Ⅲ 中世
西欧中世は停滞した暗黒の時代だったという、昔の日本の教科書によく見られた見方は現在ではほぼ消えたといえよう。中世は独自のダイナミズムを持つ豊かな時代だったという理解が支配的になってきているという。
西欧中世をいつからいつまでと考えるかは諸説あるのだろうが、西ローマ帝国の滅亡(478)からアメリカ大陸の発見/到着(1492)までと考えてみる(1)。つまりざっと1000年間となる。中世をさらに初期(5~10世紀)・中期(11~15世紀)・後期と分けることも多いようだ。マリア崇敬で言えば東方教会では8世紀に頂点を迎え、西欧中世は13世紀を頂点とみてよいだろう。マリア論は修道院神学から大学神学へと中心が変化し、その姿も変貌していく。
1 修道院神学のマリア
西方教会における神学は修道院でなされていた(2)。修道院神学は典礼の中で発展したという。マリアについての神学も聖母の祝日の説教から発展してきたのだという。ベネディクト会のアウトベルテゥス(784没)は西欧初のマリア論神学者と呼ばれるようだ。クレルボーのベルナルドゥス(1153没)は「マリアの博士」と呼ばれるらしく、教会をマリアの下に置くという考え方をとったという。修道院神学ではマリアの霊的母性が多く語られたという。
2 スコラ神学のマリア
やがて神学は大学の神学部で営まれるようになる。スコラ神学は13世紀のトマス・アクイナスにおいて頂点に達するが、アクイナスのマリア論は母性論ではなく、受肉論の文脈らしい。受肉に関わるマリアの役割に中心が置かれているという。
3 中世後期神学のマリア
シスマ(大分裂 1378~1417)のあと、教会は衰退し始める。理性と信仰の統合を説いたスコラ神学はオッカム(1347没)の唯名論によって解体されていく(3)。中世後期の神学はこうして新しい霊性主義、神秘主義を生み出し、現実世界から離れていく。『イミタチオ・クリスティ』(『キリストに倣いて』)の著者とされるトマス・ア・ケンピス(1471没)は誰でも知っている神秘主義者だ。マリア信仰はしばしば素朴で迷信的な信心になりかねなかった。
4 無原罪の御宿りと被昇天
中世のこういう流れの中でマリア信心は盛んになり、多くの聖堂がマリアの捧げられ、マリア巡礼地が定められた。マリアの出現や奇跡も伝えられた。そして無原罪の御宿りや聖母被昇天を教義にするよう求める運動が強まってくる。
無原罪の御宿りについては二つの考え方が出されていた。
①マリアは原罪を持ったまま母の胎内に宿ったが、生まれる前に、恩恵によって、原罪が取り除かれた、という説。アンセルムス、ボナベントーラ、トマス・アクイナスらが唱えた
②神は、キリストの功徳のゆえに、前もってマリアの原罪を免れさせた、という説。ドウトス・スコトウスらが唱えた。
結局教会では②の考え方が認められるようになり、1854年にピウス9世によって教義として宣言された。
被昇天(assumption、昇天ascensionではない)に関しては聖書には記述はない。古来以来様々な伝承があったようだ。6世紀以降マリアの被昇天の思想が広がり、8月15日に祝われるようになった。16世紀にはこの日を祝日とすることを全教会が一致して認めた。そして1950年にピウス12世によって教義宣言された(4)。
Ⅳ 近世
世界史では近世(early modern period)という時代区分が定着してきているようだ(5)。アメリカ大陸到着(1492)からフランス革命開始(1789)までと一応考えておこう。中世でもないし、近代でもない独特の時代という理解なのであろう。
マリア論の展開から見れば、16世紀の宗教改革、17世紀の対抗宗教改革、18世紀の啓蒙主義との闘いの時代と言うことになる。
①宗教改革者たちのマリア崇敬
ルター(1546年没)はマリア崇敬を否定したように思われがちだが、それは真理の一部でしかないようだ。ルターの「十字架の神学」は伝統的なマリア崇敬を認めており、マリア信仰を否定しなかったようだ。ただ被昇天やマリアの図像などは行きすぎたマリア信心として批判し、拒否したという。また、マリアの取次ぎを願うことは、仲介者であるキリストへの信仰と相容れないとして排斥したようだ。ルターにとりマリアは仲介者ではない。
ツヴィングリ(1531年没)とカリヴァン(1564年没)もルターにならってマリア崇敬には抑制的であったという。つまり、マリアの処女性や聖なる母であることは認めていたが、マリアの取り次ぎや図像は厳しく禁じていたという。
②対抗宗教改革期のマリア崇敬
トリエント公会議(1545~1663)後の教会は新大陸へ、世界中へ拡がっていく。イエズス会はヨーロッパに数多くの学校を開設し、「マリア会」を組織し、マリア信仰の養成を図った(6)。大学の神学部では無原罪の教義の擁護が必須とされ、ポルトガル・オーストリア・ポーランドなどの国家がマリアに「捧げられた」。
マリア論は体系化が始まり、マリア神学が歩み始める。イエズス会のフランシスコ・スアレス(1617)はその嚆矢だという。
③啓蒙主義時代のマリア崇敬
18世紀を啓蒙主義の時代と呼ぶなら、この時代にマリア信仰は「理性という女神」に取って代わられる。マリア崇敬は衰退するのだが、同時に啓蒙主義への反動としてマリア信心の中に反合理主義的傾向が強まってくる。また、無原罪の御宿りや聖母被昇天を教義として宣言するよう求める運動が強まった。
衰退し、退潮したマリア信仰は19世紀に入るとともに復活し始める。19世紀は「マリアの世紀」ともよばれる。1854年の無原罪の御宿りの教義宣言から1950年の聖母被昇天の教義宣言までの約100年間は信徒レベルのでマリア崇敬が最も高まった時期だと言われる。マリアの「特権」が語られ、マリアを「恩恵の仲介者」として教義宣言するよう主張する運動が盛んになり、マリアをキリストとの「共済者」とする主張も強まってくる。次回見てみたい。
アヴェ・マリアの祈り(日本語・英語)
注
1 『新もう一度読む山川世界史』 2017 第2部
2 修道院と言っても砂漠の修道院から都市の修道院まで幅があるようなのであまり断定的なことは言えないようだ。
3 唯名論 nominalism は議論しだしたらキリが無いが、要は普遍論争のなかの一方の立場で、普遍は事物の側ではなく言語の中にあるという主張。近代はこの論争から始まったとも言える。
4 この二つの教義は教皇による決定であり、公会議の決議によらないので、いろいろな批判があるようだ。特に被昇天は、マリアの魂が引き上げられたのか、肉体が引き上げられたのかなどいまだ議論があるようだ(教会は、マリアは死後すぐに心身ともに、つまり魂も肉体も、天に受け取られたと教えている。死後、最後の審判を待つ普通の人間(聖人も含む)とは異なり、これはマリアの「特権」と説明されている)。聖母被昇天の祭日は8月15日に固定されている。日本では8月15日は終戦記念日でもあり、なかなかお祭り気分にはなれない祭日だ。
5 こういう時代区分は比較的新しく、せいぜいここ30~40年のことらしい。15世紀後半・16世紀初頭から18世紀中期・19世紀初頭のほぼ3世紀を幅広くさすようだ。近代との区別のためらしい。指標としては、①15世紀後半の人文主義とルネッサンス ②15世紀末からの大航海時代 ③活版印刷術の発明 ④宗教改革の広がり、があげられるという。終わりはフランス革命と産業革命だという(『新もういちど読む山川世界史』「近世とは」130頁)。これではまるで中学生向けの世界史の話みたいだが、あまりにも時間幅が広いので世界史学界の共通理解なのかは解らない。
6 イエズス会のフランシスコ・ザビエルが日本で宣教を開始したのは1549年である。日本人ヤジロウを伴って鹿児島に上陸したのは8月15日とされている。聖母被昇天の祭日の日である。