カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

遠藤周作は共感しますか嫌いですか ー 諸宗教の神学(6)(学びあいの会)

2022-01-26 11:39:39 | 神学


Ⅴ 宗教的多元主義

5 代表的宗教多元主義者

③ レイモンド・パニカー (Raimon Panikkar 1918-2010 または Raimundo)

 インドのカトリック司祭で神学者。インド人のヒンズー教徒の父(生まれはスペイン)と、スペイン人のカトリック教徒の母(カタロニア生まれ)との間に1918年にバルセロナ(スペイン)で生まれる。聖書とヒンズー教の聖典を学ぶ。1942年叙階。インド・ヨーロッパ・北米で過ごし、20世紀で最も大胆で創造的な視野を持つ神学者の一人と評された。
 ヒンズー教と仏教をキリスト教に統合(merge)しようとしたという。宗教間対話の先導者。「エキュメニカルなエキュメニズム」を唱え、教会一致はキリスト教内だけではなく、全世界の宗教の一致運動だと提唱した。聖書にも教会教父にも、諸宗教に対するより包括的見解があると主張した。
 キリスト論としては普遍的リスト論の立場に立ち、キリストはすべての人類を照らす光であり、すべての人を神に導くとした。キリストはすべての宗教の存在論的合一で、すべての真の宗教の中にキリストはいるとした。歴史上のイエスをキリストであると告白することは正しいが、しかしイエスにおけるキリストが最終的で一回限りだと主張することはできない、キリスト教以外の宗教にとって別のキリストが別の道で与えられることもあるとした。つまり、イエスはキリストだが、キリストはイエスだけとは限らない、と主張した。これはキリスト教とヒンズー教の創造的共生を求める主張であったという。
 多作であり、著書は50冊以上、論文は数百を超えたという。インド神学の泰斗だが、1987年に故郷スペインに戻り、2010年に亡くなった。
 パニカー批判としてS氏は、パニカーは宗教混合主義で、宗教間の相違を過小評価しているという批判を紹介した。

④ S・サマルター (Stanley Samartha 1920-2001)

 インドの神学者。1970-1981までWCC(世界教会協議会)(1)の「生ける信仰・イデオロギーの人々との対話」部門の初代ディレクターとして活躍した。すべての宗教は本質的に相対的だと考える。イエスキリストの普遍性は認めつつ、その人性・神性の位格的結合は否定し、イエスは偉大な教育者だとした。イエスキリストの普遍性はキリスト者にとってのみ妥当するとした。宗教間対話の重要性を強調し、特にプロテスタント教会間の対話の推進に貢献した。また、インドにおけるキリスト者のアイデンティティーを探り、土着化の過程を究明した。
 サマルターへの批判はWCCへの批判になりかねないのであまりはっきりしないが、S氏は、サマルターは、救いはイエスキリストによってのみ実現するという福音の根本思想を無視しているというサマルター批判を紹介している。

6 その他の多元主義神学者たち(2)

①W・C・スミス  (Wilfred Cantwell Smith)(カナダのイスラム研究者 長老派牧師)
②D・キュピット (Don Cupitt)(英哲学者 聖公会牧師 急進的神学者と呼ばれる)
③J・マックリー (John Macquarrie)(スコットランドの神学者 聖公会牧師)
④T・ホール (Thor Hall)(ノールウエイ生まれの米神学者 長老派) 
⑤A・レイス (Alan Race)(英神学者 J・ヒックの弟子 2007年叙階)

7 遠藤周作の問題提起:『深い河』の挑戦

 ここでS氏は、遠藤周作論を突如紹介された。提示された資料は日本の多元主義神学の一例という位置づけのようだった。この遠藤周作論はどちらかといえば好意的な遠藤論であるが、遠藤周作を多元主義的だが汎神論的だとは見なしていないようだ。出典が明らかでないので細かい紹介はできないが見てみよう(3)。以下は配付資料の要約である。

遠藤周作の問題提起:『深い河』の挑戦
(1)『深い河』は遠藤周作のキリスト者作家としての集大成であった

①この小説『深い河』は、彼の最後の小説であり、生涯のテーマが各人物に託されている ー 彼の生涯のテーマは「日本人にあうキリスト教」の問いであった
②この小説を書き終えた直後の1992年1月19日、彼は次のようにインタビューに答えている
1)宗教とは「無意識」そのものである
2)したがって神は存在ではなく、「無意識の働き」である
3)宗教は環境によって左右される ー イスラム教とかキリスト教とかに本質的な差はない
4)宗教多元主義を認める
 ー 彼は1991年にヒックの『宗教多元主義』に出会って勇気づけられ、この小説を書き終えた
 ー 「各宗教にはそれぞれ文化的背景がある。ヨーロッパのキリスト教と東洋のキリスト教とは信じ方が違ってくるとさえ私は思っている。またそのため私は悪戦苦闘してきたわけですが・・・・。だから、今、ヨーロッパの学者たちもだんだんこの問題に気づき始めて、『神は多くの顔を持つ』とか『宗教多元論』とかいった本を著す神学者もいて、私はそれに非常に共鳴している」
5)復活とは「自分を生かしている大きな命、生命の中に戻ること」である
 ー 従って「転生」や「再生」も同じ意味で当作品中に使われている
 ー 「深い河」とは、ヒンズー教徒たちがこの大きな流れによって清められ、よりよき再生に繋がると信じて生きている河で、それは「転生」の河である
 ー イエスキリストは昔亡くなったが、彼は他の人間の中に転生した
  ・2000年近い歳月の後に、今の修道女の中に転生し、大津の中に転生した
③彼の汎神論的宗教論は、いわゆる「汎神論」ではない
 ー なぜなら一本の深い河に統一されており、各人物が「母なるもの」によって統一されているからである
 ー 河は又遠藤にとって「母なる河」となったのである

 以上が配付資料の要約である。内容が断片的なので全体像が浮かんでこないが、『深い河』は遠藤周作の「問題提起」であり「挑戦」であると位置づけ、『沈黙』以上により高い評価を与えているようだ。遠藤周作は多元主義的ではあるが、汎神論ではないので評価できるという立場のようだ。

 出典元となった『福音と世界』はプロテスタント系の月刊誌のようだが、上記の文章をカトリック司祭も引用するほどだから遠藤周作への共感は日本の教会の中で、カトリック・プロテスタントを問わず、広く見られると言って良いであろう。ましてや非クリスチャンの日本の文学愛好家のあいだでは遠藤作品はひろく読まれ、幅広い支持を得ているように思われる。「沈黙」や「深い河」は映画やビデオでもよく知られている。

 だが、遠藤周作の世界観に共感できないカトリック信者も多くいるようだ。キリスト教を知らない人には想像できないだろうが、むしろ拒絶的反応を示す信者もいる。信徒だけではなく司祭にもおられるようだ。一例として谷口幸紀師を挙げておこう(4)。谷口師は、遠藤周作の多元主義や汎神論を批判するというより、むしろ「愛の無力さ」の強調でキリスト教を特徴づけようとする姿勢を批判しているようだ。批判の背景にはキリスト教の日本での宣教(土着化)をどう実現していくかという問題があるので、軽々な判断はできない。残念だがここにも日本の司教団の分裂が見えてくる。

 

『深い河』

 

8 宗教的多元主義批判

 以上の議論の上で、教会の宗教的多元主義批判が以下のように整理されて紹介された。個々の説明が十分になされたわけではないが、批判の論点がどこにあるかは明らかである(5)。

①宗教的多元主義者は相対主義を避けようとするが、相対主義はどこまでもつきまとう。相対主義そのものが彼らの主義に内在するからだ。
②宗教的多元主義では宗教的真理基準を明らかにすることが不可能である。かれらは実用的基準を援用する。ヒックの救済論的効力論、ニッターの救済論ははたして妥当なのだろうか。
③相対論は対話の可能性を難しいものにする。対話にふさわしい神学を提供していない。
④相対主義は最悪の場合「信仰無差別論」という破滅をもたらす。宗教の偏狭さ、陰の部分を容認してしまう。
⑤キリスト教と他宗教の類似性、共通性のみを強調する結果、各宗教の独自性を侵食し、深遠な相違を見過ごす。
⑥多元論はキリスト教神学へ挑戦的問いかけを提起している
⑦多元論者に共通なのは、教義面より経験面、概念より現実そのものに関心を向けることである

 このように、宗教的多元主義批判の中心はその相対主義的思想への批判にあるようだ。⑦のように言わずもがなの論点もあるが、多元主義批判は結局相対主義批判が中核である。ここから先は神学というよりは哲学の領域に議論の場は移っていくのであろう(6)。



1 WCCとは World Council of Churches のこと。世界的なエキュメニカル組織で、世界中のプロテスタント、正教会、東方教会、聖公会、ルター派、改革派など主要な宗教・宗派が加盟している。カトリック教会はメンバーではないが密接な関係を保っているという。日本キリスト教協議会(NCC)はメンバーのようだ。
2 ここは名前がメンションされただけで説明は無かった。英語版やドイツ語版のWikipediaで調べることはできる。どういう趣旨でこういう人たちの名前が挙げられているのかはわからない。
3 記事には、斉藤末弘「遠藤周作 深い河 について」 『福音と宣教』1999年7月号所収を参照、と注記されている。
4 谷口幸紀師のブログ「続 ウサギの日記」。遠藤批判は、
https://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/a1299d674579bef4627a14bc942bafc7
 これは、NHKの「心の時代~宗教・人生~」というテレビ番組の「遠藤周作没後25年 ー 遺作「深い河」をたどる(前編・後編)」を批評するという形で遠藤批判を展開しているものだ。流れは田川健三の遠藤周作批判を批判的に引き継ぐというものになっている。主な主旨はこうだ。「どうして遠藤のこういう『愛の無力さ』のイデオロギーが現代日本では俗受けするか、ということである。こういう退廃した思想がはやるのは、現代日本の大衆社会の病的状態の一つの兆候であろう。」
私は谷口師の新求道共同体の道での活動には敬意を表するものだが、師のこういう遠藤批判が何を意図しているのかがよくわからない。ちなみに谷口師はわれわれカト研の先輩と聞いている(名簿にはお名前は記載されていない)。
5 文章が翻訳調で少しわかりづらいが、そのまま転記している
6 相対主義 relativisim とは、辞書風に言えば、万人に共通の普遍的な真理(価値)は存在しないという考え方。哲学では認識論的相対主義と倫理的相対主義を区別するようだが、真理や価値が人間の側の視点に依存するという立場も相対主義の一つとみなされるようだ。相対主義の対極を普遍主義とよぶなら、包括主義は普遍主義への志向を持っていると言えそうだ。日本の哲学入門みたいな概説書、例えば、『哲学用語図鑑』(プレジデント社)は、「相対主義は、現代では、一般的な考え方です」(032)と解説している。日本の哲学界ではこういう言説が一般的なのだろうか。

 

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