復活節第5主日(A年)のミサは関口教会のミサにあずかった。福音朗読はヨハネ14:1-12である。イエスが「わたしは道であり、真理であり、命である」と言う箇所だ。福音書のなかでよく知られた文言だ。でも、道とか真理とか命とか、これは一体何を意味しているのだろうか。このセンテンスの続きも厳しい。「私を通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」。よくわからないので、今日のいくつかのミサのお説教をのぞいてみた。
関口教会の菊池大司教はコロナの話が中心だった。教会がいま「変革のとき」にあると力説しておられた。菊池大司教の話はいつ聞いてもわかりやすい。今日は直接的にはこの言葉の説明はされなかった。
山手教会の鈴木真神父のお説教は、お得意の歌ミサではないのが残念だったが、ご自分の叙階の時の思い出を挟まれてよいお説教だった。「道」の説明はごく普通で、イエスが示された道を一緒に歩みましょうという話であった。
真生会館の森司教は興味深いことを言っておられた。イエスが「道」というとき、それは既にできあがっている道のことではなく、イエスはご自分で道を拓いておられることを言っているのだという。イエスが作った道をわれわれは歩めばよい、というのではないというお話しのように聞こえた。
長崎大司教区の中村司教のごミサでは、補佐司教になられたばかりのせいか面白いお説教であった。アリナミンVの話がでてきてどうなることやらと思ったら、「道・真理・命」はラテン語の「Via・Veritas・Vita」の訳語で、”三つのV”のことを指すのだという。「私は道であり、真理であり、命である」と言われるよりは、「3つのV」の方が覚えやすい。アリナミンV, V&V、より、「3つのV」の方が強いという冗談には笑わされた。「道」の説明のかわりにホームレスの方の葬儀の話をされて印象深かった。
ということで、この言葉の理解、解釈はいろいろあるようだ。イエスは先週は自分を「羊飼い、羊の門、牧者」と比喩的に語っていたが、今週は直接的に語っている。でもわたしには相変わらずよくわからない。
フランシスコ会訳の聖書の解説によると、このヨハネ福音書では、「イエスは、人類を父である神に導く道、父を啓示する真理、父と一致させる命」として描かれているという(222頁)。道とは導きであり、真理とは啓示であり、命とは一致のことを指すという意味なのであろう。でもまだよくわからない。
私の教会の神父様によると、解らなくともよいのだという。なぜなら、今日の朗読箇所によれば、イエスの弟子たちですら解っていなかったのだから。師が復活節第5主日のために詠んだ川柳はこうである(『福音川柳』36頁)。
「使えない 奴でも使う 主のみわざ」