カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

ご受難 新約聖書とイエス(14)

2019-01-28 21:11:02 | 神学

 真っ青な空と冷たい空気。強風。雨の降らない冬らしい日が続く。今月の学びあいの会のテーマは「ご受難」。このテーマは歴史的議論の対象になってもあまり神学のテーマにはなりにくい。ご受難はイエスの生涯そのものだし、キリスト教そのものだし、ごミサの典礼はご受難の記念そのものだからだろうか。今日はどういう話の展開になるのか興味を持って臨んだ。

 そもそもご受難とは、時間軸でいえば、いつの出来事からいつの出来事までの期間を指すのだろうか。神殿への入場からか、最後の晩餐からか、ゲッセマネの祈りからか、死刑宣告からか。また、いつまでを含むのだろう。十字架上で息絶えるまでか、埋葬までか、それとも復活までか。
 「十字架の道行き」は14留あるが、これは死刑の宣告から埋葬までで比較的短い期間をカバーしている。15留で復活を含むこともあるようだが、これは珍しいだろう。
 といって、ご受難を歴史的経緯としてみるのではなく、信仰としてみるなら、イエスの全生涯がご受難ともいえる。イエスは誕生の折に自らの将来の定めを知っていて涙を流したという逸話があるくらいだ。そもそもイエスは自分が神の子であるという自覚をいつ持ったのか。生まれたときからかもしれないし、洗礼を受けたときからかもしれないが、イエスは自ら文書を残していないし、聖書からは知るよしもない。
 「受難」という訳語がいつどのような経緯で成立したかは浅学の身で知らないが、ラテン語では passus というらしく、早くも2世紀には使われていたらしい。英語ではpassion, ドイツ語では Leiden。 Passion は感情という意味もあるので受難という訳語とはつながりにくいが、日本ではバッハの受難曲などからよく知られ、訳語としては定着していると考えて良さそうだ。
 ここはやはり聖書学者たちの議論から学びたい。出発点は中川師の神学講座である。

1 受難予告

1)イエスの自己意識

 イエスの自己意識とは、イエスは自分の受難をいつ、どのように自覚したのかという問いへの聖書学者たちの答えである。

a)イエスの行動様式はユダヤ教的律法秩序と衝突した。衝突事例として二つある。一つは「安息日論争」でマルコ2・23-28だ。安息日に麦の穂を摘む話だ。安息日に収穫作業をしてはならないという律法をイエスは否定する。これはファリサイ派への批判だ。ファリサイ派は当時のユダヤ教の主流で、厳格な律法遵守をもとめた。だがイエスはいう。「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない」(新新共同訳)。

 もう一つの事例は「宮浄め」または「神殿浄め」の事例で、神殿で商人を追放する話だ。マルコ11・15-18など。ここではイエスは珍しく暴力的な行動にでる。暴力を振るうイエスは聖書にはほとんど描かれていないので、ここは珍しい場面だ。ここはサドカイ派への批判で、テーマも両替の話だ。なぜ両替商が神殿にいるかは当時の税金や献金制度に関係する。サドカイ派は当時はファリサイ派と勢力争いをしていたようだが、神殿礼拝だけを重視していたようだ。イエスは神殿を「私の家」と呼び、「祈りの家」と呼び、かれらを批判した。イエス殺害の謀略はここから始まる。

b)ユダヤ教当局によるイエスの殺害計画

 これは、マルコ3・6にでてくる。また、ルカ13・31に、「ヘロデがあなたを殺そうとしています」とある。イエスの殺害計画が動き出す。「イエスの自己意識」とは、イエス自身が死を予見していたことを意味する。

2)受難予告

 受難は予告されていた。受難の予告には直接的予告と間接的予告の二つがあるという。直接的予告では「三カ所」の受難予告がある。マルコ8・31,9・31、10・33だ。予告はここで行われる。
 受難物語は共観福音書すべてに見られるが、中核はマルコだ。「受難物語はマルコ」と言われるくらい、マルコが詳しい。長い。12・13・14章と連続して続く。読み物としてもおもしろい。

 間接的予告と言われるのは、「最後の晩餐」のことのようだ。マルコ14・22-25par,1コリント11・22-25。主の晩餐ですでに受難の予告がなされていたという。

3)受難予告の歴史性

 これはマルコ9・31で、イエスが自分の死と復活を予告しているところだ。

「それは、弟子たちに教えて、「人の子は人々の手に渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」といっておられたからである」(注1)。

 ここでは、「渡される」「引き渡される」という言葉が重要らしく、聖書学者の腕のふるい所らしい。要はこの言葉が使われているから、、これはイエスが発した真正の言葉であり、後から書き加えられたものではないということらしい。

 次の最後の晩餐の話題は次回に回したい。


注1 新共同訳ではこうなっている。「それは、弟子たちに、「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである」。
新新共同訳では「教えて」という文言が付加されている。フランシスコ会訳にも「教えて」という文言が入っている。

 

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