4)真
他者の必然と自己の必然の癒合は、善に帰結する。しかしそれは単に快と価値を同一にする同類が共有する目的論因果に留まる。したがって善の必然を共有するのも、その必然により癒合する同類だけであり、全ての主観ではない。そしてこの普遍の欠落は、善を真から区別する。ところが真ではない善に、善の資格は無い。そうであるなら善は真と一致すべきである。このジレンマに対してカントは、善を私的利害の彼岸に措く。しかしその措置は、善が目的にする快と価値を、本来の私的利害から遠ざける。このときに私的利害に対立する善が実現するのは、個人の不幸である。このためにその哲学は、個人に対する無私の要求を通じて不幸の哲学に転じる。このカント超越論に対してヘーゲル弁証法は、その善に自己と他者、さらに自己と自己自身の超越不能な機械論的分離を捉える。ヘーゲルが見出すのは、カント超越論における物理因果の残滓であり、目的論因果の欠落である。目的としての善は、原因と結果の間に断絶が無く、結果は原因となる目的の実現にすぎない。すなわち善と真は常に一致する。ただし原因と目的の単純同一は、独断への退行である。また両者の単純同一は、そもそも運動の欠けた無意味な同一律である。独断を根拠づけるのは、独断に対立する他者を必要とし、他者の媒介を通じて独断は独断としての自己を廃棄する。当然ながら独断がそのように独断としての自己を廃棄するなら、その独断はカントが排除した推論として現れる。
4.1)類的快への反発
ヘーゲルにおいて真理とは、推論が擁立する客観であり、直接知が前提する物理的真ではない。ただしそのヘーゲルの幸福の哲学は、カントの不幸の哲学の単なる裏返しにすぎない。カントにおける善は、真理との自己同一を得るために自己を否定する。これに対してヘーゲルの善は、真理と自己同一なので自己を肯定する。ところがカントの善が自己の偽を自覚するのに対し、ヘーゲルの善は自己の偽を自覚する前に既に真である。言い方を変えるとカントにおける善が私的快としての自己を自覚するのに対し、ヘーゲルにおける善はそもそも私的快ではない。せいぜいそれは、私的快を装った類的快である。したがってヘーゲルにおいても善と真、または原因と結果の間に断絶が広がっている。類的快を私的快に装うヘーゲルのレトリックは、私的快の実存主義的憤慨を呼び起こす。それは一方に美的直観に回帰する実存主義の系譜を産み、他方に類的快の資格を問う共産主義の系譜を産む。共産主義がヘーゲルの類的快に対して資格を問うのも、その類的快に普遍の欠落を感じ取るからであり、結局その欠落も類的普遍における個人の実存の欠落に従う。ただし共産主義が問題にするのは、ヘーゲルにおける媒介的他者が意識の他者ではなく、意識の他者を装う意識であることに従う。そして意識の究極の他者は、物体である。それゆえに共産主義はヘーゲル思想の急進的左翼として産まれ、ヘーゲル思想を唯物論へと転じた。そしてその程度の哲学に収まってしまった。これに対して実存主義は、自ら持つヘーゲル思想に対する反発に忠実である。すなわち実存主義は私的快としての自己意識であり、素直に類的快に反発し、なおかつ私的快としての自己に苦しむ。そしてその絶望を媒介的他者として普遍的自己への解脱を企てる。なおハイデガー哲学がこのキェルケゴール思想の哲学体系化の如く捉えられることもあるが、それほどに両思想は親和していない。結局ハイデガーの実存哲学は、以下に述べるように現象学の実存主義的変様に留まっている。
4.2)現象学
事物の良と人の善は、単独にそれ自身で良や善であるのでなく、自らの良と善を他者に施す対他存在である。それらが持つ他者との相関前提は、手段が相互に連携する一つの事物世界を構成する。現象学が捉える「世界」は、この目的論因果の事物世界である。ただしその事物世界は、目的論因果に従うだけであり、物理因果に従う本来の事物世界ではない。現象学が物理世界を道具連携の世界に転じるのは、自らの独断を他者の独断よりも優位に立てるためである。すなわちそれは意識を物体よりも優位に立てるためである。要するにその世界観および論理は、プラグマティズムである。そのプラグマティズムにおいて自然世界は、その全体が一つの道具である。それがよそよそしい他者として現れるのは、その道具としての本来の姿の喪失に従う。同様に個々の事物が他者として現れるのも、道具世界の連関から切り離されることに従う。その物体化は、部分を全体から切り離すことがもたらす。それは事物の他者化であり、その他者化が道具の物体化である。そしてその物体化の起源を遡ると、自ずとそれは自然世界を部分として切り出し、客観的分析を目指す唯物論に突き当たる。他方で同じくその物体化は、人間世界を部分として切り出し、客観的に分析する客観的合理主義に突き当たる。当然ながらその道具の物体化に対する忌避は、唯物論および客観的合理主義に対する忌避に連携する。現象学にとってそれらは人間を他者化する思想であり、それゆえにフッサールは、近代思想における合理主義の台頭を時代の危機と捉えた。もちろんその最大の敵は、共産主義である。また実際に当時のロシア共産主義は、そのように非人間的な体制であった。ただしその非人間的体制を支配していたのは、物理的事実に裏打ちされず、客観的合理性から遊離した偽物の唯物論であった。とは言えその現実世界の事情は、フッサールにとってどうでも良いことであった。その現実世界の事情への無関心は、フッサールに限らず当時の思想世界全体の傾向に従う。その背景にあったのは、時代を謳歌する低水準な行動主義的唯物論に対する憤慨である。
4.3)判断停止
フッサールの現象学は、デューイらのプラグマティズムの一群にありながら、同じプラグマティズムの思想と比較されたり、その一群として評価されない。要するに現象学はプラグマティズムでありながら、それほどにプラグマティズムの同類だと思われていない。それは現象学における現象限定の方法論に従う。むしろ現象学の名前は、その方法論の代名詞に扱われている。その現象学的還元は対象の分析判断を排除し、対象のありのままの現象を対象として捉える。したがってそれはドイツ観念論が目指した根拠への遡及を断念する。このときに対象に残るのは、その物理組成ではなく、対象に対する意識の独断である。例えばハンマーは釘を打ちつける頭部と手が掴む柄の物理的構成物ではない。それは釘などを打ち付ける道具である。したがってハンマーの柄が木であるかプラスティックであるかは、行動主体にとってもハンマー自身にとってもどうでも良い。当然ながらこのときのハンマーは、道具でありながら既に物体ではない。そのハンマーとしての根拠は目前の物理的塊ではなく、それを釘打ち道具として捉える意識の恣意的独断に依存する。またそれだからこそハンマーは、釘などを打ち付ける局面を離れると逆にただの物体に転じる。それゆえに現象学的還元は、対象が道具であり続ける地点で常に判断を停止する必要を持つ。そしてその判断停止もまた、判断停止地点を決める意識の恣意的独断に従う。この独断だらけの主観的観念論は、ただ単に唯物論への対抗馬としてもてはやされ、哲学世界における時代のニーズにまで登りつめた。しかしその命脈は、その浅はかなプラグマティズムのゆえに短い。それゆえに現象学は、ハイデガーを必要とした。
4.4)実存哲学
哲学的伝統において対象の現象的把握と判断停止は、唯物論の手法である。それゆえにプラトン・アリストテレス以後の観念論は、目前の事象だけを信じる低水準の思想として唯物論を扱い、唯物論者を馬鹿扱いしてきた。そもそも唯物論が唯物論であるのは、対象分析において分析の端点に物体が現れることをもって判断停止することに従う。すなわち物体は現象の根拠であり、根拠に到達した以上、さしあたりその先に根拠の分析が進展する必要も無い。そしてその実利的な思想態度が、伝統的に観念論の憤慨を誘発した。一方で現象学の判断停止も、その実態は根拠遡及の断念である。しかもそれは独断停止のために独断を要請する自己矛盾に満ちた代物である。それは自らが目前の事象だけを信じる低水準の思想であることを自慢げに語る。そしてその高慢のゆえにその判断停止は、唯物論の判断停止よりさらに過激に浅はかである。当然ながらこのフッサール現象学を継承するにあたり、ハイデガーはその現象学的還元について全く無視する。したがってハイデガーは、フッサールのように判断停止の判断をしない。むしろ自らの現象学を解釈学と称し、敢えて自らの独断を前面にたてる。それゆえにその判断は、道具を道具たらしめる根拠にまで遡及する。そこに現れるのは、実存主義的決意であり、行動主体が直に発する純粋な独断である。そしてその現象学規則の恣意的運用は、現象学をさらに主観的観念論に純化する。その客観的合理主義に対抗する非合理主義は、客観的合理主義が台頭する哲学史全体を、本来性忘却の歴史と断じるに至る。それはフッサールの捉えた時代的危機把握のさらなる尖鋭化である。ただしそれらの徴候はいずれも、むしろ現象学の本来の姿である。ハイデガーは独断を個人の実存に結び付けて自らの独断に開き直る。そしてそのゆえに自らの現象学を実存哲学と表現した。しかしその姿勢はむしろ、彼が依拠したキェルケゴールから彼の実存哲学を乖離させる。
4.5)実存主義
キェルケゴールのヘーゲルに対して持つ印象は、天を見て地を見ない足元の不確かさである。そして彼が興味を持つのは、政治や国家でも歴史でもなく、自分自身の在り方である。そのために彼は自らを政治や国家、および歴史から切り離れた単独者として自覚する。当然ながら彼がヘーゲル弁証法に見出すのも、私的快を装う類的快である。それは好奇心旺盛で饒舌に何かを語りながら曖昧であり、それゆえに彼の不安や絶望の解決の足しにならない。通常ならこの時点で人はヘーゲル弁証法から離れる。また実際に「不安の概念」までの彼の著作に弁証法の姿は無い。ところが突如としてキェルケゴールは一度見放した弁証法に舞い戻る。さしあたりその弁証法は美的段階に始まる人生行路であるが、最終的に絶望を媒介にした個人の実存の遷移に至る。その実存を媒介する絶望は、実存の他者として現れ、個人の実存を破壊して死滅させる。しかしその都度に個人の実存は復活する。ここでの絶望は、個人の内部に巣食う不安と違い、個人の外部から飛来する完全な他者である。それゆえにその実存遷移も、独断を独断の他者が否定する弁証法の形式に則る。その弁証法は、自らの独断に固着する主観に対自する客観である。そして自らの独断に固着する主観とは、かつてのキェルケゴール自身である。しかしその自己自身は死滅を宿命づけられている。当然ながらその先に美的直観に埋没していた以前のキェルケゴールの姿も無い。明らかに晩年のキェルケゴールは、そのヘーゲルへの対決姿勢と裏腹にヘーゲルの軍門に下っている。そしてむしろそのことが、彼の実存主義に輝きを与えている。逆に個人の内部に巣食う不安に拘泥したのは、ハイデガーである。しかしそれは晩年のキェルケゴールにとって既に遺物だったはずである。
4.6)博愛
ヘーゲル弁証法における目的論因果は、類的快を目的にした私的快を原因にする。しかしその類的快は国家と民族の限界の中にあり、その精神もドイツ魂に留まる。しかし類を国家と民族の制約に留める限り、その善も同じく国家と民族の限界内に留まる。ところが人間の類的真は、その民族的限界を超えている。しかも物理的真は、その人間の類的真のさらに外側に拡がる。一方で目的論因果に従えば、行動主体の認識対象への超越は、行動主体の私的快と類的快の同一を前提する。例えば行動主体が目的にする国家の実現は、行動主体が推論する内なる民族愛を原因とする。その国家の実現は、行動主体における超越の完遂に等しい。それは行動主体が目的にする対象把握が、行動主体が推論する内なる対象を原因とするのと変わらない。その対象獲得は、行動主体における超越の完遂に等しい。同様に行動主体が目的にする世界平和の実現は、行動主体が推論する民族を超えた内なる人類愛を原因とする。その世界平和の実現も、やはり行動主体における超越の完遂に等しい。それでは行動主体が物理的真を目的にするときに、その目的実現はいかなるものとなるのであろうか? さしあたり判るのは、その目的が民族愛や人類愛を超えた地球愛の次元にあることだけである。そしてその推論は、その地球愛があたかも動物愛護協会や環境保護運動のスローガンになるのを予感させる。また実際に昨今の地球の温暖化問題は、民族問題や貧困問題の如き人間世界の外に広がっている。とは言え温暖化問題は、所詮人間が引き起こした問題である。それは民族問題や貧困問題の延長上にいる。そしてそもそも人間は自然世界の一員である。したがって人間は、単純に民族愛や人類愛の延長において地球愛の次元を自覚し、温暖化問題の克服を目指すだけで十分である。さしあたり地球愛を可能にする類的快は、少なくとも人類に限定した私的快ではないし、もちろん民族に限定した私的快ではさらさらない。それは単純に博愛と表現される一種無個性な愛である。おそらくこの博愛を実践する者は、神に愛される者であろうと推論できるし、実際に尊敬すべき相手である。ただし筆者は博愛主義者ではない。それは筆者が自らの類を狭義で貧者と自覚し、広義で人類と自覚するからである。
(2022/11/06) 続く⇒唯物論の反撃 前の記事⇒目的論的価値
ヘーゲル大論理学 概念論 解題
1.存在論・本質論・概念論の各章の対応
(1)第一章 即自的質
(2)第二章 対自的量
(3)第三章 復帰した質
2.民主主義の哲学的規定
(1)独断と対話
(2)カント不可知論と弁証法
3.独断と媒介
(1)媒介的真の弁証法
(2)目的論的価値
(3)ヘーゲル的真の瓦解
(4)唯物論の反撃
(5)自由の生成
ヘーゲル大論理学 概念論 要約 ・・・ 概念論の論理展開全体 第一篇 主観性 第二篇 客観性 第三篇 理念
冒頭部位 前半 ・・・ 本質論第三篇の概括
後半 ・・・ 概念論の必然性
1編 主観性 1章A・B ・・・ 普遍概念・特殊概念
B注・C・・・ 特殊概念注釈・具体
2章A ・・・ 限定存在の判断
B ・・・ 反省の判断
C ・・・ 無条件判断
D ・・・ 概念の判断
3章A ・・・ 限定存在の推論
B ・・・ 反省の推論
C ・・・ 必然の推論
2編 客観性 1章 ・・・ 機械観
2章 ・・・ 化合観
3章 ・・・ 目的観
3編 理念 1章 ・・・ 生命
2章Aa ・・・ 分析
2章Ab ・・・ 綜合
2章B ・・・ 善
3章 ・・・ 絶対理念