H神父の神学講座はしばらくお休みということなので、W.ジョンストン師の新刊書を講座参加者の皆さんと一緒に読んでみたい。この度、師の著作 Mystical Theology (1995) がやっと翻訳・出版され、日本語で読めるようになったのはこの上ない喜びで、監訳者の九里彰師(姓はくのりと読む)、訳者の岡島・三好・渡辺さん、出版社のサンパウロに感謝したい。訳者たちはジョンストン師のもとに集まった「いつくしみの会」の方々のようだが、ジョンストン師はカト研の指導司祭でもあった。カト研のみなさんの中にもすでに読まれた方がおられるかもしれない。どのような印象を持たれたであろうか。私は、師の声を聞いているようで何かなつかしい気持ちになった。
さて、本書の原題は Mystical Theology である。日本語訳の題名は、『神秘神学』や『霊性神学』ではなく、『愛と英知の道』となっている。これは素晴らしい題名の付け方だと思う。いろいろ議論の末にたどり着いた題名なのであろう。この「英知」は wisdom の訳語だ。ジョンストン師は本書の中で、誤解を恐れずにいえば、神秘主義神学では、またはもっと限定的には十字架の聖ヨハネにおいては、「愛」はいわば手段・方法で、「英知」の獲得が観想のゴールだと言っている。本書は、愛を通して英知に至る道を説いているというのが、題名の趣旨であろう。
原書の副題は The Science of Love だ。これを 「愛に関する学問」、「愛についての科学」、「愛という術(わざ)」などと訳しても意味をなさない。訳者たちは「すべての人のための霊性神学」と訳している。これもよく考え抜かれた良い訳だと思う。Love の訳語が入っていないのは残念だが、「愛の霊性神学」ではくどいので、これはこれで良い訳だと思う。
このタイトルの訳語の問題は、本書が誰に向かれて書かれたのか、という問いにつながる。ジョンストン師の前著『愛する』(2004・南窓社)は祈る人の観想の手助けとして書かれている。いわば信者向けだ。本書もその性格を持ってはいるが、もう少しアカデミックだし、、実践的だ。また、意図も野心的だ。師はこう述べている。「本書は、十字架の聖ヨハネが16世紀に向けてなしたことを、21世紀に向けて行おうとする」(26頁)。
また、ジョンストン師の英語は流麗で格調高い。古めかしい表現も含まれるが、きれいな英語だ(師はパソコンは使えず、原稿はすべて手書きだったようだ)。内容も専門書といえる。索引も充実している(索引のない本は専門書とはみなされない)。つまり、本書はたんなる信心書ではない。この点で言えば訳文は「ですます調」で、とても読みやすいが、やはり観想の祈りの手引きという印象を与える。九里師は本書は神学校の神学課程の修徳神学の教科書としても使えると言っているが、本書の射程距離はもう少し広く、もっとアカデミックだと思う。原書が持っているアカデミックな性格がもう少し強く出れば、読者も専門家や一般人に広がり、多くの人が手に取りやすくなるような気がした。といってもこれは無い物ねだりで、日本語の訳文は本当によく練られている。翻訳に6年かかったとのことだが、訳者たちに敬意を表したい。
さて、それでは本書の目次を見てみよう。本書の特色の一つは、著者のジョンストン師が、15頁にわたる詳しい序文をつけて、本書の内容、目的、意義を述べていることだ。また、監訳者の九里師が「はじめに」と「解説」において本書の現代神学上の位置付けをしてくれていることだ。ジョンストン師はイエズス会、九里師はカルメル会だ。修道会の違いは一般にはあまり意識されないが、カルメル会の霊性の中心は祈りと観想だ。そしてジョンストン師が本書の中心に置き、神秘主義神学の代表者として論ずるのが十字架の聖ヨハネである。十字架の聖ヨハネは、スペイン・アビラのイエスの聖テレジアとともに16世紀にカルメル会の改革をはたした聖人である。九里師が監訳者として詳しく解説を書かれたのはよかった。九里師は生前のジョンストン師に一度会われているようで、かれの温厚な人となりはよくおわかりのようである。
本書は全体が3部に分かれている。第一部は「キリスト教の伝統」と題され、6章からなる。神秘主義神学の成立と発展の歴史が紹介される。第2部は「対話」と題され、4章からなる。かっての神秘主義神学では現代の問題・課題に対応できないとして、特に自然科学・アジア的霊性・性の問題を神秘主義神学の立場から論じる。第3部は「現代の神秘的な旅」と題され、最初の第11章~17章では主に十字架の聖ヨハネに従いながら新しい神学の「構想」を述べる。残りの第18章・第19章は「活動」論で、社会参加や現実的関与の神学的意味が解き明かされ、ジョンストン師の主張が展開される。つまり全体としていわば正反合の弁証法的構成になっている。その叙述の仕方は、キリスト教では伝統的な(ビザンツ的な)手紙・対話形式ではないし(例えば『愛する』)、またトマス主義的な質問・否定・正解というカテキズム方式(例えば『神学大全』)でもない。オーソドックスな論述式なのでフォローしやすい。
念の為に目次を見てみよう。
序
第一部 キリスト教の伝統
第1章 背景(1) 第2章 背景(2) 第3章 理性 対 神秘主義 第4章 神秘主義と愛 第5章 東方のキリスト教 第6章 愛を通して生まれる英知
第二部 対話
第7章 科学と神秘神学 第8章 修徳主義とアジア 第9章 神秘主義と根源的なエネルギー 第10章 英智と空
第三部 現代の神秘的な旅
第11章 信仰の旅 第12章 浄化の旅 第13章 暗夜 第14章 愛のうちにある 第15章 花嫁と花婿 第16章 一致 第17章 英智 第18章 活動 第19章 社会活動の神秘主義 補遺 般若心経(現代語訳)
カトリック神学に馴染みのない人にはわかりずらい訳語もあるので少し補足しておこう。第6章の英知とはwisdomの訳語だ。wisdomは旧約の知恵の書のように知恵とも訳されるようだ(知恵の書はプロテスタントは認めていない)。第8章の修徳主義とはasceticismの訳語だ。禁欲主義という訳語より修行・苦行の側面を強調しているようだ。第10章の空とはemptinessの訳語だ(というより空(くう)をemptinessと英訳しているというべきか)。第14章の「愛のうちにある」は Being-In-Love の訳で、単なる Love とは区別されており、重要な概念だ。(ちなみにジョンストン師の前作『愛するの』の原題はBeing in Loveである)。 第18章の活動はaction,第19章の社会活動はsocial action の訳語だ。actionは、actと区別して、行為、行動、運動などの訳語もありうるだろうが、『現代世界憲章』では「社会活動」(34項)、『カトリック教会の教え』では「人間の活動」(第3部第7章第2節)と訳され、「活動」が定訳のようだ。 補遺の般若心経は The Heart Sutra の岩波文庫の中村元訳が使われている。
それでは本文をのぞいてみよう。まず「序」がある。この序文は普通によく見られる序文とは異なり、長文で(15頁)、詳しく、本書全体の要約のようでもある。この分厚い本書全体を読み通せないなら、この序文だけでも読むに値する。だが、ジョンストン神学に通じていないと理解はなかなか難しいともいえる。
ジョンストン師は本書を書いた主な理由を二つあげている。ひとつは20世紀に入って神秘神学への関心が急速に高まってきたが、適切な道案内と手助けになる本がないので、新たな神秘神学の入門書が必要になってきているからだという。二つ目は、既存の神秘神学は現代の問題や課題(自然科学・アジア的霊性・性・社会問題など)に応えられないので、新しい神秘神学の体系化が必要だ、というものだ。極めて野心的・挑戦的な課題設定である。
第一の課題は、神学がどのように発展してきたかを整理・フォローすることから始まる。最初まず神秘主義は3世紀のオリゲネスに始まる。理論化は同じく4世紀にカッパドキアの3教父の否定神学としておこなわれる。やがて開花期の神秘主義神学は5世紀末に登場したシリアの修道士ディオニュソスによって基本的に頂点に達する。トマス・アクィナスを経て14世紀に入るとラインラント、フランドル、イングランドにきら星の如く神秘家たちが登場する。『不可知の雲』を著した英国人、十字架の聖ヨハネに代表されるスペインのカルメル会の修道者たちが古典的な神秘主義神学を完成する。本書は基本的に十字架の聖ヨハネの教えにしたがって古典的な神秘神学の解説をおこなっていく。20世紀に入ると神秘神学は「修徳神秘神学」と呼ばれるようになり、神学校で教科として教えられるようになる。ジョンストン師の神学校時代である。やがて第二バチカン公会議のあと、神秘神学は教科としては姿を消す。「現代世界」に適合的ではないとみなされたようだ。だがこの間ジョンストン師は静かに神秘神学を研究し、実践し、生き延びていく。そして師が到達した結論はこうだ。「21世紀の人たちのために神秘神学を書き直す時が来ている」(15頁)。
十字架の聖ヨハネによれば、神秘神学とは観想のことだ。「神学とは、知恵のことである」という古くからの伝統に従い、聖トマスは神秘神学とは「愛から生まれる秘められた英知」だと定義する。つまり観想のことだ。だがジョンストン師は、この定義を現代に適合するように修正・発展させる。神秘神学の新しい定義は「愛から生まれる秘められた英知について考察し、それを説く学問」となる。ではここでいう愛とはなにか、秘められたとはなんのことか、英知とはなにか、が問題となる。まず愛とは、神への人間の愛ではなく、人間への神の愛のことを意味する。だから神秘的体験とはこの神から注がれる愛を深く体験することを意味する。具体的には観想である。観想は、最初は神の気配をおぼろげに感じるだけだが、やがて<内的な火>となってくる。浄化が始まる。この生ける炎を聖霊とよぶ。
つぎに、<秘められた>とはなんのことか。それは神秘的な知識のことをいう。つまり、<無>として、<空>として、<虚空>として体験される、不可知の雲の中に隠れたぼんやりした形のない知識のことをいう。つまり、知識には二種類あって、一つは知るという普通の生活や科学や学問に用いられる知識だ。もう一つは、あいまいで、暗く、形がなく、ぼんやりした知識だ。この二番目の知識こそ、<秘められた神秘的英知>とよばれる。いわば、実用的知識と神秘的知識の区別といえようか。そしてこの曖昧模糊とした秘められた知識こそ、<光>とよばれ、<内的な火>とよばれ、キリスト教の神秘体験の中核をなしている。聖ヨハネはこれを<不知の知> (knowing by unknowing) と呼ぶ。訳者たちはこれを「理解しないで理解すること」と注釈しているが、観想とは不知の知のことである。なにか禅問答のようですが、黙想や観想を経験しないとわからないことなのかもしれません。
また、聖ヨハネの神秘神学にはスコラ学が深い影響を与えている。たとえば、霊魂の三能力(知性・記憶・意志)は「対神徳」(信・望・愛のこと)だと説明するが、これは文字通りスコラ学だ。だが、これでは現代の神秘神学にはなりえない。そのため、ジョンストン師はB・ロナガンの方法論を援用し、<愛のうちにある> (Being-in-Love)論を取り入れて、現代型の神秘神学の体系化を目指そうとする。
神秘神学を現代型に新たに書き直そうとする時、直面した課題がいくつかある。まず第一に「時代に即したものにする」こと(25頁)。修道士や修道女のための神秘神学ではなく、普通の信徒や一般人のための神学でなければならない。具体的には神秘生活における<性の役割>を解明する必要がある。第二に、アジアの宗教がすぐれて観想的であることがわかってきた。仏教やヒンズー教などのアジア的霊性から<瞑想>について多く学んでいく必要がある。第三に自然科学の発展がある。ガリレオやニュートンやアインシュタイインのような偉大な科学者の発見によって作られた現代人の宇宙観を組み込んだ神学が必要になっている。第四に現代人がもつ社会的関心を組み込まねばならない。現代世界の不平等、格差、環境破壊、など<社会的な苦悩>に立ち向かえる神学でなければならない。 「序」の最後にジョンストン師はこう述べている。「ですから、本書は、十字架の聖ヨハネが16世紀に向けてなしたことを、21世紀に向けて行おうとする、ささやかな試みです」(26頁)。
本文には次回から入っていきたい。