カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

ムハンマドは最後の預言者か ー イスラーム概論3(学びあいの会)

2021-04-28 20:36:08 | 神学


Ⅱ 預言者

1 社会的背景

①時代状況

 6世紀中頃にはローマとササン朝ペルシャとの間で戦闘が続いていた(1)。戦闘は「肥沃な三日月地帯」で行われ、東西交易は困難だった。そのため、インドーイエメンーメッカーシリアという南回りのルートが繁栄していた(2)。

521年 エチオピア(キリスト教)がローマの支援でイエメンを占領 ペルシャはイエメンを支
570年 イエメンを占領したエチオピアが象の大軍で商業の街でカーバ神殿があるメッカを占領
575年 ペルシャがイエメンに進出

②アラブの部族社会

 ムハンマドの出身部族(3)はクライシュ族(4)で、かれらは遊牧生活を捨ててメッカに定住し、商業に従事していた。ムハンマドは商人の子で、孤児だったという。クライシュ族には、氏族の代表者による部族会議(マラ mala)があり、隊商の派遣やメッカの行政などを決定していた。氏族が安全を保証していた。

③メッカの病弊

 クライシュ族は遊牧を捨てて商業に転じた結果、部族的連帯や倫理より資本の蓄積を優先した。部族的集団主義から物質的個人主義に転化した。連帯意識の希薄化、富の集中、貧富の差の拡大がみられた。この状況に反発し、社会改革のために新しい宗教を提唱する輩が多数登場した。預言者が多数生まれたと言っても良いらしい。ムハンマドはこういう状況の中に生まれる。

2 メッカのムハンマド

①生い立ち

 570年にクライシュ族のハーシム家に生まれる。父アブドラはムハンマドの生誕時にはすでに故人であった。母アーミナはムハンマドが6歳の時に死亡する。そのため、祖父アブドウル・ムッタリと叔父アブー・タリフに育てられた。孤児だったと言っても良いかもしれない。ハーシム家は元々は有力な家だったが、当時は没落していた。ムハンマドは感じやすい内向的な性格に育った(5)。
 やがて叔父に連れられて隊商の一員としてシリアに行く。ここでムハンマドは25歳の時に15歳年上の未亡人ハディージャと結婚する。ハディージャは裕福だったので生活に余裕が生まれる。やがて郊外のヒラー山の洞窟にこもり、祈るようになった。

②召命

 瞑想の生活が15年続いたある日、ムハンマドが洞窟で睡眠中に天使ガブリエルが巻物を持って出現し、「詠め」と命じた。ムハンマドは恐怖に駆られて悩んだ。

③初期の啓示

 啓示は長期間続く。内容は具体的状況に応じて変化し、強調点は変わったという。

 初期の啓示の内容

1)神の恩恵と力(神は一切の創造主で、恵みを与える方)
2)復活と最後の審判(善行によって死に備えよ)
3)神に対する感謝と礼拝
4)施善、喜捨の勧め(財を貧しい人に分け与えよ)
5)ムハンマドの預言者としての使命

 以上の教えの特徴は以下のように整理できる
・部族的集団主義に対して徹底した個人主義を強調し、来世に究極的価値をおき、現世的なものと相対する
・財は絶対的価値を持たず、人間の価値は財を貧者、孤児などの弱者に与えることにあるとする
・経済活動を否定しないが、無節操な利潤追求は戒めている
・ムハンマドは社会改革を目指したのではなく、あくまで啓示の伝達を行った

④伝道と迫害

 ムハンマドが啓示を宣べ伝え始めると大方のメッカの市民から嘲笑と反発を受け、やがてそれは迫害に変わった。メッカはユダヤ教と多神教の世界であったし、ムハンマドの教えが部族的伝統を破壊するものと受け取られたからだ。
 コーランの個人主義は部族的集団主義と対立し、その来世主義はアラブの現実主義と対立した。ハーシム一族はクライシュ族からボイコットされた。
 619年に叔父アブー・タリフが死去、やがて妻ハリージャも死去。もはやメッカにとどまることが困難となり、メッカの東方60kmのターイフに活路を求めた。だがこれは失敗する。

⑤ヒジュラ

 622年に、メッカの北方180kmのヤスリブ(のちのメディナ)へ避難する。これはヒジュラと呼ばれ、ユダヤ教の出エジプトに匹敵する重要事件とされる。この年がイスラーム暦元年とされる(6)。
 メッカではムハンマドの暗殺計画があったが、ムハンマドの同行者70余名、ヤスリブのムスリム約70名、計150名くらいの小集団からヒジュラ暦が始まっていく。

 メディナのムハンマドについては次回に回したい。
 



1 ここでは、サザンではなく、ササンと表記している。この時期、西ローマ帝国はすでに滅亡しており(476)、フランク王国(481~)が生まれている。教会ではベネディクト会が生まれ(529)、やがてグレゴリウス1世(590-604)が登場し、教皇制が強化されてくる。
2 「肥沃な三日月地帯(Fertile Crescent)」とは、古代オリエント史で使われる地理的な概念。 その範囲はペルシア湾からチグリス川・ユーフラテス川を遡り、シリアを経てパレスチナ、エジプトへ至る半円形の地域をさす。イエメンまわりとはまるでスエズ運河中心の現代のタンカー海路を見ているようだ。

(肥沃な三日月地帯)

 

 

3 部族 Tribe とは曖昧な概念だ。民族(エスニック・グループ)と同じく人種・言語・文化を共有する集団をさすが、未開社会の集団を指す場合に使われるようだ(だから差別用語というひともいる)。この報告では、民族の下位概念、氏族の下位概念、家族の上位概念として使っている。サウジアラビアなどアラブの国家を部族社会として描く議論は多い。なお、氏族(うじぞく しぞく)とはクラン(clan)のことで、共通の祖先を持つ(と観念されている)血縁集団をさす。アラブでは氏族は マジュリス(合議体)を持ち、マジュリスの司会者はサイード(Sayyid)またはシャイク(Shaikh)と呼ばれる族長がなる。族長は長老の間から選ばれるが独裁権はないという。氏族は日本の同族団とは異なる。
4 クライシュ族はコーランによれば名門の部族のひとつだという。

(カリフの系譜)

 


5 このムハンマドの性格は重要な特徴らしく、イスラームの教えにも影響を与えているという。イエスの性格の特徴はあまりはっきりしないが、ムハンマドとは明らかに異なる印象を与える。
6 西暦(キリスト歴)は、イエス・キリストが生まれたとされる年を元年(紀元)とする。日本の皇紀は神武天皇が即位した年(西暦で紀元前660年)を元年とする。ちなみに今年2021年は皇紀2681年だという。世界の「歴」(こよみ)には様々な種類があり、現在も使われているもの、消滅したものなどたくさんあるという。

 

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