9月の学びあいの会は秋晴れのもと12名の者方が集まり、勉強会のあとは一緒に食事をして感想を述べあった。
7月の学びあいの会では「宗教改革500年にあたって」ということで神学者棟居洋氏の「ルターの信仰義認論」が紹介された。今月は「宗教改革500年にあたって」シリーズの第二弾として、小笠原優師の講義「プロテスタンティズムとは何か」が紹介された。この講義は師が藤が丘教会で3回連続でなされた講義のようで、カテキスタのS氏は毎回出席されたようだ。今日はS氏が小笠原師の講義を整理して紹介された。
今日紹介された第一回目の講義は「ルターが訴えた教会の刷新」と題されている。全体は7章にわかれ、Ⅰ日本の教科書的記述 Ⅱ基本的理解 Ⅲ時代的背景 Ⅳルターの時代 Ⅴルターの問題意識と最初の行動 Ⅵ教皇庁の反応とルターの硬化 Ⅶ神聖ローマ帝国における混乱の始まり、となっている。全体として時間軸に沿った歴史的経過の叙述であり、神学的議論には深く立ち入っていない。小笠原師のルターの理解と説明は公平で、どちらかを一方的に支持したり断罪したりしておらず、バランスのとれたものになっているようだ。タイトルは「プロテスタンティズムとは何か」と少し大上段に構えた感じだが、実際はルター論のようだ。
Ⅰ 日本の教科書的記述
宗教改革に関する日本の教科書の記述はワンパターンだ。ルターは良い者で教会は悪者だ。例えば、山川の『世界史研究』にはこう書かれている。「1517年、ヴィッテンベルク城内教会の扉に張り出された95ヶ条の論題(意見書)で、贖宥状(免罪符)indulgence 販売に対する批判としてまず表現された」(291頁)。つねに免罪符が言及される。ここから宗教改革におけるルターの位置や役割を見通していくことは至難の業ではないだろうか。
Ⅱ 基本的理解
宗教改革は英語では Reformation という。宗教と言う文字は入っていない。つまり、ルターはカトリック教会の「改革」(Reformation)を望んでいたのであり、新しい何か別の教会を「創る」ことを考えていたわけではない。そもそもドイツにはプロテスタントという表現はない。Evangelicalism は福音(主義)派とでも呼べる。事実上ルター派のことをさす。95箇条の論題も実際は壁に張り出されたわけではなく、各司教達に書簡として送られたもののようだ。この書簡が、ルターの破門、ドイツ農民戦争、トレント公会議へとつながっていくのは歴史の流れであり、ルターの意図したところではなかった、というのが小笠原師の説明のようだ。
Ⅲ 時代的背景
今日の講義は大半がこの説明に費やされた。詳しい資料および年表が配られ、ルターの生きた時代を知るためとして、14・15・16世紀の細かい歴史的出来事が紹介・説明された。まず背景として、教皇のアビニヨンの捕囚(1309-1377)→大シスマ(大分裂 1378-1417)→コンスタンツ公会議(1417)、という歴史的背景が詳しく説明された。神学的にはオッカム(1285-1347)の「唯名論」が「実在論」に取って代わろうとして力を増し、伝統的な秘跡論・恩恵論は「合理性」をもたないとして説得力を弱めていく。ルターはG・ビールから唯名論を学ぶが、やがて義認論を巡って二人は対立していく。このあと、ルターの生涯が細かくフォローされ、さまざまな歴史的出来事が論じられるが、特に小笠原師固有の視点から論じられているわけではないので、ここでは省略する。
Ⅳ ルターの時代
ルターの登場は突然のできごとではなく、この時代にはさまざまな「刷新運動」がおこなわれていた。聖霊復興運動や聖書の翻訳や神秘主義神学の普及などだという。フス戦争もその一つとして論じられた。
Ⅴ ルターの問題意識と最初の行動
ここでは、①背景 ②ルターの意図 ③ルターの強迫観念 ④95箇条の提題、の順で説明された。どれもよく知られた話が紹介された。特にルターが神経症で、便秘に苦しみ、ミサを挙げることはあまり好まなかった、と言う話では驚かれる方もいた。95箇条の提題も内容はカトリック的で、教皇は罰は許せるが罪は許せないという視点が保たれていることが強調された。
Ⅵ 教皇庁の反応とルターの硬化
ここでは、①提題の伝搬 ②さまざまな反応 ③教皇庁の動き ④異端とされたルターの活動、の順で説明された。特に目新しい説明はなかったが、ルターが異端とされたのは95箇条の提題の提出や内容そのものではなく、ルターが教皇の命令に従わなかった点が強調された。いわば、教皇庁は問題点をすり替えて、ルターを断罪し、異端に持って行ったわけで、ドミニコ会の審問官(カイエタヌス枢機卿)の責任は大きいという。ルターは95箇条の提題で破門されたのではなく、反教皇だから破門された、という小笠原師の説明はわかりやすい。ルターは結局1521年に破門されているのだが、「聖書のみ・信仰のみ・万人祭司」の考え方は残っていく。
Ⅶ 神聖ローマ帝国における混乱の始まり
ここでは、①カトリック教徒としてのルター ②プロテスタントという語 ③ドイツ農民戦争(1524-25) ④ルターの結婚、という順番で説明された。ここも特に変わった話が紹介されたわけではない。むしろ、S氏は、小笠原師が、教皇庁の対応は不十分で、教会分裂の責任は両者にある、としてカトリック教会の責任を認めていたことを力説された。
カトリックとプロテスタントの分裂は不幸な出来事であった。だが、両者がまた一つになることが良いことかどうかも、なんとも言えない。小笠原師がどのようなお考えを示されるか、次回が楽しみである。