J.ラツインガー『イエス・キリストの神』を取り上げた神学講座は前回で一応終わりました。2017年7月は訳者里野泰昭氏による本書の解説「三位一体について」を読む予定でしたが、神父様のご都合により休講となりました。そこで今回はこの解説をわたしなりに簡単に整理しておきます。
この解説は49頁に及ぶ長文のもので、里野氏の神学研究の成果が反映された力作である。ラツインガーによる本書は三位一体論といってももっぱらホモウーシオス論が中心で、ヒュポスタシスとかペルソナとかの概念が全く言及されていない。哲学畑の人からはこれではあまりにギリシャ哲学に偏っていると批判されるだろう。里野氏は本書は神学書ではなく黙想会用の講話をまとめたものだからと弁解しているが、やはり弁解にとどまってしまう。そこで、「それでは」、と直弟子として師匠に替わって三位一体論論争の歴史をふり返ったのが本論文である。
キリスト教は三位一体の神を信ずる。でも、三位一体とか、三一とか、トリニティーといわれてすぐにピントくる人は日本人は少ないのではないか。「三が一で、一が三である」なんて、子供だましの言説で馬鹿馬鹿しくて開いた口がふさがらない、というのが大方の印象ではないか。例えば、ゲーテは『ファースト』第一部で、メフィストフェレスに「三が一で、一が三である」なんて馬鹿げた教説である、と嘲笑させている。
信者の中でも、三位一体の教義なんて公教要理で聞いた訳のわからないお話で、よくわからないけどただありがたいお題目として唱えているだけ、という人もいるのではないか。里野氏は間違いはここにある、と言うところから話を始める。三位一体論という教義の「結論」から信仰の話を始めるから訳がわからなくなる。三位一体論は長く苦しい論争の果てに教会がたどり着いた終着駅だ。この論争の「歴史」を知らないと三位一体論は迷宮入りしてしまう、というのが里野氏の議論の出発点である。
三位一体論論争は当時のリビアの司教アレイオス(256-336)が「ロゴスは被造物である」と主張したことに始まる。つまり「子」は被造物というのだから、大変な考え方だ。つまり、三位一体論とは、「三が一である、一が三である」とかいう話から始まったのではなく、「子」と「父」は「同一本質」ホモウーシオスなのかどうか、という話から始まっている、というわけだ。
「子は神である」と言ってきた教会は困った。しかも、このままでは、「父」が「神」で、「子」も「神」なら、「神」が二人いることになってしまう。キリスト教は聖書の伝統に従って唯一神の信仰を守っている。神が二人では矛盾する話となる。論争は激しい宗教的・政治的争いとなる。長く激しい論争の末、結局はこのアレイオスの主張はニカイア公会議(325)で異端として退けられ、次のコンスタンチノポリス公会議(381)で終止符が打たれる。そして三位一体論はアウグスチヌスによって神学的に整備される。これが三位一体論論争の流れで、これがはっきりしないと三位一体論はそれこそ「神学論争」になってしまう。少し丁寧にみてみよう。
三位一体を理解する上で重要な概念のひとつは「ヒュポスタシス」hypositasisという概念だ。これは東方教会(ギリシャ教会)が、父と子は互いに独立した存在であると言うことを示すために用いた言葉だ。このヒュポスタシスという概念を三位一体との関連で初めて使ったのはアレクサンドリアの神学者オリゲネス(184-253)だという。オリゲネスはギリシャ教父の一人で、「聖書の三つの読み方」(字義的解釈・道徳的解釈・霊的解釈)を主唱したことで知られる。ベネディクト16世の評価も高い(『教父』 2009 ペテロ文庫 第6・7章)。ヒュポスタシスには日本語では「自存者」という訳語が当てられるらしいが、意味は一個の独立した存在ということだ。もともとは医学用語で、尿の沈殿物を指したらしく、何もないところから何かが結晶となって沈殿してくる様を表したようだ。オリゲネスはこの概念を三位一体に援用し、父から子が生まれ、聖霊が「流出する」、しかも父と子と聖霊はそれぞえ独立した存在性を有している、と考えた。この東方教会の「三つのヒュポスタシス」概念が三位一体論を理論化するとともに、やがて西方教会を東方教会から切り離していくことにもなる。
ヒュポスタシスをラテン語に訳すと「スブスタンティア」substantia になるのだという。日本語では「実体」と訳されているらしい。西方教会(ラテン教会)は三位一体を、父と子と聖霊の三者を、「一つのスブスタンティア、三つのペルソナ」として理解した。「三つのヒュポスタシス」と考える東方教会、「一つのスブスタンティア・三つのペルソナ」と考える西方教会。この対立が東西両教会を分離させていく。東方教会は一つの神のうちに父と子があり、子は父に従属している、と考える。いわゆる「従属説」である。東方教会にはこのほか様態説とか類似説とかも登場し、議論は輻輳する。
この論争はニカイア公会議で決着が図られる。アレイオスの考えは異端とされ、子と父とは「ホモウーシオス」同一本質であると定義された。しかし決着がついたわけではない。アレイオスの支持者は多く(現在でも?)、しかもホモウーシオスの「ウシーア」とは何なのかについて合意が成立していなかった。ホモウーシオス(一つの、同一のウシーア)のウシーアとは「実体」なのか、「本質」なのか、または「存在」のことなのか。哲学好きの人にはこの「実体・本質・存在」の区別は重要な区分だろうが、カト研の皆様には釈迦に説法なのでここでは触れないことにしよう。論争はさらに複雑化していく。東方教会ではホモウーシオスを排除し、「三つのヒュポスタシス」を強く主張する人々がでてきたようだ。アタナシオス(295-373)はニカイアの「ホモウーシオス」を受け入れる条件で「三つのヒュポスタシス」について語ることを認めたという。里野氏によれば「西方教会は一性を重視し、東方教会は三性を重視した」(172頁)という。
ニカイアの「ホモウーシオス」と「三つのヒュポスタシス」の二者を統合したのがカッパドキアの三教父と呼ばれる三人で、「三つのヒュポスタシスの一つのウシーアにおける一致」という定式化で、これは西方教会の「一つのスブスタンティア、三つのペルソナ」という定式化と並ぶものとなる。さらに、聖霊の神性についての聖霊論論争でも聖霊は神であって被造物ではないと言うことで合意が成立する。ここで三位一体論論争は終結し、コンスタンチノポリス公会議(381)でこの教義の正当性が承認される。
コンスタンチノポリス公会議では三位一体論論争は決着するが、こんどは「キリスト論論争」が登場する。イエスの「人性」と「神性」の関係をめぐる論争だ。イエスのなかではイエスの人性は神性のなかに完全に吸収されてしまっているという単性説がでてくるが、これは否定されていく。「イエスは真の意味で神であり、真の意味で人間である」とい教義が確立されていく。
三位一体論論争はおもに東方教会でおこなわれた。西方教会の貢献はほとんどなかったという。しかしこの欠陥をおぎなったのがアウグスティヌス(354-430)である。アウグスティヌスは、ペルソナとは「関係による存在」で、三位一体とは三つのペルソナであると定式化した。アウグスティヌスのペルソナ論はアウグスチヌス神学そのものなのでわたしの手にはおえない。里野氏はM・ブーバーの「我―汝」論を使って詳しく論じるが、これはこれで現代の三位一体論につながっていくのだろう。
里野氏の三位一体論論争の歴史的要約ははここまでだ。このあと、里野氏は最も重要な当初のテーマに戻る。つまり、三位一体論とは、「イエスが神であるとは何を意味するのか」という問いである。「三が一で、一が三であるのとはどういうことか」という問いではない。答えは問いのしかた次第で変わってくる。適切な問いのないところに適切な答えは見えてこない。
イエスが神であるとはどういうことか。これは神が人間になった、ということを意味する。人間が神になったのではない。神が人間になったという話だ。日本では例えば菅原道真は神だ、学問の神様だ、という場合、人間が神になった、と言っている。神が人間になった、菅原道真になった、とは言っていない。日本で、神が人間になったという文脈で神が語られるのは、昭和天皇の「人間宣言」(1946)くらいだろう。天皇は現人神であることを自ら否定しただけで、神(天皇)が人間になったと言っているわけではないという議論もあるだろうが、神が人間になるという思考は古事記にも日本書紀にも見られないのではないか。
「神」という概念も正確な理解が必要だ。われわれが「神が人間になった」と言うとき、この神は「聖書の神」である。神様一般、絶対者、超越者、第一原因、など、哲学者のいう神ではない。聖書の神が神なのである。
では、聖書の神とはどういう存在なのか。里野氏は聖書の神とは「人間に顔を向ける神」と呼んでいる。「聖書の神は、貧しい者、苦しむ者、虐げられた者、神の義を求める者の神である」(194頁)。イエスが神であり、「子」であるとは、イエスにおいて神が顕されたということである。里野氏はヨハネ福音書の中に入っていく。
共観福音書によれば、イエスには「子」としての自己意識があった、という。イエスは「アッバ、父よ」と呼びかける。イエスのこういう自己意識はイエスの生涯を貫いているというのが里野氏の理解だ。自己意識とはあまり聞き慣れない言葉ではあるが、おそらくこれはかれの師ラッチンガーが講義でいつも言っていた言葉なのであろう。
里野氏は最後の「まとめ」の部分で、新しい三位一体の図を示している。これもあまり見慣れない図なので念のため添付しておきたい。最後に里野氏の言葉を引用しておこう。
人間の側から神を知ろうとする試みによっては、わたしたちは神に達することができない。
神が神の方からを人間に開いてくださったときにのみ、わたしたちは初めて神を知ることができる。
これが、イエス・キリストにおいて起きたのだと信じることが、イエスは神であると信じることであり、
三位一体の神秘を信じることなのである。(201頁)