Ⅱ 仏教の教義
仏教の教義をまとめるのは至難の業だ。ましてや、仏教に体系化された教義が存在するのか、阿含と上座部と大乗はどこが共通なのか、各宗派がいわば勝手に教義を展開しているだけではないか、などという根本的な問いも出てくるだろう(注1)。それを承知でS氏は以下の11項目を教義として整理された。
ところで、お経には小乗経典と大乗経典がある。前者は阿含教とも呼ばれ、シャカ在世当時の教えなどを集めた経典で、『大般涅槃経』(だいはつねはんぎょう)が有名だという。『ジャータカ』も有名で、その中のいくつかのシャカの逸話はイソップ物語や日本の『今昔物語』にも入っているという。大乗経典は『大般若経』『法華経』『浄土三部経』などが有名だという。キリスト教ならとにかく『新約聖書』から読み始めるわけだが、では仏教では何から読み始めるものなのだろう。『般若心経』『歎異抄』『正法眼蔵随聞記』などがすぐ思い浮かぶが、それらが仏教を学ぶ最初のお経、入門書として妥当なのだろうか。『般若心経』は浄土真宗では決して読まれないという。『法華経』(観世音菩薩普門品第二十五)も各宗派で良く読まれ、『般若心経』とともにポピュラーなお経らしいが、私はいままで読む機会はなかった。第一どこでどう手に入れたら良いかもわからない。
この状況は日本仏教の特徴なのだろうか。奈良仏教は「南都六宗」とよばれ、「諸宗兼学」で僧侶は複数の宗派に同時に所属していたという。他宗のお経も学んでいたわけだ。六宗といっても現存しているのは、薬師寺・興福寺を本山とする法相宗、東大寺を本山とする華厳宗、唐招提寺を本山とする律宗の3宗派だけだという。天台・真言の平安仏教ではさすがこういう重複所属は消えたようだが、鎌倉仏教になると独立した信仰集団としての性格が強くなり、読まれる中心的なお経も個別化していったのであろう。鎌倉仏教は日本仏教を強化したとその革新性が強調されることが多いが、あまりに強調しすぎると仏教の本質や共通性が見えづらくなると批判する研究者も出てきているようだ(末木文美士『思想としての近代仏教』2017)。
つまり仏教の教義は体系化されていない。いろいろな説が出されているが、どうしてもまとめずらい。S氏のまとめも以下のように教義の羅列になってしまうのはいたしかたない。
2.1 四法印
諸行無常(一歳の者は常に変化する)
諸法無我(法とは物のこと、我とは実体のこと すべての物には実体がない)
涅槃寂静(煩悩の火を消し、覚りの世界に到達する)
この三つを三法印と呼んで仏教の根幹をなす思想とする説と、
一切行苦(すべては苦)
を含めて四法印とする説もあるらしい。法印とは仏教の教えのしるしのことで、仏教の教義の基礎をなす根本教説という意味のようだ。
2.2 縁起説
これも根本教理の一つで、老死に代表される人間の苦悩はなぜもたらされ、どうすればこの苦悩から解放されるのかという問いへの仏教の答えである。縁起論争は原始仏教・部派仏教・大乗仏教のすべてを通じてみられ、現代の仏教思想史研究でも中心的テーマになっているという。つまりは今でもさまざまな解釈が展開されているということであろう。
原始仏教では「十二支縁起説」が成立し、これが正統な説として広がったという。縁起とは、個々の法(ダルマ)ではなく、法と法の間の因果関係のことだから、縁起支は12個で定着したようだ。十二支とは、無明(無知)・行(意志的行為)・識(認識機能)・名識(みょうしき 名称と形態)・六入処(6種の感覚機能)・蝕(対象との接触)・受(苦楽の感受)・愛(渇愛)・取(執着)・有(生存)・生(生まれ生きる)・老死。これらが系列的に生起して(因果関係となって)老死にいたるということらしい。つまり、最後は、「生」の消滅によって「老死」が消滅し、苦しみが解決されるというロジックらしい。「還滅の系列」と呼ばれるようだ(岩波哲学思想事典)。
興味深いのは、ここでの「愛」が渇愛とされ、内容は、欲愛(感覚的快楽)・有愛(自己愛)・無有愛(虚無への愛)とされている点だ。キリスト教は love を「愛」と訳したが、愛とは情欲を連想させるので適訳ではないという議論は、この縁起説にまでさかのぼれるのだという。今更訳語を変えることはできないし、実際、現代日本では、「愛」の内実はアガペーに変わりつつあるのではないか。
2・3 四諦説
すでに触れたが、諦とは真理のこと。苦集滅道からなる。
苦諦:人生は苦しみに満ちている
集諦:現世は「五蘊」の集積である。人間と現象界の存在すべてを構成する5種類の原理。色・受・想・行・識の五つ。すべての存在は五蘊から成立しているから「無我」であるという。『般若心経』では「五蘊皆空」といって、自我への執着を厳しく戒めている。
滅諦:煩悩を滅する
道諦:修行の道 八正道のこと
2・4 煩悩論
煩悩とは心身を悩ませるすべての心理作用。百八煩悩とかいわれ、たくさんあるようだ。主なものとして、貪欲(むさぼり)、瞋恚(しんい 怒り・恨み)、愚痴(無明)、見(仏教以外の誤った考え)、が紹介された。
2・5 輪廻
輪廻とは死と再生を繰り返し続けることで、車輪の回転にたとえているという。ヴェーダにもみられるインド思想で、原始仏教に流れ込む。原始仏教では死後の問題は「無記」として退けられている(死後どうなるかなんて考えても無駄という教え)。他方、大乗仏教では、六道(六趣)輪廻として、天・人・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つの世界を回るという。日本でも定着した考えだ。仏教は無我説をとるので、つまり、固定した自我とか自己は存在しないと考えるので、業(ごう)の思想が輪廻の思想と混ざると何が輪廻するするのか、という問題が浮上する。仏教は霊魂の存在を認めないのだから(死んだらお終い、死体に意味は無い、キリスト教が言う肉体の復活なんて想像すらできないらしい)、何が輪廻するのかを明らかにするのは仏教教理の大問題らしい。
2・6 空の思想
空の思想は、原始仏教でも禅定(禅)をなす場所という意味で実践的な性格が強かったという。やがて、無我説に基づいて五蘊からなる世間を空とみなす考えが生まれる。けれども、空の思想は、普通、大乗仏教の根本教理とされる。特に般若経の空の思想、中観派(ナーガルジュナ、龍樹)の空の思想が中核となっているという。般若経は実践徳目としての知恵の完成(般若波羅蜜)を重視する。悟りや涅槃などあらゆるものへの無執着の状態を「空」と呼んだ。
龍樹(ナーガルジュ AD150~250頃)は縁起論にもとづくこの般若経の空概念を批判し、すべては時間的・空間的に他との関連性においてのみ存在するとした。実体や本体の固定性を認めない。相関主義とでも呼べそうな思想だ。中観派の中観とは存在と非存在の中道のことで、最高の真理は言葉では言い表せないとした。「空性(くうしょう)」と「自性」を唱え、主観・客観の2要素は空であるとした。かれの『中論』は中村元訳で今でも良く読まれるようだ。
こういう主張は、キリスト教からは「否定神学」との類似性、共通性が繰り返し指摘されている。ジョンストン師も「空」や「無」の思想を否定神学の視点から検討し、その摂取を試みている(『愛と英知の道』第10章)。だが、否定神学は肯定神学との対立の中で発達してきたのであり、例えばナーガルジュの八不中道説は否定神学とは言えないように思えるがどうだろうか(橋爪・大沢『ゆかいな仏教』2013)。
2・7 五蘊の思想
すでに触れたようにすべての存在は「五蘊」から成り立っているため「無我」であると説かれる。五蘊とは、色(身体)・受(感覚)・想(表象)・行(意志)・誠(心)のことをさす。これは仏教の人間論、自我論といえるようだ。
2・8 三蔵
これもすでにみたように、経・律・論のことで、この三つがそろってはじめて仏教の教理が成立するという。日本で良く読まれるお経の解説書はかなりあるようだが、お経は漢文書き下し文でちょっと簡単には手が出ない(注2)。
2・9 三身論(さんじん論)
ゴータマ・シッダルータは悟りを得て仏陀(ブッダ)になった。新しいブッダ論は特に法華教で展開されたようだ。三身論である。これはブッダの「仏身論」で、ブッダの身体を二つとか三つにわけて論じる議論だ。原始仏教の仏身論は法身・色身の二身論だったが、大乗仏教では三身論となる。ゴータマは悟りを得て涅槃に行ってしまった。でも現世にもいる。どうしてあっちにもこっちにもいられるのか、という問いであろう。仏とは、ゴータマであり、宇宙の真理であり、かつ覚者でもある(注3)。大乗仏教では、①宇宙・自然の真理(仏性)を「法身」とよび、時間と空間を超越した真理と合体して悟りや救いを得る、②その属性(機能)を「報身」とよび、仏性の働きである知恵と慈悲心を感得する、③この世で悟ったシャカを「応身」と呼び、悟りを開いたシャカの姿を見る、つまり歴史上のシャカ、と区別した。仏はこのように三種類に分けられるが(注4)、すべての仏は宇宙の法の働きから「かくの如く来たれる」という意味で「如来」と名付けられる。①は毘盧遮那仏(如来)、②は阿弥陀仏(如来)、③は釈迦牟尼仏だ。どうもこの順番で偉いようだ。
日本では、人は死ぬと成仏してホトケになる、と信じられている。これは一種の民間信仰だろうが、仏教はこの民間信仰に適合するために三身説を強調したようだ。このため日本では三身説は広く受け入れられていった。日本の大乗仏教ではこのためいろいろな仏像が造られてきている。これは三身の仏にすがる人が、目的に応じて三身の見分けがつきやすいように造られたのであろう。しかし鎌倉仏教以降、各宗派の自立性が高まってくると多くの仏典のなかから「教相判釈」(教判)をおこない、自分たちの宗旨に合う本尊仏をまつるようになる。結果、宗派や寺院ごとに別々のいろいろなご本尊が生まれ、いろいろな仏像が拝まれるようになった。このため、外部の人間にとっては何が何の仏様なのかわからなくなってしまったようだ。現在でも自分の家の宗派のご本尊がなにかわからない人が多いのではないだろうか。
2・10 菩薩
三身の仏の脇仏として侍ったのが「菩薩」だ。だから菩薩は大乗仏教にしかいない。仏教の修行者という意味で使われることもあるが、本来は成仏を求める人を助けるのが菩薩で、観世音菩薩や地蔵菩薩が代表例だ。涅槃から救済のために降ってきたとも説明される。如来の前段階みたいな存在らしい。報告後の討論で、菩薩はカトリックでいう取りなしをする聖人みたいな機能をはたしているのではないかという質問があり、話ははずんだ。
2・11 唯識論
唯識論は、「空の思想」とならんで大乗仏教の根幹をなす思想だ。理解が難しい思想といわれる。人は輪廻するが、死んで輪廻するのは霊魂、魂、ではない。仏教は霊魂の存在を認めていない。だが、死んで消えるのは、意識の部分で、その下に、いわば無意識の部分が存在する。輪廻し、再生するのはこの無意識の部分だと考える。つまり、人間精神はいくつかの層からなっていると考える。唯識とはこういう層をなした人間の意識・無意識を指すようだ。唯識論を定義的にいえば、すべての存在は我々の心の本体である「識」によって仮に作り出されたものに過ぎないという説である。なにか観念論風に聞こえるが、実は一種の心理学のようだ。まるでフロイトやユングの話を聞いているようである。
唯識では人間の心は八段階に区別される。まず五識がある。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識で、これは普通の知覚のことだ。ついで、意識が加わって、眼耳鼻舌身意の六識がある。この下にあるのが七識のマナ識で、深層心理学風に言えば「自我」の部分だろう。、さらにその下にあるのがアーラヤ識(阿賴耶識)で、最も理解説明が困難な識という。言ってみれば、生まれる前の自分、私という自己意識の前の自分が持っている生命、精神という感じだ。前世の自分といっては言い過ぎか。輪廻転生するのはこの部分なのかもしれない。いずれにせよフロイトのイドではないようだ(注5)。
唯識思想は玄奘三蔵が七世紀にインドに行って学んで中国に伝えた。日本には奈良時代に入り、法相宗の興福寺を中心に広まったという。現代日本人が輪廻思想をそのまま受け入れているとは思えないが、唯識論が持つ徹底した「反実在論」は広くうけいれられているのではないだろうか。認識する主体である自分の心から独立した実在、存在を認めない。客観的な実在と思えるものも結局は心が作ったもので、人が異なれば、心が異なれば、違ったものが見えてくる。こういうどちらかと言えば主観主義的な見方は広く受け入れられているのではないか。社会学で言えば、一世を風靡した「社会構築主義」(Social Constructionism)が思い起こされる。この学派は、実証主義が主流の社会学の世界ではそれなりの位置を占めていた時代があったし、現在でも生きている。また、社会学を離れて一般的に言っても、あまり自覚はされていないが、唯識論的思考は現在も生きているように思える。
以上のようなS師のまとめは興味深かった。といっても教義が体系化していないのだからこの要約にも体系性はない。どちらかといえば外国の宗教学風の整理の仕方という印象を持った。例えば、密教が取り上げられていない。唯識論は触れているが、『大乗起信論』はでてこない。鎌倉仏教や禅がでてこない。会の今後の議論の展開に期待したい。
注1 カトリックからみると、仏教には体系化され、統一された教義がない。だから、正統と異端の区別がない。仏教の異端なんて聞いたことがない。組織も教団ごとで統一組織がない。したがって教区に対応するような地域集団がない。これは次の第三講でもう少し言及してみたい。
注2 瓜生中『よくわかるお経読本』2014、 由木義文『よくわかるお経の本』など、専門家で無い人向けの解説本ですらとっつきにくい。
注3 仏教では「覚者」(覚った人)が最高存在だが、キリスト教では、「知者」(sapiens)が最高存在とされる。知者とは「英知」という「徳」を身につけたもののことだ。知者は、最高原因である神を中心とした宇宙全体の秩序を認識しうる(山本芳久『トマス・アクィナスー理性と神秘』2017)。
注4 キリスト教の「三位一体論」では、神は三つの「位格」(ペルソナ)を持つのであり、仏身論のような「身(体)」ではない。
注5 ジョンストン師は、空や無についてはあれだけ詳細に語っているのに、唯識思想については明確には語っていない。だが、師は意識や無意識の下にさらに別の世界、「神秘の領域」、があると繰り返し述べている。「人間の深奥部に隠れているこの偉大な神秘について、心理学は語ることができません・・・仏性とか三位一体について話す場合は、科学から信仰へと方向転換しなければなりません」(『愛と英知の道』329頁)。師は唯識論を知っていたのではないだろうか。