唯物論者

唯物論の再構築

数理労働価値(序論:労働価値論の原理(1)生体における供給と消費)

2023-03-31 07:15:03 | 資本論の見直し

(1)生体における供給と消費

(1a)生体の自己における自己自身と環境世界の区別

 人間に限らず生体の自己は、自己自身を消費して自己を養う。したがって同じ一つの生体の全体において自己自身は供給者であり、自己は消費者である。自己自身は消費される限りで自己から区別される。すなわち生体の自己自身は、自己に消費される損耗可能部分である。これに対して生体の自己は、自己自身を消費する損耗不能部分である。この自己と自己自身は、それぞれ同じ生体の内面と外面を成す。したがって両者は対立した二者ではない。その損耗不能部分は、単純に損耗を免れた生き残りにすぎない。そして損耗を免れることで、損耗不能部分は自己を内とし、自己自身を外にする。それは自己による自己自身の外化である。またこの外化が自己と自己自身を区別する。一方で自己自身の供給分は限られている。それゆえに生体は、不足する供給分を環境世界から仕入れて自己自身に補填する。したがって環境世界は、自己自身を含めた生体全体の供給者である。当然ながらこの環境世界も生体にとって外である。一見するとこの同じ区別が、自己自身を自己にとって外にする。しかしその内と外の区別は、既に自己と自己自身の区別が用意したものである。この自己と自己自身の両者は、端的に分離されるとそれぞれ意識と肉体として現れる。したがって意識と肉体も対立した二者ではない。すなわち意識は、生き残っただけの肉体である。もし自己が生体外の環境世界の自立を認めないなら、環境世界も生体の一部を成す肉体である。また実際に意識にとって、肉体と環境世界にそれほどの差異は無い。自己としての意識は、肉体を外化することで自己自身に対峙する。それは自己による自己自身の初期的な対自である。一方で意識はこの生体の意識と肉体の同じ対自の形式を、意識の自己と自己自身に適用する。そこでの意識の自己は意識の現存在であり、意識の自己自身は意識の表象である。その表象は意識の過去である。それは観念である。意識の自己はこの観念に対して意識作用としての意志に純化する。

生体全体┬自己自身…肉体
    └自己  …意識┬意識自身…観念
            └意識作用…意志

(1b)生体における環境世界と自己自身の内化

 生体の自己における自己自身と環境世界の区別は、自己自身と環境世界を自己の外に扱う。すなわちそれは、自己による自己自身と環境世界の外化である。一方で生体は自己を内として外の環境世界を消費する。それは生体が行う環境世界の内化である。さらに自己は自己自身を外化し、外の自己自身を環境世界と同様に消費する。この自己自身の消費も、自己における自己自身の内化である。自己にとってこの自己自身の内化は、環境世界を内化するための必要な通過点である。言い換えるとここでの自己自身は、自己が環境世界を内化するための必要な媒介である。すなわち意識は肉体なしに環境世界を取得し得ない。意識は目を通して世界を見るし、消化器官を通して食物を吸収する。この生体の自己自身を媒介にした環境世界の内化は、生体における環境世界の認識に等しい。そして意識はこの生体が環境世界を取得する同じ内化の形式を、意識の自己と自己自身に適用する。当然ながらそれは、自己における自己自身の認識である。それは自己にとって外の自己自身の取得である。その自己自身の内化は、自己と自己自身を一体化する。しかし先に見たように、自己は既に自己自身を外化している。また自己と自己自身は区別される。しかし外化で外となった自己自身を内化において内にするのは、一つの矛盾である。


(1c)内化した自己自身に対する自己の外化

 外化した自己自身が内化する矛盾を、自己は自ら外化することで解決する。まず自己は環境世界と自己自身を内化し、環境世界と自己自身を外ではなく内にする。またそれだからこそそれは内化に値する。次に自己が外と内を区別するために、自己は自ら外になる。つまりここでの自己は、自己自身を消費ないし内化して自己自身と一体化する一方で、自ら自己自身から分離して外化する。そのようなことで自己自身の認識における自己は、自己自身を消費せず、また内化もしない。この自己自身からの自己の外化は、自己による自己自身の認識と同義である。このような自己認識に外は存在せず、自己外化が自己を自己自身の外に出す。そしてここでも自己としての意識は、自己を外化することで自己自身に対峙する。哲学で捉えられる対自は、もっぱらこの外化した自己による自己自身の対自である。ただし自己は外化しつつも内であり続け、自己自身は内化しつつも外であり続ける。結局この自己の外化は、先の意識による肉体の対自の変様にすぎない。それと言うのも、その外化と対自は内外の区別を前提し、その区別は生体と環境世界、自己と自己自身の区別に由来するからである。なおここでの自己は、取得した自己自身を喪失することにより空無になる。当然ながらその自己の空無は、意識の空無を表現する。


(1d)意識の肉体に対する初期劣位

 環境世界の供給と自己自身の補填、および自己自身の供給と自己の消費が相殺すれば、その生体の全体は維持される。しかし環境世界の供給が滞り、自己自身の損耗が進めば、最終的に生体は死滅する。そこで供給者の肉体は、消費者にすぎない意識に対して優位する。すなわち意識は肉体なしに存続できない。ここでの意識の損耗不能は、むしろ生体における意識の無益を表現する。それゆえにその消極的な在り方は、意識を肉体に対して初期的な劣位に措く。意識は肉体の冗長部分を成し、生体に対する環境世界の供給と自己自身の補填の余剰を消費する。もしその余剰供給が無ければ、意識は存続できない。それは生存のために生活の全てを充当する動物の一般的姿である。ここでの意識は、生体の内を成す肉体の外にいる。一方で意識の対自は、自己に或る重要な役割を与える。それは生体全体の客観的補完である。それは意識に肉体を統率させる。したがってその役割は意識に対し、肉体に対する形式的優位を与える。ところがこのような意識の形式的優位は、それが肉体補完の前提を満たす限りの条件付き優位を超えない。その意識は肉体補完の前提を満たすことで精一杯であり、それ以上に肉体を統率できない。このような意識は、やはりまだ肉体に対する初期劣位にある。

[現在と過去の初期的な優位関係]

過去 現在
自己自身自己
環境世界・肉体 意識(統率者)

(1e)種における初期劣位の変様

 生体における自己と自己自身、損耗不能な固定部分と損耗可能な可変部分、消費者と供給者は、生体の種や類にも自然発生的に現れる。ここでは種の全体が自己であり、個体は自己自身である。すなわち損耗不能な固定部分は種の全体であり、損耗可能な可変部分は種の個体である。さしあたりその集団の自己は、特段に生体の意識のように特定の意志決定をしない。それは一見すると種における意識の不在である。しかし意志決定の無い集団は、既に集団の体をなさない。そのような集団は種である必要も無く、各個体に分解して構成個体もろともに消滅する。少なくとも集団の意志決定は、集団の維持として現れる。それは集団を構成する個体の損耗に対する、新たな構成個体の補填である。それは構成個体の死滅に対応する種族の子孫生育が対応する。その繁殖は個体の意思決定であると同時に集団の意思決定になっている。したがって種における意識は、構成個体が共有する意志決定が代替する。ここでの生誕直後の生体は、基本的に損耗不能な消費者である。したがってその養育は、損耗可能な供給者が面倒を見る。それは肉体が意識の面倒を見る生体内の一般的関係でもある。意識の肉体への初期劣位に従えば、供給部分である親は、補填部分の子供に優位する。ところが種において親は損耗する自己自身であり、子供は補填される自己自身であり、ともに種における肉体の自己自身である。その同順位は子供の親に対する初期劣位を否定する。むしろその将来見込みから言えば、補填された部位に当たる子供が、供給部位の親に優位する。さらに親は子供の成育において種全体を客観的に補完する。その役割は親を肉体ではなく、逆に意識にする。この場合に意識の肉体に対する初期劣位は、そのまま親を子供に対して劣位させる。種はその子供の優位に従い、親の意識に対し肉体補完の自己犠牲を要求する。そしてその自己犠牲は、前提された親の肉体補完の否定である。したがってここでの意識の肉体への初期劣位は、自らの根拠を失い、ただ意識を肉体に劣位させるだけの仮象に転じる。

[現在と過去の優位関係の変様]

過去 現在 
個(消費者)種(統率者)
親(肉体)子(意識)
親(補完者)子(統率者) 


(1f)意識と肉体の融和

 種の存続は、世代交代の必要から意識と肉体の初期劣位の逆転を演出する。ただしそれは優位順序が異なる二つの肉体における優劣の逆転にすぎない。それは意識と肉体の初期劣位の逆転ではなく、どちらかと言えば初期劣位を維持した肉体同士の逆転である。そこでの始めに供給者であった親の肉体は、子供の意識を演じる。逆に単に消費者であった子供の意識が、親の肉体と入れ替わる。その世代交代で肉体の自己自身は、常に優位にいる。それゆえにその意識の肉体に対する初期劣位の否定は、種全体に波及しない。むしろその肉体の優位は、個別の肉体を否定した種の肉体の優位へと進む。それは一群の生体の全体を肉体とし、それが含む各個体をその補完を担うだけの意識にする。しかしこの動物の実存においても意識の肉体に対する初期劣位は、或る程度まで否定可能である。まず意識と肉体は、もともと同じ生体の諸部位である。そのことは意識と肉体を対等かつ平等にする。次に目的となる肉体は、一方で生体全体に対する供給者であり、他方で消費する生体自身である。したがって肉体の自己自身は、生体の供給と消費の両面に現れる。ただし供給に現れる肉体は、生体の消費財に留まる。それは意識と肉体の両方に消費される肉体の損耗部分である。生体はその損耗部分を生体外の環境世界から補填する。すなわち供給に現れる肉体は、生体の損耗部分と獲得環境世界の結合結果である。それは既に結合前に戻し得ない不可分な結合体になっている。そして労働生産物とは、そのような損耗自己自身と獲得環境世界の結合体を言う。その労働生産物における損耗自己自身は、生産物に対する投下労働に等しい。そして獲得環境世界は、生産物の自然素材に等しい。そして供給に現れる肉体が労働生産物として現れるなら、意識と肉体に対する供給も同じ労働生産物として現れる。このことは意識と肉体の消費面での差異を消失し、両者を対等かつ平等にする。ここで両者の区別の消失を可能にするのは、両者の競合を避ける余剰生産物かもしれない。しかし一度消失した区別は、部門全体の余剰生産物が消滅しても元の姿に戻らない。それと言うのも労働生産物そのものが、両者の融和だからである。このために意識と肉体の両者は、互いに尊重し合い融和する。その原始共産制は、意識による肉体の暴力的支配が現れるまでの束の間の至福にある。

(2023/03/31)
続く⇒序論(2)過去に対する現在の初期劣位の逆転

数理労働価値
  序論:労働価値論の原理
      (1)生体における供給と消費
      (2)過去に対する現在の初期劣位の逆転
      (3)供給と消費の一般式
      (4)分業と階級分離
  1章 基本モデル
      (1)消費財生産モデル
      (2)生産と消費の不均衡
      (3)消費財増大の価値に対する一時的影響
      (4)価値単位としての労働力
      (5)商業
      (6)統括労働
      (7)剰余価値
      (8)消費財生産数変化の実数値モデル
      (9)上記表の式変形の注記
  2章 資本蓄積
      (1)生産財転換モデル
      (2)拡大再生産
      (3)不変資本を媒介にした可変資本減資
      (4)不変資本を媒介にした可変資本増強
      (5)不変資本による剰余価値生産の質的増大
      (6)独占財の価値法則
      (7)生産財転換の実数値モデル
      (8)生産財転換の実数値モデル2
  3章 金融資本
      (1)金融資本と利子
      (2)差額略取の実体化
      (3)労働力商品の資源化
      (4)価格構成における剰余価値の変動
      (5)(C+V)と(C+V+M)
      (6)金融資本における生産財転換の実数値モデル
  4章 生産要素表
      (1)剰余生産物搾取による純生産物の生成
      (2)不変資本導入と生産規模拡大
      (3)生産拡大における生産要素の遷移


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