カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

ご受難(2) 新約聖書とイエス(15)

2019-01-29 21:08:05 | 神学


 最後の晩餐に関する議論は難しい。そもそも「最後」とは何のことなのか。英語では the Last Supper、 ドイツ語では Das letzte Abendmahl で、確かに「最後」となっている。また、晩餐もsupper と言われるとちょっと軽い感じがするが、ドイツ語のmahlはもうちょっと重いというかmealという印象を受ける。教会では現在「主の晩餐」と呼んでいるが、これはご聖体やミサをどう考えるかという大問題につながるらしく、改めてきちんと勉強しないといけないようだ。
 普通の説明は、最後の晩餐とは、イエスは十字架につけられる「前夜」に、エルサレムの二階座敷で弟子たちと共に食した記念の晩餐のことだ。弟子たちとは、処刑前では、最後の一緒の食事ということになる。イエスはここで、パンとぶどう酒を弟子たちに与えて食べさせた。パンは「自分の体」、ぶどう酒は「契約の血」と説き、これを記念しろと勧められた。現在もミサとしてこの記念が続けられている。

1)最後の晩餐の日付における神学的意図

 最後の晩餐はいつの出来事だったのか、過越祭の当日かそれとも前日だったのか、というのがずっと問題であり続けた。現在でも問われ続けていると言って良いだろう。
 最後の晩餐は過越の食事だから、マルコに倣ってユダヤ暦ニサン月14日と考えるのか(マルコ14・12)、それともヨハネ福音書に倣って過越祭の前日の13日と考えるのか(ヨハネ13・1)(1)。
 マルコ14・12
「除酵祭の第一日、すなわち過越の子羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った」。

 ヨハネ13・1
「過越祭の前に、イエスは、この世から父の元へ移るご自分の時が来たことを悟り、」。(新新共同訳)
「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、」。(新共同訳)

 歴史的事実としてはヨハネに軍配が上がるらしい。過越の食事の日と、処刑の日は別の日だと考えられるからだ(過越祭の当日に処刑を実行したりしないだろうという推測)。だが、最後の晩餐が過越の食事であり、イエスは過越の解放者であると言う認識では共通しているという(2)。
 また、ヨハネやパウロの「イエス=子羊」論は過越の出来事としてのイエスの受難をあらわしているという。たとえば、十字架上でイエスの「足は折られ」なかった(ヨハネ19・33)は、出エジプト記の「一匹の羊は・・・その骨を折ってはならない」(12・46)に重なるという。イエスは過越の子羊と考えられたようだ。過越の子羊は新しい命の象徴だ(3)。


2)最後の晩餐の言葉ーパウロ型とマルコ型

 最後の晩餐でのイエスの言葉は聖書の様々な箇所で伝えられているが、基本的にはパウロの伝え方とマルコの伝え方の二つの類型があるという。
 パウロ型とは、イエスの言葉は「主から受けた」ことを強調し、言葉の伝承性が強調されているという。
Ⅰコリント11・23 「私があなた方に伝えたことは、私自身、主から受けたものです」。
「受けた」という表現が強調されているという。
 また、「記念として」これを行いなさいという命令が強調されているという。
Ⅰコリント11・24 「私の記念としてこのように行いなさい」。

 他方、マルコ型は少し異なる。マルコ14:24ー25をみてみよう。

「そしてイエスは言われた。「これは多くの人のために流される、私の契約の血である。よく言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」(新新共同訳)。

 ここで、「多くの人」とは「すべての人」という意味だという。これはセム語的な表現で、全員という意味らしいが、なにか紛らわしい言葉使いではある。また、ここでマルコが描く主の晩餐には「典礼」的要素が見当たらないという。この言葉使いは、典礼がテキストとして作られてくる以前の伝承そのものと考えられるという。つまり共同の祈りが典礼として儀式化される以前に各地で使われていた文書の姿をとどめているらしい。
 つまり、マルコ型の最後の晩餐の方がより古い姿を伝えているようだ。

3)最後の晩餐の言葉の原型の復元

 それでは、最後の晩餐でのイエスの言葉の原型はどんなものだったのか。
パウロ型とは、Ⅰコリント11:23-26、マルコ型とは、マルコ14:22-25だ。この二つを横に並べて対比させてみよう。違いがクリアーに浮かび上がってくる。本当は載せたいところだが、長くなるのでお手数ですがご自分の聖書で読み比べてみてほしい。
 三点の特徴が指摘されているようだ。

 まず第一の特徴は、制定句が、「対象型」(マルコ)か「非対象型」(パウロ)の違いだという。パウロの文言は非対称型で、「これは、あなたがたのための私の体である」「この杯は、私の血による新しい契約である」。文言に対称性はない。
 他方、マルコでは、「これは私の体である」「これは私の血である」。見事な対照的表現になっている。
 こういう文言の対称性の強調は歴史的には後から作られたのであろうから、パウロ型の方が原形をとどめている言えるらしい。

 第二の特徴は、「契約」という文言の使い方だ。パウロは「新しい契約」といい、マルコは「契約の血」と言う。

Ⅰコリント11・25 「この杯は、私の血による新しい契約である」。
マルコ14・24 「これは、多くの人のために流される、私の契約の血である」。

 ユダヤ教の世界では血は忌避されていたから、パウロ型の「新しい契約」という文言の方が原型に近いのかもしれない。

 第三の特徴は、「ために」という文言の使い方らしい。パウロ型では、「あなたがたのための私の体」となっているが、マルコ型では、「多くの人のために流される、私の契約の血」となっている。「多くの人」というよりは、直接「あなたがたのため」という文言の方が原型に近いらしい。

 結局、最後の晩餐でのイエスの言葉の原型は何であったのか。聖書学者たちは次のように考えているようだ。

 「これはあなたたちのためのわたしの体である。
  これは新しい契約である」。

 つまり、一概にパウロよりはマルコの方が古くて原型を伝えているとはいいきれないようだ、と私は理解したが、あまり自信は無い。


1 ニサン月とは現在の3-4月にあたるらしい。
2 最後の晩餐がなぜ過越の食事でなければならないのか。これは神学的にしか説明できない。
3 過越祭の話はむずかしい。一般的には、過越祭はユダヤ教の三大祭りの一つで、イスラエル史上、最も重要な出来事とされている。つまり、エジプトから脱出できたことを祝う祭りなのだ。新約聖書では共観福音書の記者たちはは最後の晩餐と過越の食事を同一視している。パウロは新しい命の象徴として古いパン種を取り除いて過越祭を祝えと言っているようだ(Ⅰコリント5:6-8)。子羊は旧約では犠牲獣で捧げ物だったが、柔和・従順の代表とされ、また、神から離れて迷う人間としてもたとえられている。

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