カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

ルター・ルネッサンスとルターの評価 ー ルターの宗教改革(3)(学び合いの会)

2023-03-03 12:35:18 | 神学


B ルターをどう評価すべきか

 かなり大仰な表題だ。ルター・ルネッサンスというので、きっと1917年の宗教改革400周年事業と、2017年の宗教改革500周年事業の比較の話かと思った(1)。ところがそうではなかった。ここは先だって亡くなったハンス・キュンクの『キリスト教思想の形成者たちーパウロからカール・バルトまで』(1994 邦訳2014)の第5章「マルチン・ルター」の要約的な紹介であった。この章は12節からなるが、ここでは第9節から第12節までが取り上げられている。小笠原師のキュンク理解の特徴がわかるものである(2)。

Ⅰ ルターの正しかった点

 1 ルターの出発点は新約聖書の文書である。
ルターの神学ー「ただ恩寵によってのみ・ただ信仰によってのみ・同時に義人であり罪人ーは「新約聖書をその背景に持っている」。
義認論はパウロの影響による。義認とはただ神からの決定である。すなわち神は人間の罪を勘定に入れずにキリストにおいて義と宣言する。
恩寵とは神の一方的な愛と慈しみであり、イエス・キリストにおいて明らかになった。人間を変化させる神の業である。
信仰とは心理を捉える知的な行為ではなく、人間が全人格的に神に信頼しつつ身を賭けることである。神は人間の道徳的な功徳の故ではなく、ただ信仰によって恩寵をもって義としてくださる。

 2 ルターの恩恵における回心と救いへの成長というテーマは、実はカトリック教会の従来からの確信であって、今日、カトリック教会はルターに促されて、教会が保持してきた確信を聖書的裏付けによって深く把握し、ルターの教えをも受け止めることができる。

  3 カトリック教会の姿勢の変化の要因として次の5点があげられる。

①カトリックの聖書解釈が著しく進歩した
②トリエント公会議の時代的制約が第2バチカン公会議によって明らかにされた
③かっての反エキュメニカル的新スコラ神学が第2バチカン公会議によって否定された
④第2バチカン公会議のエキュメニカル的雰囲気が様々な可能性を開いた
⑤最近の「義認についての議論」で両教会の義認論の解釈に相違はあるものの、教会分裂をもたらすような決定的相違はないということが、対話により確認された
 
Ⅱ ルターの問題点

 「・・・のみ」という定式化は宗教改革の3大原理(信仰のみ・聖書のみ・万人祭司)として一人歩きを始め、キリスト教信仰の根幹であるかのようにみなされてしまった(3)。

1 信仰のみ

 人間の救いに関して、信仰とともに善行などの行為が必要であることを否定し、ただイエス・キリストにおいて示された神の恵みへの信仰のみによって救われるという主張である(信仰義認)。だがルターの義認論には彼自身の主観が深く浸透している。パウロの義認論とルターの義認論との間には出発点の違いに基づく相違があることは、プロテスタントの研究者たちも指摘している。特にルターは著しい個人主義的傾向があることが指摘される。ルターの誇張や過激な表現が誤解を引き起こしてきた。

2 聖書のみ

 カトリック教会の権威や伝承を一切認めず、「聖書のみ、聖書に記された文言のみ」がキリストの唯一の権威であるとする主張である。ルターは伝承の意義を全く考慮しなかった。しかし聖書は初代教会の信徒の信仰告白であり、初代教会の伝承に基づく一形態である。教会を認めなければ聖書は存在しない。

3 万人祭司制

 カトリックのように司祭と信徒を区別することを否定し、すべてのキリスト者は神の前に祭司であるという主張である。ルターは当時の身分社会の現実から身分という点を司祭職に当てはめたが、司祭は教会のための奉仕職であることを見逃していた。

 以上これらの形式は極めて粗雑で、1500年にわたる教会の信仰の豊かな伝統とは程遠いものである(4)。

Ⅲ ルターの教会改革がキリスト教圏に残した種々の問題

1 ルターの運動はドイツのみならず、スイス・スウェーデン・フィンランド・デンマーク・ノルウェイにも拡大した。スイスではツヴィングリとカルヴァンによってよりラディカルな運動が展開された。ルターの改革は1520年代のドイツにおいて一応成功した。とはいえ、ドイツではカトリックとプロテスタントという「2つの教派の陣営に分裂」してしまった。

2 ルターの晩年のペシミズムの要因
 ルターのペシミズムの原因は心理的・医学的なものだけではない。事実的根拠のあるものだった。

①最初の教会改革の感激は10年ほどで燃え尽きてしまった。ルターが「キリスト者の自由」のために当てにしていた貴族や権力者たちははじめから存在しなかった。ルターの陣営においても、多くの人々が教会改革によって幸せになるかどうか疑問を持つ始末であった。音楽を別にして芸術の世界の貧困化を招いた。
②ルターの教会改革による政治勢力の強大化と混乱
 1530年のアウグルブルク帝国議会での和解調停が失敗する。メランヒトン起草の「アウグスブルク信仰告白」は皇帝カールによって拒否された。ルターはトリエント公会議への参加を拒絶した。プロテスタントはシュマルカルデン戦争(1546−47 シュマルカルデン同盟と皇帝カール5世との戦争)で敗北した。1555年のアウグスブルク宗教講和(または宗教和議)により、ドイツではカトリックとプロテスタントに分裂が固定した。そのため、宗教の自由はなくなり、領民は領主の宗教に従わねばならないという原理が固定した(Cuius regio, eius religio)。さらにプロテスタントの陣営自体が宗教改革の「右派」と「左派」に分裂していく。

 

【キリスト者の自由】(『キリスト者の自由』を読む 宗教改革500年記念 / ルター研究所/編著)

 

 

 


1 ルター・ルネッサンスとは普通、宗教改革400年記念の1917年からやく20年にわたってドイツを中心になされたルター研究の運動を指すようだ。結局はルターを英雄視するあまりルター派はドイツの国家社会主義を肯定することになってしまう。当時のカトリック教会はルターを中世の異端の最終形態とみなす傾向があり、これに反発するあまりルターを宗教改革の完成者として英雄視しすぎたようだ。2017年の宗教改革500周年記念事業はエキュメニズムの環境の中で行われた。2013年にはルーテル=ローマ・カトリック委員会による報告書「争いから交わりへ」が報告され、2015年には邦訳も出た。日本ではカトリック教会(カトリック中央協議会)は「ローマ・カトリックと宗教改革500年」という文書(リーフレット)を2017年に出している。
2 ハンス・キュンク 片山寛訳 『キリスト教思想の形成者たちーパウロからカール・バルトまで』(1994 邦訳2014 新教出版)。この本では、パウロ、オリゲネス、アウグスチヌス、トマス・アクイナス、マルチン・ルター、シュライエルマッハー、カール・バルトの7人の神学者が紹介・検討されている。
キュンクに傾倒するのは信徒だけではなく、カトリック司祭にも多いようだ。特に第2バチカン公会議前後に叙階された司祭に多いような気がする。たとえば、H・キュンク 福田誠二訳『キリスト教ー本質と歴史』(教文館 2020)。
3 これは小笠原師による要約である。だがこれはこの第9節の前半部分だけで、義認論については教会分列をもたらすものではなくなったということを述べているにすぎない。だが、後半では、キュンクは「教会構造的な諸帰結をローマが採用しなかったことについては、責任をごまかすのが難しくなっている」と述べている。教会論でのルターの批判が十分には紹介されていないのは残念だ。
4この表現にはキュンクの説明と小笠原師の解釈が混ざっている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ルター派神学は保守的か ー ルターの宗教改革(4)(学び合いの会)

2023-03-03 12:35:18 | 神学


Ⅳ 教会改革運動の分裂

1 霊的熱狂主義の出現

 ルターには両側に敵がいた。右側にはローマに従う伝統主義者たち、そして左側には霊的熱狂主義者たちである。特に左側の敵は危険な存在であった。すでに1522年にヴィッテンベルクで熱狂主義的な混乱、騒乱、画像破壊運動がルターの名前を引き合いに出して広がり始めていた。熱狂的な宗教的主観主義、個人的啓示、聖霊体験(内的な声・内的な光)などの過激な運動が起こった。それらはルターにとって危険な存在であった。やがてルターのライバルとなっていく司祭トマス・ミュンツアー(1489−1525)(1)は教会改革が社会改革の理念と結合し、必要とあれば暴力で改革を貫徹すべきだと主張した。

2 上からの改革

 政治的にはルターは「上からの改革」という展望に囚われていた。ミュンツアーにかぎらずエンゲルスもブロッホもこの点でルターを批判している。キュンクによれば、ルターには農民が貴族や領主に対して突きつけた要求を正当なものとして支持する「心の準備がなかった」(229頁)。貴族たちの搾取による農民たちの経済的困窮から、農民たちはルターの「キリスト者の自由」の考えに励まされて各地で一揆を起こし、革命の実現に走り始めた。ルターは農民戦争の勃発をみて農民たちの要求の正当性を理解できなかった。ルターは権力者の側に身を置き、農民たちを残忍に弾圧することを正当化してしまった。ルターは1525年に、「盗み殺す農民暴徒に対して」という悪名高き文書を出し、領主たちに農民の徹底的弾圧を呼びかけた。

3 30年戦争という悲劇

 30年戦争はドイツにおける最大かつ最後の宗教戦争(1618−48)であった。30年戦争とは、バイエルン公らのカトリック諸侯がボヘミアおよびファルツに侵攻し、これに対抗するプロテスタント側には、イングランド・オランダ・デンマーク・スウェーデン、さらにはフランスが加勢し、国際的紛争になったものである。
 戦場となったドイツでは人口の3分の1(600万から700万人)が犠牲となり、悲惨な結果を招来した。1648年にウエストファリア条約で終結した。これによりオランダとスイスが独立した。スウェーデンとフランスは領土を拡大した。神聖ローマ皇帝の力は有名無実となり、ドイツの領邦国家体制が強化された。


Ⅴ ルターの「自由な教会」の行方

1 司教・修道院長からの民衆の解放

 宗教改革は、世俗化した宗教勢力(貴族による司教や修道院長の独占)の支配から民衆を開放した。世俗の領主たちは司教・修道院長から資産を奪う。ルターは理想を実現するために世俗権力をあてにした。

2 国家と宗教:二王国論

 ルターは国家と宗教を2つの異なる王国とみなし、両者にまたがる統率者を求めた(2)。その理想像は自分を保護・支持してくれたザクセン選帝候フリードリッヒ三世であった。しかし相ふさわしい統率者は見当たらず、ルターが目指した人民による教会改革ではなく、権力者による上からの教会改革となった。さらに、君主による絶対主義と専制政治の道を開いてしまった。結局、ルターの目指した「自由なキリスト教会」は実現せず、むしろ領主による教会支配をもたらした。これはドイツにおいては、第一次大戦後のワイマール憲法(1919)によってようやく終焉を迎える。

3 ルターのユダヤ人憎悪

 ルターは自分の教会にいるユダヤ人のキリスト教への改宗(転会ではない)を期待したが、30年経っても実現しなかった。ルターは一変してユダヤ人を憎悪するようになる。冊子「ユダヤ人とその虚偽について」(1543)においてユダヤ人を罵倒した。1543年のザクセンからのユダヤ人追放はルターの著書によるものである。ルターのユダヤ人に対する態度は、カトリック教会の見解より遥かに厳しく、これが後にヒットラーに利用されてしまう。

Ⅵ ルター派神学の確立(3)

1 メランヒトンによる体系化

 ルターは聖書注解者であったため、体系的な教義学は書かず、代わってメランヒトンが「義認論」を体系化した(4)。しかし両者にはズレがある。救いの問題についてはメランヒトンは「人間の意志が神の恵みと共働する」ことを唱え、善い行いの必要性を強調した。両者の相違は正統ルター派とフィリップ派の対立となる(5)。1577年に「和協信条」により妥協が図られた(6)。「善い行い」については中間的な立場を取る。
 1580年に「一致信条」が作成される。それは、古代の信条および「アウグスブルク信仰告白」から「和協信条」に至るまでの信条や教理問答を編纂したもので、ルター派信仰の正統性の主張を意図したものである。しかしルターの「聖書のみ」の主張に反する教義学的主張であるとして、17世紀には敬虔主義者(7)から批判され、ルター派内部の深刻な対立となる。

2 宗教改革以降のルターの神学

 ルター派はカトリック教会と他の改革派教会とのあいだに神学論争を引き起こす。ルター派内部では、スコラ学を用いて自分たちの教義を弁護しようとする「正統主義神学」が生まれる。ルターの言葉を教義学的命題の典拠とするルターの言葉の絶対化がおこる。この「正統主義」を敬虔主義者が批判し、個人的な清い生活を強調する。ルターの信仰体験を前面に出してルターの信仰を継承しようとした。その後ルターはカトリック教会からの自由を獲得した英雄とされた。聖書重視や生活重視の立場は歓迎されたが、その教理の保守性や人間の自由意志の否定は嫌われた。
 19世紀に始まった「ルター・ルネッサンス」はルターの神学をそれ自体として検討する道を開いた。それは単に教派的神学としてだけではなく、エキュメニカルな視野のもとに研究され、プロテスタント圏ばかりではなく、ローマ・カトリック教会においても再検討されるようになった。

 

【日本キリスト教団滝野川教会】(8)

 


1 ミュンツアー Thomas Muentzer 1489頃-1525 急進的な宗教改革者。ドイツ農民戦争の指導者。ドイツ神秘主義の強い影響を受けルターの推薦を受けるがやがて離反する。フスの影響もあり、同盟(ブント)による急進的社会変革を目指す。結局フランケンハウゼンの戦いで諸侯連合軍に破れ、斬首刑に処せられる。
2 二王国論では、ルターは教会を国家の権威の下に位置づけ、世俗的事柄については市民は国家に従順であるべきだと強調していた。二王国論は結局ルター派を保守的な権力追従を可能にする教義だとして批判する論者も多いようだ。
3 ここからはキュンクのルター論の紹介ではない。
4 メランヒトンPhilipp Melanchthon 1497−1560 ルターの影響を受けたドイツの宗教改革者。「アウグスブルク信仰告白」を執筆した。義認論を中心にロマ書(ローマの信徒への手紙)に即してプロテスタントの神学を初めて体系化した。宗教改革と人文主義、カトリックとプロテスタント、ルター派と改革派など対立者の調停に努めるが、晩年はルター死後の神学論争に翻弄されたという。メランヒトンはルター派の正統主義の出発点で、弟子の中から生まれた「クリプト・カルヴィニズム(隠れカルヴィニズム)」のフィリップ派と対立した。「厳格ルター派」ではない。
5 1546年のルターの死後、ルター派ないで激しい神学論争が起きる。厳格な正統派と、メランヒトン的傾向のフィリップ派(クリプト・カルヴィニズム)との対立である。善き業、聖餐におけるキリストの現臨、回心における神人共働など様々な論点で対立した。この論争は結局1577年の「和協信条」によって終わり、1580年の「一致信条」によってルター派教会は確立する。17世紀には敬虔主義運動から、18世紀には啓蒙思想からの批判と挑戦を受ける。20世紀にはK・ホルらの「ルター・ルネッサンス」が起こる。ルター派は16世紀以降は北欧で国教会(領邦教会)として広がり、北米ではより保守的な自由教会として発展し、現在はアジア・アフリカでも拡大しているという。
6 和協信条 Konkordienformal とはルターの信条の一つである。フィリップ派と厳格ルター派の間で激化した神学論争が1577年に決着がついた。1580年には「一致信条書」(和協信条書)」が出版され、ルター派の基本的教理が集大成された。
7 敬虔主義 Pietismus とは17世紀後半のドイツで起こった信仰覚醒運動をさす。ルター派教会が領邦教会として制度化されると堕落していく。人々の関心は制度から個人の信仰に移っていく。原始キリスト教的な愛に基づく道徳的な完成ー「再生」ーをめざす。ドイツ敬虔主義は近代思想史のなかで重要な位置を占めているようだ。
8 ルター派はルーテル教会、福音教会とも言うようだ。世界的には信者数ではプロテスタント最大の宗派といわれる。繰り返しになるが、教義では、カトリックとは異なり、聖書のみで、伝承(聖伝)を認めない。信仰義認・万人祭司をとる。秘跡では7つのうち洗礼と聖餐のみ認める。組織では使徒継承を認めず、長老制・会衆制・会議制など様々なようだ。国家との関係では法定教会・領邦教会のみではなく、独立教会もある。歴史的にはカトリックおよび改革派(カルヴィン派)と対立してきた。1999年にはルーテル世界連盟とローマ・カトリック教会は「義認の教義に関する共同宣言」に調印して、歴史的な和解をはたした。
 日本では日本ルーテル教団と日本福音ルーテル教会があるようだが違いはよくわからない。日本には日本基督教団という合同教会があり、長く複雑な歴史を持つ。この写真は昨年亡くなった、学校法人聖学院の元理事長で東京神学大学元学長だった大木英夫師(ディサイプル派)の母教会である日本基督教団滝野川教会である。わたしが知っているのはこの教会ではなく、建て替え前の教会である。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする