カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

ムハンマドは文盲だったか ー イスラーム概論2(学びあいの会)

2021-04-27 21:22:13 | 神学


Ⅰ イスラームとは何か

 イスラームとはアラブの預言者ムハンマド(570-632)が610年に創設した宗教のこと。イスラームとは「唯一絶対の神アッラーに絶対的に従うこと」という意味らしく、「神に向かう道」のことだという。
 ムハンマド教とは呼ばれないのはムハンマドが神格化されていないからだ(1)。世界宗教(2)として、中近東・アフリカ・南アジア(パキスタン・バングラデシュ)・東南アジア(マレーシア・インドネシア)を中心に、キリスト教に次ぐ信徒数を有する(3)。
 かっては、欧米ではマホメット教(マホメットはトルコ語)、モハメット教(これはアラビア語)とも呼ばれた(4)。中国では清真教と呼ばれ、日本では回教と呼ばれた(5)。
 イスラームの信者をムスリムと呼ぶ。ムスリムとは「絶対的に服従する者」という意味らしい。

発展の歴史はすさまじい。610年にムハンマドがイスラームを創設した頃は信徒は家族など数名、622年にメディナに移転した時は(ヒジュラと呼ばれるようだ)ついてきたのは70名。メディナの信徒70余名を加えても当初は150名程度の弱小新興教団だった。その後めざましい発展を遂げ、アラビア半島から中東からアフリカまで一気に広まった。

 ムハンマドは神の啓示を受け、自らを神の使徒と自覚した。自覚するまでの恐怖心は大変なものだったらしい。神の啓示はムハンマドの死(632年)まで続く。啓示は天上の書版に書かれ、天使ガブリエルによってムハンマドに伝えられたという。ムハンマドはおそらく文盲で文字の読み書きはできなかったようだ(6)。だからムハンマドは与えられた啓示をブツブツといつも唱えていたのであろう。
 死後ムハンマドの言を弟子たちがまとめたのがコーランだ。イスラームの正典はコーラン、旧約、新約とされるが、実際には旧約・新約聖書が読まれることはないという。コーランにもとづく法(シャリーア)に従って生きることがムスリムの道だという(7)。

 預言者はアダム・ノア・アブラハム・イサク・ヤコブ・ヨゼフ・モーセ・イエスそして最後の最大の預言者がムハンマドだという。
 アラブの祖はアブラハムだ。アブラハムはその子イシュマルとともにメッカにカーバ神殿を建設したという伝説がある(8)。ムハンマドはアブラハムの宗教を復活させたという。こういう形でユダヤ教やキリスト教に対する自己アイデンティティーを主張していったのであろう。
 イスラーム教(スンニ派)の信仰の根本はよく知られた「六信五行」だ。つまり6つの信仰箇条と5つの信仰行為からなる(9)。
 神学面でも後発の宗教だけあってよく整備されているようだが、キリスト教とは復活と最後の審判を信じる点では共通だが、三位一体説を採らない点で大きく異なる。教会というものを持たないので司祭はいない。ウンマ(政教一致の信仰共同体)は教会ではない(10)。



1 キリスト教はキリスト(イエス)の教え、仏教は仏陀の教えに基づくが、ムハンマドを神格化する思想や運動は繰り返し否定されてきたようだ。
2 普遍宗教のこと。キリスト教・仏教・イスラームといわれる。ヒンズー教・神道・道教は特定の民族に限定されるので民族宗教と言われるようだ。儒教を宗教と見なすかどうかは議論が分かれるが一応政治倫理思想とし、宗教ではないとしておこう。
3 信者数もいろいろな説があるようだが、ほとんどが国連かアメリカの調査機関のデータだ。基本的問題は信者数を個人単位で捉えるのか世帯単位で捉えるのかの違いが大きいようだ。イスラームでは世帯単位のカウントが中心のようだ。

(宗教人口の将来)

4 こういう訳語がどういう経緯で日本に定着し、やがて廃れていったのかは興味深い。
5 新疆ウイグル自治区のウイグル族はムスリムの漢(民)族のようだ。中国は多民族社会で人口比では漢族は5~6割くらいらしい。ウイグルは散在するのでトルコ系もいるようだが、中心は漢族らしい。しかし風俗習慣はムスリム的なので漢族には見えないが、言語は漢語らしい。同じムスリムのウイグルでも異民族間では相互交流は少ないらしい。ウイグルの独立運動は今日も続いているようだ。
6 おそらく旧約聖書も自ら読んではいないらしい。旧約をよく読み、引用するイエスとは異なる。とはいえ、イエスも自ら文書を書き残してはいない。弟子たちが口述筆記したり、聞き書きしたりしたものが残っているだけだ。ただ、ムハンマドは長生きした。イエスは30歳代になって突然世に現れ数年後、おそらく2年後くらいですぐに処刑されてしまった。
7 法源はコーランとムハンマドの言行と伝承(スンナ)。法源 Rechtsquelle とは聞き慣れない言葉だが、制定法・慣例法・判例法・条理の4つを指す法律用語のこと。なお、条理とは物事の道理のことで、その時代や社会の常識みたいなものを指すらしい。法源の解釈者を法学者(ウラマー)と呼ぶようだ。シーア派では法学者の最上位者を最高指導者と呼んでいるらしい。スンニ派のカリフではない(カリフは預言者の代理人で、宗教指導者というよりは政治指導者の側面が強いという)。
8 次男のイサクはやがてユダヤ教、キリスト教の祖となっていく
9 6信とは、神(アッラー) 天使(マラーイカ) 啓典(クトゥブ) 使徒(ルスル)
来世(アーヒラ) 定命(カダル)
5行とは、信仰告白(シャハーダ) 礼拝(サラー) 喜捨(ザカート) 断食(サウム)
巡礼(ハッジ)
 信心行はキリスト教と同じだが、イスラームでは教義より行(行為)が重視されるので、その徹底ぶりはキリスト教の比ではないようだ。
 コーランはアラビア語で書かれており、翻訳は許されないというか、翻訳は聖典とはみなされないようだ。カトリックがラテン語になじんだように、ムスリムはアラビア語になじんでいるのだろうか。全11章で、新約よりは長く、旧約よりは短いようだ。内容としては、信仰に関するもの(神の観念、死者の復活と審判、天国、地獄、預言者など)、実生活に関するもの(礼拝、タブー、道徳など)があるようだが、基本的には「神の命令」が中心らしい。新約が「福音」中心なのと対照的だ。
10 教会の定義はいろいろあるだろうが、キリスト教ではエクレシアという意味で「一・聖・普遍・使徒的」特徴を持つ信仰共同体のことをさす。ニケア・コンスタンチノーブル信条のことだ。簡単に言えば、使徒性と階等性を持つ組織と言えそうだ。

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イスラムはよそ事か ー イスラム概論1(学びあいの会)

2021-04-27 11:55:17 | 神学

 第3回目の緊急事態宣言が出た翌日の4月26日に学びあいの会が開かれた。今回は他教会からの参加者も含め10名以上が集まった。テーマがイスラムに変わり、報告者のS氏が日頃開陳しておられたイスラムに関する自説(1)をまとめて報告されることになったからであろう。今日は興味深い報告ではあったが、会の後に定例化していた質疑や会食には誰一人残らなかった。宣言で会食自粛が求められているのだから当然と言えば当然であった。集まれたこと自体奇跡だったのかもしれない。

 S氏の発表は「イスラム概論」と題されており、以下のような章立てで、6回にわたって話されるという。

1 イスラムとは何か
2 予言者ームハンマド
3 聖典ーコーラン
4 共同体ーウンマ
5 聖法ーシャリーア
6 宗派(正当と異端)ースンニ派とシーア派
7 神学ーカラーム
8 神秘主義ータッサウフ
9 政治
10 歴史
11 イスラムとキリスト教
12 補足ー現代の中東情勢

 これだけの内容を半年で話されるのだから急ぎ足になるだろうが、話がどのように展開するか楽しみである。

 さて、内容の紹介に入る前に、この緊急事態宣言の中でイスラムを論ずることの意味を考えてみたい。イスラム論は、論者の思想的立場を明確にしておかないと、すぐにイデオロギー論(存在拘束論)に陥るか、Wikipedia風の一見中立的な、しかし無味乾燥な辞書的描写になってしまいがちだからだ。
 氏はなぜイスラムを今取り上げるのか。氏から直接聞いたわけではないが、二つの視点から推測してみたい。第一は社会的視点からの意義で、第二はカトリック者としての宗教的視点からの意義だ。
 第一の社会的視点から見れば、現代の日本にとりイスラムは喫緊の重要課題ではないといえよう。確かに、外国人労働者の中にイスラム系の人が増えているようだがそれはあくまで外国人労働者問題の中に位置づけられており、イスラムそのものが日本の文化や社会を脅かしているとは捉えられてはいない。「イスラム国」(ISIS)による中村哲氏殺害事件、後藤健二氏殺害事件とか報道されるが、日本人(研究者)のイラン・トルコびいき、エジプト・サウジ嫌いの風潮の中でなにか遠いところの出来事としてしか報道されない。よそ事なのだ。いくらイスラムについての理解を深めたからと言って自分の日常生活に変化が起きるわけではない。

 第二の宗教的視点からの意義はあるのか。キリスト教から見てイスラムは世界三大宗教の一つで、啓示宗教として仲間であり、世界規模で見れば信者数はいづれキリスト教を超えるだろう、と言われても、イスラムはキリスト教の「敵」ではないのかという根本的な問いへの答えにはならない。S氏は「イスラムの影響力は増大しているからイスラムを理解することはキリスト教徒にとって大切」と述べているが、問題はその具体的な中身だ。

 S氏は、第二バチカン公会議で新たに打ち出された「諸宗教の対話」を理由に挙げている。カトリック教会はかっては他宗教に対して排他的だといわれてきたが、第二バチカン公会議では諸宗教を尊重し対話する重要性を指摘した(『教会憲章』第2章「神の民について」の第16項は「キリスト教以外の諸宗教」と題されている)。「教会はイスラム教を尊重する。彼らは唯一の神・・・天地の創造主、人々に話しかける神を礼拝している」と述べ、「救いの計画には・・・イスラム教徒が含まれる」とし(24頁)、イスラムとの対話の重要性を肯定した。

 この辺のイスラム研究の意義については、最近の新書本にいくつか目を通してみたが、あまり統一的な見解はないようだ。以下によく読まれる参考文献を挙げてみた。私も一応ざっと目を通したが、最大のポイントは、「中田・飯山論争」だろう。イスラム研究は、カリフ制を認め、イスラム国を認めなければできないのか、それとも価値中立的で実証的な学問なのか、という問いだ(2)。

井筒俊彦『コーランを読む』岩波
中村広次郞『イスラム教入門』岩波
佐藤次郞『キーワードで読むイスラーム』山川
小杉泰『イスラームとは何か』講談社
菊池章太『ユダヤ教・キリスト教・イスラーム』ちくま
ひろさちや『キリスト教とイスラム教』新潮
松山洋平『イスラーム思想を読み解く』ちくま
中田考『イスラーム入門』集英社
中田考『イスラーム学』作品社 2020
飯山陽『イスラム教の論理』新潮
飯山陽『イスラーム教再考』扶桑社 2021

 S氏がイスラームを取り上げるのは実は個人的事情もあるようだ。若い頃中東に長く駐在し、イスラームを頭だけではなく肌で理解してこられたようだ。そういう意味でも氏のイスラーム論は興味深い。
 本論に入る前に、用語の整理をしておきたい。まずはイスラームとイスラムの区別だ。長音記号の有無だが、現在はイスラームという訳語で落ち着いたようだ。また、イスラームとムスリムの区別も、いろいろ議論があるようだが、本稿ではイスラームは宗教、ムスリムはイスラームを信じている信者という意味で使いたい。だからイスラーム「教」とはあえて言わない。

(中東の地図)

 


1 教会の月報など時々発表されていたので氏がイスラムに関心を持っていることは知られていた。例えば私も教会での氏の発表をこのブログで紹介したことがある(2017年5月14日 イスラームの豆知識)。
2 中田考・飯山陽『イスラームの論理と心理』晶文社 2020

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