岩島師は教皇不可謬権をどうみていたのか。岩島師の評価は以下のように厳しいものであった。
そしてかれのは理解は当時の日本の教会の理解といってよいほど重みをもっていたようだ。
Ⅲ 教皇の不可謬権をどう理解すべきか
当時の熱心なピウス9世崇拝者たちは、教皇を神聖化した。だが、教義内容はそのような極端なものではない。今日でも誤解している信徒が見られる。
1 信仰の真実性
不可謬権の問題は、教会が根源的に神とキリストにつながっているという思想が根底にある。これは聖霊の導きだ。信仰が本物である限り教会は正しい。正しい信仰がなくなったとすれば、それはもはや教会ではない。「信仰感覚」(sensus fidei)が重要だ。
2 教皇の不可謬権
教皇の通常的教導権(magisterium ordinarium)の行使は必ずしも不可謬ではない。たとえば、回勅、勧告、シノドス、司教会議は誤りうる。これに対し、教皇が教会の信仰を規定する意向で、全司教団とともに、信仰箇条に関する事柄について下した決定は不可謬である。たとえば、信仰宣言がそうである。
3 不可謬の意味
不可謬という言葉には制約がある。言葉(言語)が真理を表現しうるという条件、限界の中で初めて成立する。言葉による表現が最良のものであるという保証はない。これは言語というものが持つ限界である(1)。
4 第二バチカン公会議における不可謬権の扱い
①第一バチカン公会議の決定(教皇の不可謬権)は維持する
②全世界の司教団の普遍的教導職も不可謬である(個々の司教は不可謬ではない)
③信仰者全体すなわち全教会も誤りえない
5 まとめ
5・1 近代以降の教会論の流れ
教会論は、教会の本質をめぐる時代との相克のなかで形成されてきた
①宗教改革:個としての人間の自覚を重視した。教会の本質は信仰者の集まりであり、制度的仲介構造を否定した
②反宗教改革:宗教改革が否定したものを逆に強調した。教導職や聖職者位階制度を重視し、制度としての教会論を目指した
③「完全な社会としての教会・論」:教会の自己完結性が主張された
④第一バチカン公会議:新しい時代に対応しようとした(2)
ディ・フィリウスー人間理性や科学の自律性を前提として、信仰との関係を理解した
パストール・エテルヌスー国家社会の自立を前提とした教皇権の規定
5・2 以上からの結論
①近代教会の自己理解は、近代精神の展開の中で、自己のアイデンティティを模索した試みだ
②この試みは、自己を「制度」と見なす方向へ向かわせた
③自己を、社会・政治・文化から隔離する方向へ向かった
④近代教会は、近代という時代に根ざした教会になることにも、本来の教会の本質を具現することにも成功しなかった
⑤教会の勝利主義(triumphalismus)は、自己を過大評価し、独善主義の傾向をもたらした
⑥しかし、19世紀以降、カトリック共同体、政治結社、もろもろのアクションなど、下からの動きが高まる
このように岩島師の「結論」は手厳しかった。では教会はどのようにすれば自己を改革し、アイデンティティを確立できるのか。岩島師教会論は最後の章に向かう。
注
1 これはこれで一つの説明だが、こういう説明の仕方は普通「言語論的転回」(linguistic turn)の問題とされ、哲学上の問題とされる。意味、意識、言語の関係を問う。わたしの個人的理解では、岩島師の説明は神学的説明ではなく、議論の土俵が異なるのではないかという印象を持つ。
2 S氏はここで、「ローマ問題」と「ラテラノ条約」を詳しく説明された。第一バチカン公会議の意義を強調するための説明のように聞こえた。
「ローマ問題」(Questiione Romana)
ローマ問題とは、イタリア王国が1861年に樹立され、第一バチカン公会議が中断され、以後ローマ教皇庁は政治的立場を喪失し、ピオ9世から5代にわたって教皇はヴァチカン宮殿に閉じこもり、60年間近くイタリア政府と対立し、ようやく1929年にピオ11世の治世下で両者が和解し、ラテラノ条約が締結されるまでの対立をさす。
「ラテラノ条約」(ラテラン条約 Lateran)
バチカンは1926年から密かにイタリア政府と交渉した。その結果1929年2月11日にラテラノ宮殿においてピオ11世の国務長官ガスパリ枢機卿(在任1922-30)とイタリア王国首相ベニト・ムッソリーニのあいだで政教条約が調印された。これは世界史の教科書ではバチカン市国の創設とイタリア国家の承認が協定されたと説明されるが、詳しくは以下のように二つの部分委からなっているという。
①「ラテラノ協約」:イタリア王国とバチカン市国との間の国際条約。イタリア政府がバチカン市国に認めた権利は、
・バチカンの完全な国土領有権(面積0.44平方キロ、約13・3万坪、東大本郷キャンパスくらいの広さ)
・排他的かつ絶対的な権力
・至高の司法権
・外交使節の派遣および接受
・イタリア王国内にあるいくつかの教会堂や不動産の領有権
これは「条約」であり、政府や憲法よりも上位にたつ。いわば完全な治外法権が認められわけで、教皇庁はこれによりあらゆる世俗的権力からの独立を保つことができた。
②「ラテラノ協定」:イタリアにおけるカトリック教会の自由な活動を保証した。公立学校におけるカトリック教育の義務化が認められ、教会のおける婚姻は国家法上(世俗法の上でも)も有効であることなどである。なお、1984年のこの協定の改定により、信教の自由が認められ、公立学校におけるカトリック教育は義務ではなく生徒の自由選択となったという。つまり、カトリックはイタリアの国家宗教の地位を失う。
(ピオ11世)
*第一バチカン公会議以降の教皇名と在位期間
ピオ9世 1846-78
レオ13世 1878-1903
ピオ10世 1903-14
ベネディクト15世 1914-22
ピオ11世 1922-39
ピオ12世 1939-58
ヨハネ23世 1958-63
パウロ6世 1963-78
ヨハネ・パウロ1世 1978年9月3日ー9月28日
ヨハネ・パウロ2世 1978-2005
ベネディクト16世 2005-12
フランシスコ 2012-
このように並べてみると、どの教皇様も近代社会を立派に生き抜いてきておられる。一人一人の立場や思想は異なる。だが、中世の堕落した教皇たちと比べるとその偉大さに驚かされる。カトリック信徒は、教皇様の名前で「時代」を記憶する。ピオ11世といえば、あぁあのナチと戦った変わった教皇様か、ヨハネ23世といえば、あああの公会議のおじいちゃんか、となる。ヨハネ・パウロ2世といえば、あああの空飛ぶ教皇様か、となる。われわれが元号で時代を記憶するのと同じだが、もっと細かいともいえようか。