今回のカリフ制の議論の中で、カリフと教皇の違いが繰り返し言及された。そのなかでカトリックの「カテキズム」が紹介され、カトリックの神秘主義とイスラム教の神秘主義の違いが説明された。どれも大問題だが、イスラム教についてほとんど知識を持たないわれわれにとり、カトリックのカテキズムについての最低限の知識は必要だろう。
1 まず、カリフと教皇の違いは次のような説明であった。
教皇:教義の解釈、秘跡の授与などをおこなう宗教的権威を有する
カリフ:聖法の執行者であり、聖法や教義を解釈する宗教的権威は持たない
教皇は宗教的権威者、カリフは政治的権威者といえそうだが、カリフの場合は政治権力はスルタンが握っているので区別が難しそうだ。問題は、教義の解釈権を誰が握っているのか、だ。カトリックでいえば、教皇と公会議の対立であり、イスラム教でいえば、カリフとイマームの対立、という図式になるらしい。現在はカトリックでは教皇優位の時代であり、イスラム教ではカリフは不在だ(1)。
2 伝統的なカテキズムの概要
ここでは『カトリック教会のカテキズム』(カトリック中央協議会 2002)が紹介される(2)。これは839頁におよぶ大著(翻訳)である。その構成は、
第1編「信仰宣言」
第2編「キリスト教の神秘を祝う」
第3編「キリストと一致して生きる」
第4編「キリスト教の祈り」
となっている。カトリック神学の知識がないとなぜこういう構成になっているのかピンとこないかもしれない。つぎのように整理し直してみよう。
第1部 クレド(教義)
第2部 典礼 (秘跡)
第3部 十戒 (倫理)
第4部 祈り (霊性神学)
これは『カトリック教会の教え』(2003)の区分で、「新要理書」の構成だ。日本のカトリック教会では、日本司教団公認の要理書は、昭和11年(1936)の『公教要理』がずっと用いられてきた。これは戦後1960年に『カトリック要理』と書名が変更されたが、内容が時代の変化にあわせて改訂されることはなかった。
それがやっと新要理書として生まれ変わったのがこの『カトリック教会の教え』だった。これは執筆者が、第1部は岩島忠彦師、第2部が岡田武夫大司教、第3部が浜口吉隆師、第4部が池長潤大司教で、そうそうたるメンバーが書かれている。
だが、533頁に及ぶ大著であり、だれでも手にできる使いやすいものではなかった。『カトリック教会のカテキズム』(1992)の要約(『カトリック教会のカテキズム要約 コンペンディウム』)が完成するのはなんと2010年であり、それまでのつなぎの役をはたしていたようだ(3)。
3 『カトリック教会のカテキズム・要約』第3編の内容
第3編は「キリストと一致して生きる」と題されている。
第1部 「人間の召命 ー 霊における生活」(4)
第1章 人格の尊厳
第2章 人間共同体
第3章 神の救い ー 法と恵み
第2部 神の十戒
ここはカテキズムの中で最も大事な部分なので、少しわかりやすく整理し直してみよう。
・・・
わたしはあなたの主なる神である
【あなたの神を愛しなさい】
第1の掟 わたしのほかに神があってはならない
第2の掟 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない
第3の掟 主の日を心にとどめ、これを聖とせよ
【あなたの隣人を愛しなさい】
第4の掟 あなたの父母を敬え (家族倫理)
第5の掟 殺してはならない (生命倫理)
第6の掟 姦淫してはならない (性倫理)
第7の掟 盗んではならない (経済倫理)
第8の掟 隣人に関して偽証してはならない (コミュニケーション倫理)
第9の掟 隣人の妻を欲してはならない (清貧)
第10の掟 隣人の財産を欲してはならない (欲望制御)
・・・
つまり、十戒とは「神」と「隣人」を「愛する」ための掟だと理解できそうだ。イスラム教の「六信五行」(5)もこの十戒の教えをベースにしているのだろうか。
(神の十戒)
4 カトリックにおける神秘主義
S氏は神秘主義はキリスト教独自の用語であって、ヒンズー教・仏教など他の宗教の神秘体験と同一視すると意味が混乱すると述べている(6)。
トマス・アクイナスの定義:神の体験的認識のこと。すなわち、イエスにおいてわれわれに語られた三位一体の神を直感的に認識すること。それは正しい信仰による知的洞察が前提となる。
つまり、信仰を伴わない神秘体験や心理学的解釈は避けねばならないという。つまり、信仰を伴わない主観的高揚感などは神秘体験とは呼ばないと言うことのようだ。
カトリック教会には、神秘主義に関して伝統的に二つの見解があったという。
①ガリグー・ラグランジュ(7):神秘主義はキリスト教信仰生活の正常な継続と深化である
②ジョゼフ・ブーラン(8):神秘主義は神が少数者に与える特別な恵み
当然ラグランジュの説が正統性を持っており、あらゆる信仰実践の中に「小さな神秘主義」が含まれているとする(9)。
注
1 カリフと教皇は選出方法は違う。教皇の選出は枢機卿団による投票である。1274年の第2リヨン公会議で規定されたようだ。カリフは選挙(法学者の談合)か血統かでわかれる。
宗教的権威と政治的権威の点では、教皇はローマ司教・使徒の継承者だが同時に広大な教皇領を持つ世俗君主でもあったし、現在はバチカン市国の国家元首でもある。カリフはスルタンと争ったり、一体化したりその関係は複雑なようだ。
制度としては、教皇制そのものを認めない議論もあるが、少なくともローマ教皇の権威だけは受け入れれているようだ。カリフ制は国民国家の成立の中で制度そのものが立ちゆかなくなっているようだ。
2 カテキズム catechism とは「キリスト教の教理の要約」のことで、むかしは「公教要理」と呼ばれたが、現在はこの表現は用いられない。。現在は入門講座で利用されることが多いが、その特徴はキリスト教の教義を「問答形式」でわかりやすく説明するところにある。
問答形式は『神学大全』など伝統的な神学書で用いられる形式で現在はあまり見かけないが、カテキズムの大きな特徴となっている。たとえば、『カトリック教会のカテキズムの要約』(コンペンディウム)(カトリック中央協議会 2010)の出だし(第1編第1部)は、「1 人間に対する神の計画とはどのようなものですか。」で始まり、その答えが詳しく説明されている。このように、質問・答えの繰り返しをとる問答形式が特徴だ。問答形式をとらないカテキズムもあるらしく、例えば『カトリック教会のカテキズム』(2002)は問答形式をとっていない。なお、「カトリック教理」を伝える信仰教育は「カテケージス」(要理教育)と呼ばれる。
3 本書には付録として「日本の教会の歴史と制度」が含まれている。これは溝部脩司教により執筆されたもので、資料的価値の高いものである。カテキズムは広義の教理一般であり、日本の教会の歴史や特殊性にふれることはないので、大事な資料である。逆に言えば、いろいろな神父様が書かれるいわゆる入門講座用のカトリック教理本には日本の教会の特徴に触れるものが少ないといえる。日本のカトリック教会の特徴・個性を強調することが是か非かについてわれわれはまだ意見の一致を見ていない。たとえば遠藤周作の作品の評価について日本のカトリック教会が真っ二つに割れているのは、残念なことである。
4 召命とは神が弟子を作ることをいう。マルコ1:16~(漁師を弟子にする話)などにみられる。われわれは「めしだし」と読んでいたが、最近は「しょうめい」と発音する方が多いようだ。なにか違いがあるかどうかはわからない。『祈りの手帳』(ドン・ボスコ)には、「召命しょうめいを求める祈り」、「司祭の召し出しを求める祈り」の二つの表記がある。「しょうめい」は信徒の洗礼向け、「めしだし」は司祭の叙階向けの用語なのだろうか。vocation, calling, berufung の違いは何なのだろう。
5 イスラム教徒が信ずべき六つの信条と、実行すべき五つの義務。
六信とはアッラー・天使・啓典・預言者・来世・予定
五行とは信仰告白・礼拝(サラート)・喜捨(ザカート)・断食(サウム)・巡礼(ハッジ)
イスラム教でもモーセは重要な預言者とされ、十戒も六信五行のベースになっているようだ。
6 神秘主義を絶対者と自己との神秘的一体化であり、自己の内面における体験と一般的に考えるなら、キリスト教に限定することは難しいだろう。イスラム教のスーフィズム、バラモン教のアートマン、仏教における密教なども神秘主義と呼ぶことが多いのも事実である。ただキリスト教において最も発展し、神学に影響を与えたという意味では、キリスト教独自の用語といってもよいのかもしれない。
7 ガリグー・ラグランジュ 1877-1964 フランスの神学者 ドミニコ会 新トマス主義者 岩下壮一師にも影響を与えている。 M・D・シェニュとならんで20世紀カトリック神学の生みの親とも言える。
8 ジョゼフ・ブーラン 1824-1893 元カトリック司祭 性による救済などを唱えた悪魔崇拝の呪術者
9 この意味では「禅」は神秘主義かという問いが生まれる。ジョンストン師をはじめ欧米のキリスト教神学者は禅を神秘主義の一種と見なす傾向が強いが、ジョンストン師によると禅の導師はそういう理解に否定的だったという(W・ジョンストン 『愛と英知の道』 サンパウロ 2017 原著は1995)。