イスラム教の思想としての特徴は「6信5行」と「ムアーマラート」の2点に求められるという。6信5行はかっては定番の大学入試問題だったので知らない人はいないだろうが、ムアーマラート(世俗生活上の法的規範)はあまり耳にすることはないので、これを思想的特徴とみなすのは興味深い(1)。
(コーラン)
2 コーランの思想 その1ー 信
イスラム教の教義の核心である信仰告白は明確だ。「アッラー以外に神はなく、ムハンマドは神の使徒である」。一説によれば、これさえ唱えれば誰でもムスリムになれるという。
イスラム教では以下の6「信」を基本的な「信仰箇条」とし、それを守ることをムスリムの義務としている(2)。
①神 ②天使 ③啓典 ④預言者 ⑤来世 ⑥予定
少し中身をみてみよう。
①神 アッラー Allah ← al-ilah(the God)
唯一神の原理。汝の神は唯一なる神、アラーのほかに神はない、神は全知全能で、天地の創造主であり、絶対者である。被造物と隔絶するも世界に関与する存在とされる(3)。悪人を罰し、信仰者にはよい報いを与え、悔い改めたものには慈悲深い(4)。
②天使
神と人間の間に存在する超自然的存在として、天使・ジン・悪魔 が認められる。コーランには天使ガブリエルと天使ミカエルのほか、さまざまな天使についての記述がある。ジンとは、アラビア半島で信じられていた一種のデーモン(霊鬼)をさすらしい。
③啓典
コーランのほか、旧約聖書・新約聖書も啓典として認められる(5)。しかし事実上コーランをさす。
④預言者
アダム・ノア・アブラハム・イサク・ヤコブ・ヨハネ・モーゼ・ダビド・イエス・ムハンマドなど(6)。イエスは預言者の一人とされている。ムハンマドも預言者のひとりであり、最後の預言者だが他の預言者と同じく「神性」は持たないとされる。
⑤来世
世界には終末がある。「天が裂け、星が飛び散り・・・」とされ、終末論はイスラム教の特徴の一つだ。終末においては、人間は生前の姿に復活し、最後の審判を受ける。終末の到来は誰にもわからない。人の一生の「帳簿」が開かれ、裁かれる(7)。
信仰者(つまりムスリム)は天国は、無信仰者(ムスリムではない人)は地獄へ送られる。天国とは、滾々と湧き出る泉、緑滴る樹、美味しい果物、美しい乙女のいるところだという(8)。
⑥予定説
コーランには驚くべきことに予定説が存在する。これは人間の善行(六信五行)を説くイスラム教の思想と矛盾するが、ともにコーランに書かれている。この両者の調和がイスラム神学者の重大な課題であったという。現在でもイスラム神学の最大の課題のようだ(9)。
信仰箇条は以上の6個だが、このほかにさらに二つの思想的特徴が挙げられるという。
①世界観
世界の創造については、旧約聖書の創世記と軸を一つにする。神の一言で無から創造が実現する。世界は人間のために作られた神のの恩恵であり、感謝を忘れぬことが大切だとされる。
②人間観
人間は自己の信仰と行為により報いを受ける。人間は自由な主体的存在として自己の行為に責任がある。他方、これとは矛盾する予定説の主張もある。つまり、人間の行為はすべて神の力によるもので、神の意志としてあらかじめ定められているという(10)。
5行(柱)の話は次回に回したい。
注
1 イスラム法(シャリーア)は、「コーラン」と「スンナ」(預言者の言行)の二つに基づいて9世紀ごろまでに整えられたという。この「法解釈」は学者にゆだねられ、かれらは「法学者」として「ウラマー」(ulama)と呼ばれるようになる。同時に政治的支配者になっていく。
2 信仰宣言のこと。「信条」、「クレド」ともいう。信仰を告白する定式文のこと。神道のようにこれを持たない宗教も珍しくはない。
カトリックでは、ミサの中で「ことばの典礼」の最後のところで、「共同祈願」の前に、「信仰宣言」を唱える。単に「信条」と呼ぶこともある。信仰宣言は全員が起立して司祭と一緒に唱える(コロナ禍の現在のミサでもここは口頭で唱える)。「ニケア・コンスタンチノープル信条」または「使徒信条」が唱えられる。どちらが唱えられるかは司祭によるようだ。両者の違いは歴史的なものらしい。文言だけでいえば「使徒信条」には「陰府に下り」があるが、ニケア・コンスタンティノープル信条にはない。この違いは信仰宣言が幼児洗礼時の信仰宣言から発達してきたことや、公会議の発達など複雑な歴史的背景があるようだ。どちらも短くはないが信徒はだれでも暗記している。自分がカトリックであることの唯一明確な表明だからだ。「洗礼式の信仰宣言」は本当に短く、簡潔で、わかりがよい。
信仰宣言はプロテスタントでは「信仰告白」と呼ばれることが多いようで、信仰の意識化と共同体(教会)への帰属意識の表明という意味が強いようだ。ルター派の「アウグスブルク信仰告白」、イギリス国教会の「ウエストミンスター信仰告白」はよく知られており、また美しい。
3 アラーは、外から人間世界を監視しているだけではなく、人間の歴史に介入してくるという意味らしい。
4 よい報いとは天国に行けるということらしい。他方、原罪論や三位一体論はない。
5 「啓典」とは神の啓示と聖典のことで、イスラム教では「啓典の民」とはユダヤ教徒とキリスト教徒をさす。トーラーと詩編、福音書を聖典として持っているからだという。Holy Scripture は「経典」とも呼ばれるが、この訳語はなにか仏教用語の印象が強い。確定された「教典」を持たない宗教もあるので、啓典も教典も「文字」よりは「朗誦」される点が強調される。キリスト教では「聖典」を「正典・外典・偽典」と区別するが、なにが外典かはカトリックとプロテスタントでは異なる。
6 最近は少なくなったが、「預言者」と「予言者」を混同する議論がまだ散見される。
7 埋葬における土葬中心主義はキリスト教よりも強いようだ。ヨーロッパにおける移民問題の焦点という人もいるようだ。
8 砂漠地帯に住む人々の願望を集約しているようだ。「永遠の平安」などという願望はないようだ。
9 日本のイスラム研究者はこの予定説と善行説の対立・矛盾にはあまり言及しないようだ。もっぱら善行説を強調する印象がある。キリスト教でも善行説をとるカトリックとカルヴァンの二重予定説の対立は根深い。なお、二重予定とは救いの選びと滅びの選びがあるという意味のようだが、予定説はカトリックや正教会が受け入れていないだけではなく、プロテスタントのいくつかの教派でも受け入れていないところがあるようだ。日本では、M・ヴェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の中で、カルヴァン派の予定説が資本主義の発達に与った、という論理を展開したという議論があまりにも有名だ。
10 これを矛盾とみるか総合とみるかは意見の分かれるところなのであろう。カトリック教会の人間論は「神の似姿」論、人格論(ペルソナ論)に特徴があり、善行説から人間論を展開することはないようだ。