Ⅱ 第二バチカン公会議の教会憲章
第二バチカン公会議(1962-65)では16本の公文書(4憲章・9教令・3宣言)が公布されている。『第2バチカン公会議 公文書全集 』(1986 南山大学 監修) には以下のような目次が載っている(公開会議と章番号は私がつけた)。
第3公開会議(1963・12・4)
1 典礼憲章 *
2 広報機関に関する教令
第5公開会議(1964・11・21)
3 教会憲章 *
4 東方カトリック諸教会に関する教令
5 エキュメニズムに関する教令
第7公開会議(1965・10・28)
6 教会における司教の司牧任務に関する教令
7 修道生活の刷新・適応に関する教令
8 司祭の養成に関する教令
9 キリスト教的教育に関する宣言
10 キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言
第8公開会議(1965・11・18)
11 神の啓示に関する教義憲章 *
12 信徒使徒職に関する教令
第9公開会議(1965・12・7)
13 信教の自由に関する宣言
14 教会の宣教活動に関する教令
15 司祭の役務と生活に関する教令
16 現代世界憲章 *
詳しくは解らないが、憲章(Constitutio)とは公会議が信仰・道徳に関して決めた文書のことで、教令(Decree)とは教皇の決定で副書がないものを指し、宣言(Declaratiio)とは教会の姿勢を表明する文書、とされるようだ。憲章が最も重要な文書で、ここでは星印をつけてある(1)。
教会憲章が公布されたのは1964年11月21日で、第3会期(1964・9・14~11・21)の最後の段階(第5公開会議)だった(2)。第一会期は準備期間で、第二会期は提案された議題が多すぎて収拾がつかなくなり、後継教皇パウロ6世は教会論とエキュメニズム論を第二会期の優先議題としたのだ。
1 教会論的出来事としての公会議
岩島師によると、教理省によって用意された草案は、ピオ12世の回勅『ミスティチ・コルポリス』のラインに沿った伝統的・スコラ的・静的・法的なものであったため、ほとんどすべて反故にされた。会議は保守派と進歩派との激しい対立のなかで行われたが、ヨハネ23世のリーダーシップにより新しい司牧的教会論が成立した。最終的に公布された文書は画期的なものであった。
2 『教会憲章』の構造
教会憲章は次のような目次になっている。教会憲章の正式のタイトルは「教会に関する教義憲章」というもので、普通は「ルーメン・ジェンツィウム」と呼ばれことが多い。「諸民族の光」と訳されているが、これはこの憲章の書き出しの文が Lumen gentium だからだ。第1章の序文の1は「諸民族の光はキリストであり・・・」と始まっている(3)。
第1章 教会の神秘について
第2章 神の民について
第3章 教会の位階的構成、とくに司教職について
第4章 信徒について
第5章 教会における聖性への普遍的召命について
第6章 修道者について
第7章 旅する教会の終末的性格および天上の教会との一致について
第8章 キリストと教会の神秘の中の神の母、聖なる処女マリアについて
通達 聖なる第二バチカン公会議の記録より
3 教会憲章の解釈と個別テーマ
第1章と第2章は「教会という神秘」を説明している。教会は神の啓示だという説明だ。第3章・第4章は教会の実態を説明している。その位階制、教皇・司教・司祭・助祭・信徒とは誰なのかの説明だ。第5章・第6章は教会の実態ではなくカリスマの視点からその聖性を説明する。第7章・第8章は教会の終末的性格を説明している。
教会憲章のカトリック中央協議会による日本語訳(2014)には和田幹男師が詳細な「解説」を載せている。細かくなるので、ここでは岩島師の整理を要約しておきたい。
第1章 教会の神秘について
1項:原秘跡としての教会の教え 教会は神と人間との交わりの秘跡だ
1 教会の力の源泉はキリストであり、教会は神と人とが結ばれるための道具
2 教会自体が秘跡である(教会は秘跡をおこなう場所という従来の考えを逆転させた)
2~5項:三位一体の神の自己譲与としての教会
5~6項:聖書に教会を尋ね求める
7項:パウロのキリストの体としての教会について
8項:教会は見える姿として歴史を通して歩む キリストの教会とカトリック教会の関係
「キリストの教会はカトリック教会の内に存在する」(subsit in Ecclesia catholica)
subsit であり、est ではない。つまり、キリストの教会=カトリック教会とは言っていな い。エキュメニズム思想が反映している表現になっている。
第2章 神の民について
神の民とは聖書的用語だ。そのヘブライ語amは、ギリシャ語のデモス、「人民」とは異なり、元来はむしろ家族や親族に近い言葉だという。
神の民とは教会の本質を表している。ヒエラルヒーの下にある二流の信者、いわゆる「平信徒」という考え方を訂正し、新しい教会の見方を提示した。
10~12項:神の民はキリストの王職(牧職)、祭司職(祭職)、預言職に与る。教会は全体としては不可謬である。
14項:カトリック信者とはいかなるものかを述べる。信者は救いのためには恵まれた条件の下にいるが、この恵に応えなければ厳しい審判が待っていると戒める。
15~16項:神の民の帰属の諸段階を説明する。いわゆる「同心円」説だ。つまり、カトリック信者ーその他のキリスト教信者(東方教会・プロテスタント)-その他の宗教者ー無神論者という図式だ。無神論者も救われる可能性があるという視点だ。
第3章 教会の聖職者制度、特に司教職について
20項:司教の任務は群れの牧者。司教の統治権は、教皇からではなく、使徒から授かった権限だ
22項:司教の団体性指導原理。教皇と共に司教団が最高の指導権を持つ(5)。
29項:終身助祭制度の復活(6)
第4章 信徒について
信徒についての神学的解明は公会議史上初めてだという。信徒とはラテン語のlaicusの訳語だが、語源的には為政者によって統治される民、国民、人民を意味していた。やがて教会では、聖職者によって導かれる「信徒」の意味になり、聖職者ー信徒という上下の関係に位置づけられ、信徒は過小評価されてきた。この信徒を神の民として考察し、位置づけ直したこの憲章は価値あるものだ。
31項:信徒の定義
1 キリスト教徒で、聖職者・修道者以外の者(消極的定義)
2 現世的な特性を有する(世俗で生きている 聖職者は世俗で働いてはいない)
(積極的定義)
32項:信徒は多様な任務を持ち、ただ受け身であってはならない
33項:宣教の務め
34~36項:信徒の祭司職・預言職・王職への参与
37項:信徒は聖職者から霊的援助を受ける権利を持つ
第5章 教会における聖性への普遍的召命について
聖職者ー信徒は位階制のもとにあるが、では修道者はどこに位置づけられるのか。修道司教、修道司祭とはなんなのか。理解するには聖性(holiness)の視点が必要になる。
39項:教会は本質において聖である
40~42項:聖化への道は多様であり、個々の身分に応じて聖性への道を歩むべきだ(7)
第6章 修道者について
前章で述べた教会の聖性の典型が修道生活である。
教会の位階的構成である聖職者ー信徒とは別に、修道者は「清貧・貞潔・従順」という奉献をおこない、自発的な生活形態を教会の中で選択する。本章は全5項から成り、第43項は修道者の生活の特徴、44項はそのカリスマ的側面、45項はその法的側面を明らかにし、46項は教会・社会にとっての修道者の意義が述べられる。
第7章 旅する教会の終末的性格および天上の教会との一致について
この章はヨハネ23世の提唱、パウロ6世の支持により付け加えられたという。教会の歴史的、終末的性格を述べている。終末とは時の終わりを意味し、この終わりについての学問を終末論(eschatology)という。終末論には個人的終末論と集合的終末論がある。組織神学では主に前者が、私審判(死後人間個人におこなわれる)と公審判(世の終わりにおこなわれる)、天国・煉獄・地獄などのテーマが考察された。聖書、特に黙示文学は後者を考察している。新しい契約とか、新しい神の民とか、回復される人類とか、宇宙とかのテーマである。
第8章 キリストと教会の神秘の中の神の母、聖なる処女マリアについて
この章の草案は別の独立した委員会で作られたが、結局独立した文書ではなくこの教会憲章の中に含まれることになった(8)。
聖書の中で聖母マリアが登場することは少ない。聖母の無原罪の御宿りとか聖母の被昇天などの教義はあるが、これらの教義はどうしても思弁的・抽象的にならざるを得ない。その点この章は新たなマリア論を展開している(9)。
52~54項:マリア崇敬の根拠(神の母)
55~59項:救済史における聖母の役割
60~65項:教会の象徴でかつ信者の母であるマリア
68~69項:旅する教会にとっての希望と慰めのしるしとしてのマリア
4 教会憲章の特徴
岩島師はこの教会憲章の特徴を以下のように整理している。厳しい評価だが肯定的・好意的ではある
①歴史上初めての、教会に関する総合的な公会議文書
②従来の制度としての教会論と新しい教会論との妥協の産物
③にもかかわらず教会論の転換を告知している
④その新しさは全体の構造にある。すなわち、教会は、神の救いの計画の中に正しく位置 づけられ、狭い制度的理解から脱しており、民全体が教会とされている
⑤源泉への回帰がみられる
『現代世界憲章』と岩島師の評価は次回にまわしたい。
(聖ペテロ大聖堂での全体会議)
注
1 過去の公会議は教義上の異端への反駁のために開催されることが多かった。この第二バチカン公会議はそうではなく、教会の在り方に集中して開かれた歴史的には希有な公会議だ。なお、カトリック中央協議会の邦訳では、典礼憲章と教義憲章は一冊に納められている。
2 公会議への参加者は3000人くらいと言われ、毎年秋に集まり、議案は自国に持って帰って検討したようだ。会期途中でのヨハネ23世の死去(1963・6・3)、パウロ6世の選出など波乱の公会議だった。
3 「序文の1」の「1」は「項」と呼ばれ、いわば通し番号だ(「条」ともいう)。教会の文書は章とか節とかでわけるのではなく、すべて「項」番号が振られている。教会憲章は69項から成っており、第69項は「キリスト者の一致のためのマリア」と解説されている。聖書も同じだが、こういう説明が付されていないと項だけでは理解がなかなか難しい。
なお、本文の最後におかれた「通達」はあまり言及されることはないが重要なものらしい。正式には、「1964年11月16日、第123回総会において公会議事務局長からなされた通達」と題されており、教会憲章の「神学上の格付け」を説明している。和田師によれば結局この教会憲章は「教義決定ではない」と述べているようだ。信者はもちろんこの憲章を「受け入れ、堅持しなければならない」が、教義ではないという説明のようだ。この通達が載っていると言うことはこの憲章が保守派と進歩派の妥協の産物であることを示しているのかもしれない。
5 司教団の団体制指導原理はこの公会議で最も激しい論争が行われた争点のようだ。つまりは、教皇至上主義なのか公会議至上主義なのかの問題に行き着く。現在は司教団の優位性が強調されているようだ。
6 助祭とは司祭に成る前のせいぜい一年くらいの一段階と思われがちだが、それは普通の助祭の話で、それとは別に終身助祭がいる。助祭は叙階されるから祭司職で、生活や報酬は教会が保証する。だがミサを挙げることは出来ないから「聖職」と呼ばれるのかどうかは解らない。終身助祭には「独身の助祭」と「妻帯の助祭」がいる。離婚経験者は終身助祭にはなれないし、助祭になった後の結婚は認められないようだ。第二バチカン公会議で導入されたこの制度は教区によっても運用が異なるらしい。東京大司教区では1999年に公にこの終身助祭制度が導入され、現に終身助祭がいる。名古屋、浦和教区にも導入されているようだ。だが、横浜教区では導入されていない。横浜教区には終身助祭はいない(横浜教区梅村昌弘司教 司教教書「終身助祭制度の導入に関して」2001)。
7 聖であるとか、聖性とはどういうことなのか。聖俗論は宗教社会学の代表的な二分法概念で様々の説明があるようだが神学上のテーマではない。ここでは教皇フランシスコの言葉を引いておこう
「聖性とは神に心を開き、神の愛によって変容されるにお任せすることです。また、聖性とは、自己から抜け出し、イエスがわたしたちをお待ちになっている他の人々に出会うために出かけ、その人々に励ましの言葉、助けの手、優しさと慰めのまなざしを届けることです。」(2019年4月12日)
8 現在の神学教育ではマリア論は教会論のなかに位置づけられているようだが、マリア論の取扱の難しさを示しているようだ。
9 和田師によると、伝統的マリア論はキリスト型とよばれ、キリストをモデルとしてマリアを考えてきた。この第8章のマリア論は教会型マリア論とも言うべきもので、教会の神秘の中にマリアを位置づけた画期的なものだという。