カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

なぜ神は「父」なのか ー 三位一体の祝日に想う

2024-05-27 15:34:25 | 神学


 今日は三位一体の主日で多くの方がごミサに与った。神父様はお説教で主に「洗礼」の意味について話されたが、一つ私には興味深く聞こえたお話があった。それは、三位一体のイメージについてのお話で、幼児洗礼の方と成人洗礼の方のイメージは少し異なるのではないかというものであった。
 幼児洗礼の方は三位一体と聞くと「アッバ、父よ」というなにか優しいイメージを抱くが(1)、成人洗礼の方は三位一体と聞くとそれははカトリック信仰の根幹的教義だとなにか難しいもののようなイメージを持たれるのではないかというお話であった。こういう特徴付けができるのかどうか私にはわからないが、三位一体って何だろうと考えさせられた(2)。

 三位一体説はキリスト教がキリスト教である根幹的教義であることはわかっているが(3)、通常は三位一体は「神秘」であり、「秘跡」である、とか説明されて、どうせ自分には理屈ではわからないものと想っていた。神学を少しかじってもわからないものはわからない(4)。

 特に教会での入門講座では三位一体がどのように教えられているのかは興味深い。言葉でいくら説明されてもわかりずらいのではないだろうか。たとえば、小笠原優神父は入門講座用のテキストである『キリスト教のエッセンスを学ぶ』(2018)のなかで、三位一体論の紹介と説明は第5章の「キリスト教の誕生」という歴史の解説の部分でおこなっておられる。具体的には「洗礼」の解説の中で説明している。「唯一の神が「三位一体」という交わりの様相を帯びているということは、人間の思考能力を遙かに超えていることだけに、まことに興味深い問題だと言わなければなりません」(186頁)と延べ、神学的説明には入られない。また、その後続書『信仰の神秘』(2020)でも「キリスト教の人間観」が論じられ、もっぱら神学的人間論が中心で、キリスト論が論じられているわけではない(5)。

 今日の「聖書と典礼」の「三位一体」の解説の箇所でも、小暮泰久師は、「「三位一体の神」は啓示であり、人間の自然本姓たる理性のみでは決して知り得ることのできない神秘です」と、啓示論のテーマだとしている。神学的にはそうなのだろうが、さらなる説明を期待したいところだ。


 われわれはいつも「父と子と聖霊のみ名によって」とオーム返しに唱えているが、もう少しきちんとミサの式次第を勉強しないといけないようだ。

【聖書と典礼】

 

1 マルコ14:36 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります・・・」

2 三位一体の教義は結局使徒信条のことであり、洗礼式で用いられる信仰宣言でもある(使徒信条は12箇条、洗礼式用は9箇条)(阿部仲麻呂『使徒信条を詠む』2014)
3 エホバの証人、旧統一教会、キリストの幕屋などキリスト教(系)を名乗る教団教派は多いようだが、三位一体の教義をとらないのでキリスト教とは呼べない。
4 カトリック大辞典、岩波キリスト教辞典、キリスト教組織神学事典、岩波哲学事典などの身近な辞典類の説明をみてもほとんど同じ方が書いておられ、内容もそれほど変わらない。古代教会のでの三位一体論争(アタナシオスの評価)、三位一体のギリシャ型定式(ヒュポスタシス自存とウーシア実体)、ラテン型定式(ペルソナ位格とエッセンシア本質)の比較と説明、K・。ラーナーの自己譲与論、などが説明される。新約聖書に三位一体論が展開されているわけではなさそうで、教義としての確立は、三位一体論ならニケア公会議(325)頃、聖霊論を含めればコンスタンチノープル公会議(381)頃、とすればかなり遅いことになる。
 神が父であるかという問いも、聖霊の発出論(聖霊は父から来るのか、子(イエス)からも来るのか)の文脈の中での問いで、たとえばフェミニズムの父権性批判の意味ではない。
 同じように問題は日本語の訳で、ペルソナを通常は人格と訳すが、神学では位格と訳している。人格という訳語は個(人間)の独自性を連想させるが、位格という訳語を使わないと神の唯一性を表現できないようだ。
5 三位一体論はキリスト論の中で論じられることが多く、キリスト教的人間論では論じづらいようだ。たとえば、「神学ダイジェスト」No.134(2023夏)は特集が「神学的人間論の現在」として組まれ、K・ラーナーの論文「カトリック神学的人間論の提起」が巻頭を飾っている。

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