カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

仏教とキリスト教(その8)ー禅と神秘主義(学びあいの会)

2018-05-30 21:30:20 | 神学

 以下は上田閑照「禅と神秘主義」という古い論文の要約の報告である。上田先生は、西洋思想の中で禅に最も近いと言われるエックハルトをとりあげ、両者の異同を明らかにする。

3 禅と神秘主義 趙州和尚とエックハルト

3・1 趙州従しん(言偏に念) 「庭前の柏樹子」(ていぜんのはくじゅし)

 これは、『無門関』にある有名な問答だ。趙州(じょうしゅう)従しん(じゅうしん)という9世紀の大禅匠(和尚)の問答で、「如何是祖師西来意」という問いへの答えである。今回の岩波『広辞苑』第7版でも初めてこの説明が出たと言うことで話題になった問答である。祖師西来(そしせいらい)も項目として説明されているのだからさすが広辞苑である。祖師(達磨)がインドから中国に来た目的や意義は何かと問われ、従しんが「それは庭先の柏の木だ」と答えたという。いろいろな解釈があるようだが、仏とは何かとか、禅とは何かとか、つまらないことを考えないで柏の木のように無心になりなさい、ということらしい。無心がキーワードだ。特に黄檗宗ではこういう解釈をとるようだ。問題はこの解釈の是非より、エックハルトの問答との比較だ。

3・2 エックハルトの問答

 これに相当するキリスト教の問答は、「何故に神は人となり給うたか」だ。
Cur Deus homo (受肉の秘義)といわれる。エックハルトの答えは明快だ。「それは汝らをキリストと同じく神の子として生み給わんとする故である」。伝統的な贖罪論にくらべてすこぶる仏教的だ。「一人一人が神の子となる」・「一人一人が仏となる」。よく似ている。だが、エックハルトの答えは禅の公案にくらべもっと論理的な印象を与える。
 これは、エックハルトの神概念についてもいえる。「神は何故を持たない。神に何故なし」。神は純粋存在で、何故なしにその行為は充満そのものの中から自然に流出する。神について問うならば、「神が神であるがゆえに」と答えるしかない。「神は何故人となり給うたか」「何故なし」という問答は、「如何是禅師西来意」「西来無意」という問答に近い。わたしが思うに、時代も場所もはなれて人は同じような問いを発し、同じような答えを導き出すものなのだろうか。。

3・3 シレジゥスのバラ

 シレジゥスのバラの話(格言)は聞かれたことがあるだろう。シレジゥス Angels silesius (1621-1677)はドイツの神秘主義詩人で、エックハルトの思想を時代を超えてよく表現しているといわれる。

Die Ros ist ohn warum;sie bluehet,weil sie bluehet.(注1)

 いろいろな訳があるようだ。「バラは何故なしに在る。それは咲くがゆえに咲く」。または、「バラは理由なく咲いている。誰が見ているかも気にせずに、ただ咲いている」など。要は、バラは何故なき神の命の現れで、神の内にバラを見、バラの内に神を見る、ということのようだ。これは神と被造物を同一視しているように聞こえ、汎神論に無限に近い。異端視される危険性は常にあるが、エックハルトは神と被造物は明確に区別していたという。

3・4 理から事へ 切捨と突破

 上田先生は、シレジゥスのバラ論は禅に大分近づいているがまだ幾分「理」が残っているという。さらに単純化して単に「バラの花」という「事」にすれば、より禅的表現となる。つまり、「バラの花」は「庭前の柏樹子」に対応するという。宗教は哲学や思想のように「理」ではなく、「事」(体験)を重視する。神を理屈で理解するのではなく、事として、事実として理解するという。
 また、禅の「切捨」の概念は、エックハルトの「離別」(Abschiedenheit)概念に近いし、「突破」(Durchbrech)(英語風に言えばbreakthroughか)概念も禅風だという。エックハルトは、「神は何であるか」と問われ、Got ist ein nicht と答える。無であるという。これは神は無いという意味ではなく、人間の語る有ではなく、あらゆる有をこえる有で、人間の言葉で表されるものではないという意味だという。無の背後に実体が存在するとする。 weder diz noch daz (これに非ず あれに非ず 注1)で、究極の真理を「実体」として捉えている。
 他方、禅では、究極の真理を「縁起」として、つまり「関係」として捉える。無の背後にあるのは実体ではなく関係のみだと考える。実体論を徹底的に否定するのが禅の思想だという。「有に非ず、無に非ず、有に非ざるに非ず、無に非ざるに非ず」が禅の思想で、キリスト教と禅の根本的違いはここにあるという。実体か関係か。ここから先は哲学の世界で、上田閑照論になるのでここまでにしておこう。


補足 日本とヨーロッパの中世の大宗教家たち

アンセルムス 1033-1109
アベラール 1079-1142
法然 1133-1212
栄西 1141-1216
ドミニコ 1170-1221
親鸞 1173-1263
フランシスコ 1182-1226
アルベルト 1200-1280
道元 1200-1253
ボナベントーラ 1217-1274
日蓮 1222-1282
トマス 1225-1274
エックハルト 1260-1331
ドウンス・スコトゥス 1265-1308
ウイリアム・オッカム 1285-1345

 これを眺めていると、12世紀・13世紀のヨーロッパと日本における思想と宗教がいかに豊穣であったかを思い知らされる。昔、我々が若かりし頃、「暗黒のヨーロッパ中世」などと臆面も無く教科書に書かれていたことが思い起こされ、心が痛む。

コメント

 報告のあと特に質問は無かった。とはいえ、わたしには一つの疑問がずっとひっかかっていた。それは、最近のカトリック司祭や神学者のなかで神秘主義や禅に関心を示す人がほとんどいなくなったのは何故だろうという疑問だ。1970年代、クリスチャン禅とよばれる運動が盛んで、愛宮師(ラサール)、門脇師、ジョンストン師などが活躍していた。あれは1970年代固有の現象だったのだろうか。何故現在神秘主義神学や禅への関心が衰退しているのだろうか。時代が変わったのか、教会が変わったのか。
 「戦争と平和」が現在のカトリック者の主要な関心事になっているとはいえ、司祭にはもう少し広く、深い射程距離を持って欲しいと願っている。正平協路線だけが日本の司教団が進む道とは思えない、とぼやいているが、まわりからはまぁまぁとたしなめられている(注2)。年をとるとぼやきが増える。困ったことだ。

注1 古語だから文法、表記は現代ドイツ語とは異なる
注2 ヴァチカンでは組織再編で正平協は無くなったようだが、日本の中央協議会はどうするのだろう。新体制の動きを見守りたい。

 

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