B ルターをどう評価すべきか
かなり大仰な表題だ。ルター・ルネッサンスというので、きっと1917年の宗教改革400周年事業と、2017年の宗教改革500周年事業の比較の話かと思った(1)。ところがそうではなかった。ここは先だって亡くなったハンス・キュンクの『キリスト教思想の形成者たちーパウロからカール・バルトまで』(1994 邦訳2014)の第5章「マルチン・ルター」の要約的な紹介であった。この章は12節からなるが、ここでは第9節から第12節までが取り上げられている。小笠原師のキュンク理解の特徴がわかるものである(2)。
Ⅰ ルターの正しかった点
1 ルターの出発点は新約聖書の文書である。
ルターの神学ー「ただ恩寵によってのみ・ただ信仰によってのみ・同時に義人であり罪人ーは「新約聖書をその背景に持っている」。
①義認論はパウロの影響による。義認とはただ神からの決定である。すなわち神は人間の罪を勘定に入れずにキリストにおいて義と宣言する。
②恩寵とは神の一方的な愛と慈しみであり、イエス・キリストにおいて明らかになった。人間を変化させる神の業である。
③信仰とは心理を捉える知的な行為ではなく、人間が全人格的に神に信頼しつつ身を賭けることである。神は人間の道徳的な功徳の故ではなく、ただ信仰によって恩寵をもって義としてくださる。
2 ルターの恩恵における回心と救いへの成長というテーマは、実はカトリック教会の従来からの確信であって、今日、カトリック教会はルターに促されて、教会が保持してきた確信を聖書的裏付けによって深く把握し、ルターの教えをも受け止めることができる。
3 カトリック教会の姿勢の変化の要因として次の5点があげられる。
①カトリックの聖書解釈が著しく進歩した
②トリエント公会議の時代的制約が第2バチカン公会議によって明らかにされた
③かっての反エキュメニカル的新スコラ神学が第2バチカン公会議によって否定された
④第2バチカン公会議のエキュメニカル的雰囲気が様々な可能性を開いた
⑤最近の「義認についての議論」で両教会の義認論の解釈に相違はあるものの、教会分裂をもたらすような決定的相違はないということが、対話により確認された
Ⅱ ルターの問題点
「・・・のみ」という定式化は宗教改革の3大原理(信仰のみ・聖書のみ・万人祭司)として一人歩きを始め、キリスト教信仰の根幹であるかのようにみなされてしまった(3)。
1 信仰のみ
人間の救いに関して、信仰とともに善行などの行為が必要であることを否定し、ただイエス・キリストにおいて示された神の恵みへの信仰のみによって救われるという主張である(信仰義認)。だがルターの義認論には彼自身の主観が深く浸透している。パウロの義認論とルターの義認論との間には出発点の違いに基づく相違があることは、プロテスタントの研究者たちも指摘している。特にルターは著しい個人主義的傾向があることが指摘される。ルターの誇張や過激な表現が誤解を引き起こしてきた。
2 聖書のみ
カトリック教会の権威や伝承を一切認めず、「聖書のみ、聖書に記された文言のみ」がキリストの唯一の権威であるとする主張である。ルターは伝承の意義を全く考慮しなかった。しかし聖書は初代教会の信徒の信仰告白であり、初代教会の伝承に基づく一形態である。教会を認めなければ聖書は存在しない。
3 万人祭司制
カトリックのように司祭と信徒を区別することを否定し、すべてのキリスト者は神の前に祭司であるという主張である。ルターは当時の身分社会の現実から身分という点を司祭職に当てはめたが、司祭は教会のための奉仕職であることを見逃していた。
以上これらの形式は極めて粗雑で、1500年にわたる教会の信仰の豊かな伝統とは程遠いものである(4)。
Ⅲ ルターの教会改革がキリスト教圏に残した種々の問題
1 ルターの運動はドイツのみならず、スイス・スウェーデン・フィンランド・デンマーク・ノルウェイにも拡大した。スイスではツヴィングリとカルヴァンによってよりラディカルな運動が展開された。ルターの改革は1520年代のドイツにおいて一応成功した。とはいえ、ドイツではカトリックとプロテスタントという「2つの教派の陣営に分裂」してしまった。
2 ルターの晩年のペシミズムの要因
ルターのペシミズムの原因は心理的・医学的なものだけではない。事実的根拠のあるものだった。
①最初の教会改革の感激は10年ほどで燃え尽きてしまった。ルターが「キリスト者の自由」のために当てにしていた貴族や権力者たちははじめから存在しなかった。ルターの陣営においても、多くの人々が教会改革によって幸せになるかどうか疑問を持つ始末であった。音楽を別にして芸術の世界の貧困化を招いた。
②ルターの教会改革による政治勢力の強大化と混乱
1530年のアウグルブルク帝国議会での和解調停が失敗する。メランヒトン起草の「アウグスブルク信仰告白」は皇帝カールによって拒否された。ルターはトリエント公会議への参加を拒絶した。プロテスタントはシュマルカルデン戦争(1546−47 シュマルカルデン同盟と皇帝カール5世との戦争)で敗北した。1555年のアウグスブルク宗教講和(または宗教和議)により、ドイツではカトリックとプロテスタントに分裂が固定した。そのため、宗教の自由はなくなり、領民は領主の宗教に従わねばならないという原理が固定した(Cuius regio, eius religio)。さらにプロテスタントの陣営自体が宗教改革の「右派」と「左派」に分裂していく。
【キリスト者の自由】(『キリスト者の自由』を読む 宗教改革500年記念 / ルター研究所/編著)
注
1 ルター・ルネッサンスとは普通、宗教改革400年記念の1917年からやく20年にわたってドイツを中心になされたルター研究の運動を指すようだ。結局はルターを英雄視するあまりルター派はドイツの国家社会主義を肯定することになってしまう。当時のカトリック教会はルターを中世の異端の最終形態とみなす傾向があり、これに反発するあまりルターを宗教改革の完成者として英雄視しすぎたようだ。2017年の宗教改革500周年記念事業はエキュメニズムの環境の中で行われた。2013年にはルーテル=ローマ・カトリック委員会による報告書「争いから交わりへ」が報告され、2015年には邦訳も出た。日本ではカトリック教会(カトリック中央協議会)は「ローマ・カトリックと宗教改革500年」という文書(リーフレット)を2017年に出している。
2 ハンス・キュンク 片山寛訳 『キリスト教思想の形成者たちーパウロからカール・バルトまで』(1994 邦訳2014 新教出版)。この本では、パウロ、オリゲネス、アウグスチヌス、トマス・アクイナス、マルチン・ルター、シュライエルマッハー、カール・バルトの7人の神学者が紹介・検討されている。
キュンクに傾倒するのは信徒だけではなく、カトリック司祭にも多いようだ。特に第2バチカン公会議前後に叙階された司祭に多いような気がする。たとえば、H・キュンク 福田誠二訳『キリスト教ー本質と歴史』(教文館 2020)。
3 これは小笠原師による要約である。だがこれはこの第9節の前半部分だけで、義認論については教会分列をもたらすものではなくなったということを述べているにすぎない。だが、後半では、キュンクは「教会構造的な諸帰結をローマが採用しなかったことについては、責任をごまかすのが難しくなっている」と述べている。教会論でのルターの批判が十分には紹介されていないのは残念だ。
4この表現にはキュンクの説明と小笠原師の解釈が混ざっている。