私は58歳
振り返ってみれば、私の反抗期は35歳。正確には隠れ反抗期が35歳まで続いた。
随分と親不孝したものだと思う。
今は反省を込めて、大事にしたいと思う
よく"孝行したいときに親はなし"と言うけれど、その時間が残されていることに感謝している
反抗期が長引いた理由は、きちんとぶつからなかったから。
正確には、母には受け止めてもらえないと思っていた。曾祖母っ子の私は、一次反抗期の3歳ぐらいから、親に対する本当の気持ちをずっとくすぶらせてきた。
不気味で可愛くない子どもだっただろう。
小学校に入る頃には
お母さんのような人生は歩まない
お母さんのような人にはなりたくない
と本気で思っていた。
私にとって、母はかわいそうな人で、守ってあげなければいけない人だった。
妹のように甘えたかったけど、できなかった。妹と母で私のことを"ひがみちゃん"と呼んでいたそうだ。(親子喧嘩の時に知った)
22歳で結婚してからは、
一切母には頼らない
私は自分の家庭を作ると決めた
そんな私を母は
結婚するまでは、いい子だったのに結婚してから人が変わった。だから相手(主人)が悪いとよく言っていた。
でも、その「いい子」と言うのは、「都合がいい子」だったと思う
35歳の時本心をぶつけあって
母も寂しかったのだとわかった。
きっかけは、私の病気
35歳の時、春頃から微熱が続き、夏頃には40度から下がらなくなった。6月に入院の指示が出たけれど、解熱剤でしのぎ夏休みまでなんとか伸ばしてもらった。
当時子どもは小学校の1年、3年、6年生
1997年 神戸連続児童殺傷事件のあった年
PTAの地区委員をしていた。区は違えども近隣で起きた事件のため、子ども達を守るために日々の登下校の見守り、パトロール等忙しかった
我が子も含め、よその子お世話も加わりストレスは半端なかった
全てを丸抱えしてしまう性格だった
栄養ドリンクと解熱剤使いながら、送迎の同行をしていた
(今はなぜそんなことしたのか不思議)
ストレスは万病の元
この時の病気が、後に膠原病を発症させてしまった。自業自得
母には頼らないと決めて意地を張り、夏休みまで頑張ったけれど、ギブアップ
回復するどころか、悪化させて強制入院
主人も胆石悪化させて手術の為入院。でも私の心配で肝臓まで悪化させて即手術できない状態。まさかの夫婦W入院
いきなり子ども3人託されて、混乱した母に罵倒された
母とぶつかりあったのは、退院した後
2学期も始まり、主人の手術の前日
子ども達を送り出し
水入らずになった途端、
お互いに疲れMAXで、取り繕う余裕なし
親子二人の大喧嘩
終いにはお互いに泣きながらの訴え(笑)
それが良かったのだと思う
自分の溜め込んだ思いを吐き出し
母も私に対する思いを吐き出し
やっとお互いに理解できたような気がする
血の繋がりって不思議
他人なら切れてしまうような台詞でも、水に流せてしまえる
むしろすっきり憎しみが消え、愛しさが増した
病気しなければ、分かりあうことも無かっただろう
主人は反抗期ないまま、義母を見送った。未だに許せない部分があるようで、気の毒に思う
親の想い、子の想い
愛情があっても微妙に食い違う事もある
いや、親子だからこそ食い違うのかもしれない
両親とは、我慢せず語り合える間柄にやっとなれた
長女は今年35歳。長男32歳。末娘30歳になる。私が反抗期を卒業した年。
いい年のオッサンオバサンになったものだ
反抗期らしい反抗期があったのは末娘のみ。
長女とは辛い経験をきっかけに、クリアしたと思うけれど、息子はまだ。主人と同様に反抗期がない。
父も反抗期がなかったように聞いている
ずっといい子だったと祖父母は言っていた。そうだろう…父はいろいろな事を我慢して生きてきたと思う。
父は長男だけど、祖父母との距離は遠いように思う。私と祖父母の方がきっと近い
そして父も曾祖父母との距離の方が近い
親子は繰り返し
男の子はクリアしづらいのかもしれない
息子とも何かきっかけになる事があるだろう。でもそれが辛いきっかけなら、なくてもいいとも思う。
みんなが幸せであればそれでいい