カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

マリア信仰は復活したか ー 聖母マリア論(1)(学びあいの会)

2022-02-28 22:13:05 | 神学


 2月の学びあいの会は、春を思わせる暖かい日差しのもとに開かれた。出席者は久しぶりに10名ほどだったが、男性は私だけ。今年も信徒総会(最近は信徒大会というらしい)は開かれず、「年次報告」が印刷物で配布されただけだった。当教会も信徒数が減り、献金が減り、収支決算は「縮小均衡化」が進んでいるという。なんでもコロナの所為にするのではなく、婦人会頼みの教会活動から早く抜け出したいものだ。
 明後日は灰の水曜日だ。大斎ではあるがフランシスコ教皇様は改めてウクライナのために断食と祈りを訴えておられる。4月の復活祭をちゃんと迎えられるのか、教会は来週から四旬節に入る。

 マリア論が始まった。マリア論は難しい。天使論とならんで難しい。難しい理由はいろいろあるだろうが、私が思うに、マリア神学はそれなりに整ってきたが、マリア信心は多様なため(たとえばマリアの出現をどうみるか)、神学と信心の整合性がとれていないからではないか(1)。
 マリア信仰は、第二バチカン公会議以後衰退したと一般に言われている(2)。実際、日本では、第二バチカン公会議以後洗礼を受けた信徒や、叙階された司祭はマリア信仰を強調される方は少ないように思われる(3)。やっとヨハネ・パウロ二世にいたって1987年に回勅『救い主の母』が出され、マリア信仰が復活し始めたと言われるが、日本ではそれほど状況が変わっているとは言えないように思われる。

船越桂作「聖母子像」

 

 今回は以下のような順番で議論が行われるようだ。神学と信心の二部立てとなっている。

第1部 マリア神学
 1 マリア神学の歴史
 2 マリア神学とは何か
 3 マリア神学の諸教義について
 4 エキュメニズムとマリア

第2部 マリア信心
 1 典礼
 2 祈り
 3 マリアの出現
 4 マリア信心とは何か

 それでは報告の内容を要約してみよう。私の私見はできるだけ注の部分にまわしたい。

導入

 教会はその歴史の初めから聖母マリアを崇敬してきた(4)。聖母に関する様々な教義が成立し(5)、また、信心が盛んになった(6)。神の母、処女懐胎と終生の処女性、無原罪の御宿りと罪からの解放、被昇天、教会の母、平和の元冠など様々な教義が唱えられ、関連する信心業が発展してきた。これらは一体何を意味しているのであろうか。そして教会史においてどのような経緯をたどったのか。次回から神学と信心に分けて述べていきたい。



1 整合性というのも曖昧な表現だが、これはマリア信仰はカトリックが盛んで、プロテスタントにはないという俗説が広く受け入れられているからだ。これは俗説であり、注意深く見ていく必要がある。特に聖書中心主義をとって「伝承」の重要性をみない立場をどう評価するかという問題に関わってくる。このあと触れていきたい。
2 私のおぼろげな記憶によると、私がカト研にいた学生時代、ある年、大学の学園祭でカト研は「マリア論」をテーマにした展示・発表をした記憶がある。ちょうど第二バチカン公会議が始まる頃だ(公会議の予告は数年前から出されてていた)。まだ60年安保の余韻が残っていた時代に、いわばのんびりとマリア論を勉強し、発表していたわけではない。19世紀・20世紀はマリアの世紀と呼ばれ、マリア出現があちこちでみられた。マリアは時代の変革期に現れる。われわれは学生なりに時代に反応していたのかもしれない。ただ、この公会議がやがて歴史に残る大公会議になるとは誰も思ってもいなかったので、マリア論が公会議で最も紛糾したテーマであることなど知る術もなかった。
3 例としてはあまり良くないだろうが、岩下壮一師は『カトリックの信仰』の第8章「御託身(その二)」のなかで、「聖母崇敬はカトリックの力」とマリア論を力強く展開している。他方、現在の信徒の神学教育で大きな影響力を持つ小笠原優師は『キリスト教のエッセンスを学ぶ』でも『信仰の神秘』でもマリア論への言及はほとんどなく、わずかに「アヴェ・マリア(天使祝詞)」の祈りの解説をしているだけである。その意味では、この学びあいの会のきっかけとなった光延一郎師『主の母マリア ー カール・ラーナーに学ぶカトリック・マリア神学』(2021)の出版は画期的だろう。師の正平協路線は議論の分かれるところだろうが、日本のマリア論の特徴がよく出ているようだ。なお、師は神学的人間論がご専門のようだが、マリア論は神学校では教会論の一部として講じられているようだ。
4 崇敬と崇拝は区別するというのは日本のカトリック教会が繰り返し強調しており、現在ではよく知られるようになった。それでもまだ「マリア崇拝」という言葉を使う人がいるようだ(例えば、山形孝夫『聖母マリア崇拝の謎』2010)。崇拝はworship, 崇敬はveneration,devotion といっても、訳語レベルではでは信心とは、礼拝とは、どう区別するのかという話になる。イエスに対するマリアの従属性を訳語ではうまく表現できていないようだ。
5 とりあえず、マリアに関する教義は4ヶであり、5番目が現在でも未決着だと理解しておこう。第一の教義は「神の母」(キリストの母でもイエスの母でもない)、第二の教義はマリアの「処女性」、第三の教義は「無原罪の受胎(御宿り)」、第四の教義は「被昇天」だ。第5の教義にと要求され棄却されているのが、マリアの「恩寵の仲介者」「イエスとの共同救済者」という主張だ。第1と第2は公会議の決定であり、第3・第4の教義は公会議ではなく、教皇の決定だ。論争はここから始まる。
6 信心は必ずしも仏教用語ではなく、キリスト教でも用いられる。神に対する畏敬をあらわし、かつその行為・実践を含むようだ。ただし、信仰という言葉とは異なり、道徳的な判断や服従という観念は伴わないようだ。具体的には、祈り・十字架の道行き・ロザリオ・巡礼などが思い浮かぶ。

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