それゆえに意識は、食事に起因した快の帰結について、その因果の不可知を述べ立てる権利を持たない。自分で立てた因果に不可知を疑う意識があるとすれば、その意識は末期的な健忘症である。そもそもここでの因果の必然は、個別意識の恣意的で無秩序な偶然の因果を収束した結果であり、無根拠な懐疑を通じてその成果を後退させるのも許されない。ここでの必然は、観察理性に見られた経験的で無内容な量的関係でしかない因果ではなく、原因が結果に至る因果を意識が規定する必然である。したがってその必然は、自らの個別性を否定した自己意識自身の決意に従っている。この疑いを許さない因果は、意識に対し原因から結果への因果を逆転し、目的から行動への因果に変えるのを許す。今では意識において食事の結果に快が発生するだけではなく、快を目指して捕食が行われるようになる。それが可能となったのは、意識が食物に快を結合し、その物の属性として美味が現れるようになったからである。もともと行動としての食物の摂取は生命体における一つの仕事であり、ここでの快はその仕事の成果である。しかし因果帰結の逆転は、逆に食物の摂取を仕事の成果にし、食物の快を仕事に変える。すなわち仕事としての快が、生命体の捕食行動を生み出す。このときの食物は物でないだけではなく、物と意識が結合した意識の仕事の成果でもない。それは仕事そのものである。ヘーゲルはそれを事と呼び、食物に快を結合した意識の仕事の形式を事自体と呼ぶ。ヘーゲルはカントが示した認識不能な対象自体を排除し、代わりにこの可知な対象の実体を鎮座し、不可知論の撲滅を目指す。もちろん本来ならこの因果の逆転は、物と感情の間にある必然的な因果だけに起こるべきである。しかし意識は、同じ逆転を観察理性が行ってきた量的関係に過ぎない因果にも適用を試みる。結果としてそこにも因果の逆転が生まれるようになる。朝に太陽が昇るから世界が明るくなるのだが、世界が明るくなったのでそろそろ太陽が昇るのである。ただしこの例はまだ現実的であり、予報科学の形を得た良い形態である。しかし、夜が明けたから寝床から起きるのに対し、寝床から起きたので夜が明けたのだとすれば、この理屈は意識が世界を規定する観念論となる。この種の本末転倒した因果の逆転は、実際には巷に大量に存在し、中にはそれが定着する場合もある。それは生物進化におけるクジャクの羽根のようなものであったり、不景気に対するインフレ期待論として現れる。クジャクの場合、もともとは頑強な雄鳥が見事な羽を持ち、それが雌鳥を引き付けていたはずである。しかしクジャクの羽は体の頑強さから乖離し、雌鳥を引き付ける道具になっている。またインフレ期待論の場合、もともとは景気過熱がインフレを発生するのだが、その因果は逆転して、インフレが景気回復を実現する道具になっている。それらの因果逆転が実際に定着しているのは、それが予報科学に適した必然的な結果であったり、それなりの好条件が重なった偶然の結果であったりする。しかしその因果適用の誤りは、抽象的な論理世界で検出するしかない。もちろん因果適用の誤りは、実験でも確認できるであろう。しかしそこで確認されるのは、因果の不正適用を行った行動主体の破局である。そして破局が起きるまでは因果の不正な適用に対する歯止めは現れない。なぜなら破局がその歯止めだからである。目的論的因果が持つ危険は、この破局に集約される。この因果の不正適用の排除方法は、観念論の排除である。(2017/07/10)
ヘーゲル精神現象学 解題
1)デカルト的自己知としての対自存在
2)生命体としての対自存在
3)自立した思惟としての対自存在
4)対自における外化
5)物質の外化
6)善の外化
7)事自体の外化
8)観念の外化
9)国家と富
10)宗教と絶対知
11)ヘーゲルの認識論
12)ヘーゲルの存在論
13)ヘーゲル以後の認識論
14)ヘーゲル以後の存在論
15a)マルクスの存在論(1)
15b)マルクスの存在論(2)
15c)マルクスの存在論(3)
15d)マルクスの存在論(4)
16a)幸福の哲学(1)
16b)幸福の哲学(2)
17)絶対知と矛盾集合
ヘーゲル精神現象学 要約
A章 ・・・ 意識
B章 ・・・ 自己意識
C章 A節 a項 ・・・ 観察理性
b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
B節 ・・・ 実践理性
C節 ・・・ 事自体
D章 A節 ・・・ 人倫としての精神
B節 a項 ・・・ 自己疎外的精神としての教養
b項 ・・・ 啓蒙と絶対的自由
C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
c項 ・・・ 良心
E章 A/B節 ・・・ 宗教(汎神論・芸術)
C節 ・・・ 宗教(キリスト教)
F章 ・・・ 絶対知