HAYASHI-NO-KO

雑草三昧、時々独り言

古い写真

2019-10-27 | 過去ログ

来週火曜日から暫く更新を中断せざるを得なくなった。
撮り集めた画像は、ほぼ10日以内には整理しているのだけれど
整理そのものが滞ることになるので中断する。
ただ数日の猶予?もあるので、整理中の古い写真から
何枚かを上げておこうと思う。
もとより、画像そのものが古いネガフィルムからのスキャンだし、記憶も遠いから的確な説明は出来ない。
高校時代に始めた写真の大半は、個人蔵では無く学校に残したから
風景写真は何枚かしか残っていない。
ネガの状態で残していたものの多くも阪神・淡路大震災後の建物解体で散逸してしまったから
手持ちの多くはやはり鉄道写真以外殆どない。


▲ 昭和36年4月から39年2月まで、三年間登下校に利用した山陽電車。
現在では6両編成が走るのだけれど、当時はまだ200系15㍍車の2両編成が走っていた時代。
特急通過待ち合わせで山側ホーム4番線に待機の上り各駅停車。
当時、国鉄(現在のJR)も、山陽電車も高架化はされていなかったから駅の北側には大きな駅前広場、バスロータリーがあった。
車両は200系の中での異端児、姫路寄りは当時流行していた流線型だが、神戸寄りは半流線型。
三扉だったけれど、いかんせん非貫通車でおまけに短いから、国鉄払い下げの700系に順次置き換えられた。▼

▲ 横揺れの激しい200系では通勤通学時間帯の運用には全く不向きだったこともあって
時間によっては既に入線していた4扉貫通路付きの20㍍車700系に切り換えられた。
けれど、私たちはむしろ狭く横揺れの激しい200系を好んで使っていた気がする。


▲ 高校時代には公園で子どもの写真を撮り続けていたけれど、校舎や建物も記録として時折は撮っていた。
山陽電車人丸前駅からの徒歩通学生とは二つの建物の間にある通用門(と言っても、形のある門などなかった)を入った。
左が初代校長の名を冠した山之内記念図書館、右が音楽室等のあった三号館と呼んでいた古い木造校舎で前に自転車置き場。
西にはひろびろとした田園風景が広がっていたから、この建物からの夕日は絶景だった。
右奥には錦城中学校の建物も望めた。


▲ 図書館の南には家庭科教室があった。文化祭の折以外は、授業などでも立ち入ったことはないけれど
階段脇には校内で一番大きな金木犀が育っていた。
建物の南側には小さな池があったから、昼休みはそこで弁当を開くことも多かった場所。
建物の南に見えるのは、当時も明中池と呼んでいたため池で、池の畔にはポプラ並木もあり
かなり鬱蒼とした森の風情が残っていた。
昭和36年だったかに竣工した明石天文科学館も見渡せたし、その先には瀬戸の海が広がっていた。


▲ 大洋漁業の創業者、中部(なかべ)翁の名を冠した中部講堂。
左にはまだ現役で使われていた古い木造校舎が何棟も残っていた。
県の農事試験場や浄水場の給水塔もまだ健在だった頃で、学舎との境にはモクセイやカラタチの生け垣があったから
秋の実りの頃は物理・化学・生物教室にはカラタチの実が転げ回っていた。


▲ 古い木造校舎が現役で使われていた頃、校舎間の渡り廊下も当然木造だった。
右手はテニスコート、三棟あった校舎の一番北が生物教室、手前の右が物理教室
左が化学教室で、出入り口に近い辺りに化学準備室、その一角に写真部の暗室(暗室の明かり窓が見える)があったから
授業以外では一番長い時間過ごした場所になっている。


▲ 卒業式前日にも大雪が降ったけれど、これは別の日の画像、校舎屋上からの景色は一変した。
図書館右手にあった木造の三号館は、新校舎建設のために既に取り壊されていた。


同じ日の3年B組教室からの南望、天文科学館や淡路の島影がぼんやり見えている。
手前の大きな樹は、校内一のクスノキ。


以下は、ネガホルダーから適当にスキャンしたもので、全数スキャンが完了した後には
国鉄・私鉄別種別にも整理しておきたいものが多い。
以前、ポジからスキャンした画像も当然含まれているのでどこかで整理しないといけないと思う。


▲ 「ゴハチ」と呼んでいた電気機関車の1号機と、お召し列車等を牽引するために葡萄色と呼ばれていた塗色のまま
だったEF5860号機。予備機として61号機も二色塗装はされていなかった。


▲ 「新快速」の前サボを付けて走っていた初期の車両は、153系2扉車を白地に薄水色の「新快速」塗色にしたもの。
大阪~京都間では、在来の特急と競うスピードランナーだった。
右は、快速電車運用の113系快速電車で、まだ冷房装置未搭載だったから大きな差があった。


▲ 走行中の優等列車群は余りカメラに収まっていないのだが、大阪駅では発車直後のものが撮れるので
何枚かの画像が残っている。
151系の流れをくむ161系とその後に山岳路線などにも供する目的で製造された181系、交直両用の481系等など
様々な形式が走りまわり始めたけれど、私自身は少しずつ「鉄ちゃん」からは遠ざかり始めていた。


▲ 481系 交直流電車として登場当初は50Hz用と60Hz用の区別として、ボンネット下部での色分けがあり60Hz用は「赤いスカート」と呼んでいた。
その区別からすればこれは50Hz用クハなのだが、いつしか塗色での区別も無くなった気がする。





▲ クハ181とき クハ481雷鳥 仕事で出掛けた新潟駅で


▲ 岡山駅西の電留線で撮った181系時代の「はと、つばめ」。この「はと」と「つばめ」も新幹線岡山延伸後はより西に始発が移った。


▲ 「鉄ちゃん」時代の最後半、新幹線岡山延伸当時、旧形電車ばかりを撮していたから、宝庫だと思っていた岡山には何度か出掛けた。
ネガの中には当然のごとく、優等列車群も入っている。


▲ 旧形国電を追いかけていた頃、大阪環状線に接続するローカル線もよく訪ねた。
南の玄関口天王寺駅には阪和線が接続していた。
区間快速に60系旧形国電が堂々と使われていた。


▲ 学生時代の最後の夏には、山陰均一周遊券を持って一週間、貧乏旅行をしたことがある。
三年後輩が米子に住んでいたから、何度か訪れた米子機関区。
駅員に断れば、出入り自由だった当時、何度か機関区にも足を運んだ。
構内入替え用に8600が活躍していたし、優等列車にはC57、普通列車や貨物にはD51が使われていたから
機関区にはまだまだ蒸気機関車が集まっていた。



▲ 後にも先にも、この珍合造車の画像はこれ一枚切り。
オロハネ10形式車両は、比較的乗客の少ない列車に連結されたA・B寝台合造車。ロネ(A寝台)とハネ(B寝台)の合造車。
新造当初はナロハネだったが、冷房搭載して車体重量が増えたことでオロハネとなったもの。
北海道辺りでは夜行急行に連結されていたのだけれど、山陰本線夜行列車「さんべ」に使われていたと推測した。

▲ 国鉄時代、列車には1等、2等の等級があり、車両横にはそれを示す「帯」があった。
その後、等級の呼び名は1等車がグリーン車と変わり、帯は廃止された。
画像では左に見える車両にはまだ1等車(たぶんスロ54形式)を示す薄緑の帯が残っているが、
合造車の方は「A寝台」と書かれ、帯は無くなっている。


▲ こちらは気動車版の合造車でクモハユニ44800。トンネルの多い身延線だったか。
車番付与にはルールがあって、クは制御車(運転席のある車両)、モは電動車(モーターのモ)
ハは普通車(昔は1等車から順に3等車までイ、ロ、ハと振られ、等級廃止後のグリーン車にはロが振られた)
ユは郵便物護送車の意味(長距離では車内で郵便物の仕分けまでしていた)、ニは荷物車の意味なので
クモハユニで「郵便物と荷物を載せる場所のある運転台つき普通電動車」の意味になる。
クモハユニ44が、車両の形式番号、次の800が製造番号なのだが、800台も作られた訳では無く
トンネルの多い線路用に、従来の車両のパンタグラフ位置を低く改造したものには800台の番号を付して区別した。


▲ 写真仲間と広島に出掛けたのは新幹線が博多まで延伸される直前だった。
目的は博多延伸で消える列車を「セノハチ」で撮ることだったけれど、鉄道写真は期待したほどのものは撮れなかった。
「西の箱根」等と、鉄道趣味誌で喧伝されていた場所だから、大勢の鉄道ファンが訪れる場所だった。


▲ 「セノハチ」、国鉄瀬野駅と八本松駅の間は、急勾配の山岳路線、前後にこのEF59が補機として連結されていた。
私はのんびりと瀬野・八本松の線路際を歩き通した。
現在ではこの補機無しで走りきることが出来る程に各形式車両の出力は増えている。


▲ 新幹線岡山延伸開業の直前、まだまだ岡山にはローカル駅の風情があった頃
伯備線、因美線、宇野線、赤穂線のローカル運用車両を撮るには最適だった場所。
特に、分割併結が容易だったディーゼル車は、様々な形式が混結されていたから楽しみだった。▼



▲ 山陽本線京都・姫路間を疾走していた80系車両は全て113系に置き換えられていた当時
岡山口ではまだまだ健在でも中にはクハ86の三窓車も颯爽?と走り抜けていった。


▲ 電車急行(準急運用は無くなっていたか?)は、153系に代わって久しかったが
岡山口ではまだ153系の低窓、高窓ともに健在だったし、食堂車(サシ153)も営業していた。


▲ 鳴り物入りで登場した583系、寝台特急電車としての間合い運用で昼間の特急にも使われていた。▼



▲ 記憶に無い画像も次々と出てくる。キハ82系のディーゼル特急時代の「白鳥」。
非電化区間用に投入されたキハ80系ディーゼルは惨憺たる状況で急遽その後を次いで登場した。

to be continued



4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
鉄ちゃん (とんちゃん)
2019-10-28 13:26:17
ファンとしては古ければ古いほどよだれが出そうなほど見入ってしまうのではないかしら
鉄道の知識も相当なのでいつもすごいなって思いながら見せて頂いています。
分からずとも魅力がいっぱい詰まっているようで古い車両は格別!
昔の懐かしい思い出や風景等々瞬時によみがえってくるのでしょうね
そんな気持ちを胸にリラックスされて事に臨まれますように♪
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ありがとうございます。 (林の子)
2019-10-28 15:16:03
手持ち無沙汰…という言葉がピッタリ合います。
長らくお待たせしました…と、何人かに揶揄されています。
二ヶ月も延びたので、本当に手術するの??なんて言うのもいますが
何とか辿り着きました。
クラブ活動として撮っていた子どもたちの画像や、高校時代の学内風景などは
全部学校に残しましたが
古い鉄道画像は個人蔵でしたので、ポジの形で車両種別・形式別にまとめました。
ただやはり個人の趣味の範囲からは出ませんので残せるものはデジタル化。
記憶と言うのも、かなり曖昧にはなるのでしようが、
写真などがある限りは、繋げてみることは出来るかな、そう思っています。
昔の鉄ちゃんも、周りにはいなくなってしまいました。
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ふぁいと・ファイトです。 (こいも)
2019-10-28 21:48:38
林の子さん
木造の校舎や渡り廊下…自転車置き場にテニスコート・・・
たちまち学生時代に戻ってしまいました。
鉄道も見させていただきました。
長い歴史があるのですね。
今にはじまった訳ではありませんが
見させていただきながら
林の子さんてただただすごいな~と思います。
お帰りを心よりお待ちしております。
ふぁいと・ファイトです。
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撮りためた画像。 (林の子)
2019-10-28 23:25:10
大半はやはり高校時代の写真部の時のものがベースですが
一番熱心にフィルムを使った子どもたちの写真は、部活での作品なので個人所有出来なかった。
中学時代に、写真家・土門拳さんの「筑豊のこどもたち」に触発されて
高校に入って始めたのが写真だったので今でもその頃の画像があればなぁ~と
残念に思います。
その反動みたいなもので、個人写真の大半は、無機質な鉄道写真ばかりです。

今は、またまた反動?で、違った視点の雑草撮りですから、
やはり好みは変わって行くものだと熟々感じています。
暫くは季節の花にも出会えない生活になりますが
寒くなる前には復活したいですね。
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