カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

教会は神の自己譲与 ー 教会論(3)

2019-12-16 16:51:07 | 教会

 12月の学びあいの会は岩島師の教会論の続きである。師の『キリストの教会を問う』がベースである。第4・5章は教会の「発生論」、第6・7・8章が「本質論」となるようだ(1)。発生論では、「使徒の教会」・「エルサレムの教会」・「異邦人の教会」の三者の違いが説明され、本質論では教会の自己理解が「神の民」・「キリストの体」・「聖霊の神殿」という三側面から説明される。S氏の紹介は丁寧なものだったが、かなり細かい話なので、ここではポイントのみを整理しておきたい。

第4章 教会の発生

 発生というのは聞き慣れない言葉だが、ここではイエスの復活体験を契機とした教会の誕生とユダヤ教からの脱皮・発展の過程を指しているようだ。

1 神の自己譲与である教会

 師は、教会は「神の自己譲与」(Selbstmitteilung Gottes)であるという視点から説明を始める。イエスの復活により教会が発生したのであり、教会は神の人間への自己譲与であるとする。神の自己譲与(譲渡)といわれても、カト研の皆さんにはわかりきったことでも、ピンとこない人もいるかもしれない。K・ラーナーの創造論によれば、神は世界を作ったとき、それを自分から切り離して対象化して被造物としたのではなく、神は本当に自分自身の存在を被造物に「譲与 mit-teilen 」したという(2)。

2 復活の出来事

 イエスの復活があってはじめて教会が生まれてくる。

①復活の性質 : イエスの復活を歴史的に客観化することは不可能だ。イエスの復活を見たという「復活体験 Ostererfahrung 」によってのみ、つまり信仰体験によってのみ、復活の意味は明らかになる。

②復活のテキスト:新約聖書における復活物語は三種類ある。この3つをきちんと識別することが大事だ。

A 復活のケリグマ:何箇所もあるが最も有名なのは、Ⅰコリント 15:3〜8 だろう。
B 空の墓 物語:4福音書全てに記載があるが、マタイ28:1〜15 の描写が感動的だ。
C 弟子への顕現物語:4福音書、使徒行伝、コリント前書に見られるが、マタイ28:16〜20 など描写は詳しくはない。

 聖書の記述に史実を求めるのは無理で、復活の証言は使徒の権威によって裏打ちされている。その弟子たちも復活体験のなかで変貌していく。

③復活体験の内容: 復活体験には以下の内容が含まれる

A 弟子たちは生前のイエスと同一のイエスに出会った
B イエスを神の子キリストだと確認した
C 聖霊を受け、罪をゆるされた
D 使命を受け、遣わされた

④ 復活体験の二重性 : 復活の体験は二重の意味を持っている

A イエス自身に起きた客観的出来事としての復活体験 : イエスが神の子とされた
B 体験者におきた主観的出来事としての復活体験 : 恵みと罪のゆるし

 つまり、神の自己譲与に対する最初の応答が教会の誕生である(3)。

3 使徒の教会

 教会はまず使徒の教会として生まれる。では、使徒とは誰か。これは難しい問題らしい。普通使われる「12使徒」はルカの用語であり、ルカは、最初にイエスによって選ばれた12人の弟子たち、という意味で使っている。ではパウロは使徒ではないのか。パウロは自分は使徒だと繰り返し主張している。ルカもパウロも、イエスの「兄弟(カトリックでは従兄弟)ヤコブ」を使徒と呼んでいない。また、女性の使徒もいたようだ。つまり、使徒の条件や定義は時代とともに変わってきたようだ。
 そこで岩島師は、使徒を次のように整理している。

A 教会全体を代表して送られた「使者」のこと:2コリント8:22〜24、フィリポ2−25
B 原始教会の「伝道者」
C 12使徒+パウロ

{最後の晩餐}

 

 新約聖書ではアポストロス(使徒)ということばは、マルコでは6:30のみ、マタイでは10:2のみでつかわれているにすぎない。だが、ルカは、福音書では7回、使徒言行録では28回用いているという。使徒はルカの言葉とさえ言えそうだが、これが歴史的には定着していった。
 パウロは12人と使徒を区別して、自分を使徒としている。使徒とは福音伝道の担い手のことと考えていたのだろう。使徒を復活したイエスと遭遇した者と考えるならもっとたくさんいただろう。イエスに選ばれた者という意味では12人ということになる。
 岩島師は幅広く捉えているようだが、要は、教会の基礎は使徒にあり、その歴史的一回性に特徴があるという。つまりその後に使徒はいない。

第5章のエルサレムの教会と異邦人の教会の話はは次回に回したい。



1 念の為に、本書の目次を掲げておく。

第1章―教会論の現状と目的
第2章―教会の本質とそこからくる方法論
第3章―生前のイエスと教会
第4章―教会の発生
第5章―エルサレムの教会と異邦人の教会
第6章―新約聖書における教会の自己理解Ⅰー新しい神の民
第7章―新約聖書における教会の自己理解Ⅱ-キリストの体
第8章―新約聖書における教会の自己理解Ⅲ-霊の被造物
第9章―新約聖書に見られる教会制度の確立
第10章―イエス・キリストによる教会の設立
第11章―教会の本質の自己実現について
第12章―古代教会の自己展開Ⅰ
第13章―古代教会の自己展開Ⅱ
第14章―古代教会の自己展開Ⅲ
第15章―「教会の外に救いなし」
第16章―中世教会の自己展開
第17章―近代教会の胎動
第18章―宗教改革と反宗教改革
第19章―第一バチカン公会議ー制度としての教会の完成
第20章―第二バチカン公会議ー世界に開かれた教会
第21章―教会の過去・現在・未来

2 ラーナーはさらに、この神の自己譲与には二種類あるという。①聖霊による実存的派遣 ②子(ロゴス)による歴史的派遣 の二種類だ。要は、神の自己譲与とはイエスのことである。
3 言うまでもないことだが、こういう教会論はカトリックの教会論である。信仰のみ、聖書のみを主張するプロテスタンティズムにはこのような教会理解は少ない。例えば、カルヴィンは、「目に見える教会」「目に見えない教会」の区別をして両者ともに重要とみなしたようだが、カトリックの教会論との比較は別の話題になる。

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