世界一周の記録

2006年8月から2008年9月まで2年1ヶ月の世界一周放浪の旅をしていました。その旅の記録です。

瞑想修行の日々<中編>

2008年03月01日 20時12分26秒 | アジア
○瞑想修行の日々<前編>からの続きです。できれば前編を読んでから読んでいただけると内容がわかりやすいと思います。

◆2月18日<五日目>

午後三時までは鼻の下の小さい部分に集中しました。この後、ヴィパッサナ瞑想が待っているので自然と気合が入ります。連続して集中できる時間は、さらに長くなりました。

午後三時に夜の講話の時と同じく日本人だけ別室に集まって日本語テープでヴィパッサナの瞑想法を教えてもらいました。呼吸に集中していたのを、体の感覚へと集中する対象を変えるのだそうです。頭のてっぺんから始まって、顔、腕、手、喉、体の前面、背面、脚、そしてつま先まで順番に体の感覚を感じ取っていきます。ここで感じる感覚はなんでもいいのです。痛み、痒み、熱さ、冷たさ、ちくちく、重い、軽い、不快、心地よい、などなど。頭や顔や手など簡単に感覚を感じられる場所もあれば、体の前面など全然感覚を感じられない場所もあります。しばらく待って感覚が感じられない場合は、衣服や空気と接触する感覚を感じて次の場所へと移動します。今までの一箇所だけに集中することに比べると、体全体の感覚を順に見ていくと言うのは変化があって時間が過ぎるのが速くなりました。体って普段は気付かないけど、こんなにもなんかしらの感覚を感じているのか、と新鮮な発見もあります。

翌日から、朝の8時から9時、昼の2時半から3時半、夜の6時から7時、の三回の瞑想では、1時間の間は目を閉じ続け、腕と脚を動かしてはならないという「決意の時間」というものになるのだそうです。今まで同じ姿勢でいるのは最大で20分だったのですが、大丈夫なんでしょうか・・・?

この日の夜の講話では、さらに僕のやる気をそぐような話がありました。輪廻転生の話です。
「この世は苦しみに満ちていてる。生きると言うことは苦しみだ。しかも、その苦しみは輪廻転生を繰り返すことにより、来世にまでも受け継がれる。しかし悟りを開き、涅槃に達することができれば、そこで生命の連鎖は終わり輪廻転生は終わる。そうすることが人生の究極の目標だ。」
話の最後に輪廻転生の考えを信じる信じないは瞑想には関係ないと言われたけれども、僕は輪廻転生については否定も肯定もしないけれども、「人生は苦しみに満ちている。この瞑想をすることだけが唯一の救いの道だ。」みたいな論調には嫌気がしました。この瞑想を経験しなくても、幸せな人生を送って死んでいく人もいるだろうに。僕のこれまでの32年間の人生さえも否定されているような気もします。別に苦しみなんかには満ちてはいないし、結構楽しく生きてきたというのに。再度、瞑想なんかやめてカトマンドゥへ戻りたい気持ちが激しく沸いて来ました。でも、「心の深い手術」はもう始まってしまいましたし、自分でも心の深い領域までメスが入ってしまっていることをなんとなく実感として感じています。受け入れられること、受け入れられないこと、いろいろあるけれども、少なくともこの12日間は素直に教えを聞いて、瞑想修行に真剣に取り組むことにしました。疑念を持って瞑想をしていても、きっと何も得られないと思うので。

◆2月19日<六日目>

まず朝の2時間の瞑想です。この後に待っている「一時間体を動かしてはいけない時間」に備えて、自分がどれくらい動かずに座っていることができるのかをテストしてみます。まず、頭から足のつま先までの意識の移動にどれくらいかかるのかを計ってみました。初めは慣れなくて時間がかかり30分、2回目、3回目、は20分でした。ということは、頭からつま先まで3回通しで感覚を感じれば1時間経つことになるということです。ヴィパッサナをしているとアーナ・パーナに比べると長時間座っていることがそんなに辛くなくなりました。30分くらいは、あっという間に過ぎます。試しに1時間姿勢を変えずに座ることにテストの意味で挑戦してみると、しんどくはあったけどなんとか1時間持ちこたえることができました。やればできるじゃないかと結構自信がつきました。

そして、朝食後の初の「決意の1時間」。事前に計っていた通り、3回頭からつま先まで感覚を移動していると予定通り1時間が経ちました。最後の方は、かなり足が痛く、体も疲れていたけど、なんとか、こなすことができました。多少、脚や腕は動かしたけど、脚を組み替えるとかをすることなく1時間座れました。きっとこの後は慣れていって楽になる一方だろうとこの時は思いました。

しかし、その考えは甘かったのでした。次の「決意の1時間」で地獄を味わいました。3回頭からつま先まで意識を移動した後も全然瞑想が終わる気配が無いのです。3回目が終わった時に一旦気が抜けたので脚の痛みがどんどん激しくなっていきます。息も荒くなり、もう感覚に集中することが困難です。脚の痛み以外何も考えられなくなってきます。しかし、気力を振り絞り4回目の意識の移動を始めましたが、瞑想はなかなか終わる気配がないです。自分の中ではもう1時間20分くらい経っているはずなのに。この頃には先生が時間を忘れてしまっているんじゃないか、という疑念で一杯になっています。
「くっそー、せんせーよー、もう1時間とっくに過ぎていると思うんやけど、どうなってんの?ちょっとええ加減にしてや。はよ、終わりのお経を流さんとあかんで。」
ちなみに終わる時は、終わりの5分前くらいからお経が流れ始めるのです。まだお経が流れ始めていないので、少なくとも最低後5分は頑張らなくてはいけないのです。苦しい。苦しい。苦しい。脚は痙攣し、目には涙が溜まってきました。もう感覚を感じる余裕なんて一片たりとも残っておらず、瞑想なんてもうどうでもよく、「1時間脚を動かさないでいられるかどうか」という自分との勝負だけが残っていました。実は腕はもうすでにかなり大胆に動かしているので(爪が食い込むほど膝を掴んだり、拳を握り締めたり)、残るのは脚を動かさないかどうかということだけなのです。その状態でしばらく耐えた後にようやくお経が流れ始めました。
「アニッッッチャーーーー、ナントカカントカーーーー」
半ば放心状態でお経を5分くらい聞き、ようやくこの拷問から開放されました。時計を見るときっちり1時間だけが経っていました。姿勢を崩し、体操座りになり、呼吸を整え、しかし5分くらいはしばらく動けませんでした。はっきりいって瞑想をなめてました。こんなに辛いものだったのか。。。

この後の6時から7時の回も、同様に脚の痛みとの戦いとなりました。自分の中では、瞑想修行というか我慢大会に近くなってきています。いつか痛みを感じなくなる時が来るのでしょうか。本当にやって来るのでしょうか。心配でなりません。

この日の夜、テープでたまに流されるお経の意味があまりにも気になったので先生に質問しました。(瞑想技術のことに関してだけ、先生との質疑応答がゆるされているのです。)
ネパール人達は意味がわかっているのか、お経の最後に「サードゥー、サードゥー、サードゥー」と言ったりしているのです。なんなんだ?講話ではブッダの教えを長々と聞かされるし(とても意味のあるありがたいお話ではあるけど)、意味のわからないお経は流れるし、自分で自分を仏教徒だと思ってはいるけど、純粋に瞑想技術だけを習いに来ているので、この宗教色の濃さに少し違和感を感じ始めていたのです。

「瞑想中にテープで流されるお経の意味がわかりません。いったいどう理解すればいいのですか?」
「気にすることは無いです。これはグッド・バイブレーションやグッド・アトモスフィア(良い雰囲気)を作るためだけのものだから。気にせず修行を続けなさい。」

そうかあ、グッド・バイブレーションにグッド・アトモスフィアかあ。そういえば、あのゴエンカさんの低く渋い声で歌を歌うように唱えられるお経は、心を落ち着けて、瞑想への集中を増すのに良い効果があるのかも。そう思うと心が軽くなりました。明日からの修行がんばるぞ、と思いながら床に就きました。

◆6月20日<七日目>
この日から感覚を感じる意識をつま先まで動かした後、今度はつま先から頭のてっぺんへ動かしていくというように少しマイナーチェンジがありました。

相変わらず1時間座っているのはきついです。拷問のようです。なのでこの日から座り方を色々と試して、できるだけ足が痛くならない座り方を見つけるように工夫し始めました。その甲斐もあって昨日よりは多少ましになって来た気がします。

数日前休憩時間に談笑していたネパール人が、この日からいなくなりました。脱走したのだろうか。

夜の講話で、悟りを開き涅槃へ至った人は痛みを感じることがなくなる、という話を聞きました。どんな痛みを感じようとも微笑んでいられる、と。そんなことがありえるのだろうか?例えばブッダは腕を切り落とされたとしても、痛みを感じずに微笑んでいられるのだろうか?もし、今現在に悟りを開き涅槃へ至ったという人がいるのならば、是非聞いてみたい。我々の先生であるゴエンカさん(テープで声を聞くだけだけど)は、果たして悟りへ至っているのだろうか。

講話の中で、ブッダの時代の聖人の話が何度も出てくるのですが、ブッダの弟子には何人も涅槃へ至った人がいたそうです。そしてブッダが現れる前にも何人もいたのだそうです。そして涅槃へ至った人はみながブッダなのだそうです。つまりブッダは一人ではなく何人もいるのだそうです。このヴィパッサナの修行をすれば、誰でもいつかは涅槃へ至れるのだそうです。


◆6月21日<八日目>
ついに8日目。後半戦という感じです。僕はまだ何も得ていないので(強いて言えば長時間座る我慢強さくらい)、少し焦ります。もっと瞑想に集中しようと朝から気合をいれます。

今まで右腕が終わってから左腕を観るというように左右を別々に観察していたのですが、この日から左右対称に同時に感覚を観察するように言われます。右腕も左腕も同時に観察します。今までよりも深い集中力を要します。

この日も6日目、7日目と同様に我慢大会のような時間が続きました。朝、昼、といつものように瞑想をし、15時半からの1時間半の瞑想の時に、変わったことがおきました。誰かがオナラをした時に、ネパール人たちの間で笑いの波が起こったのです。プーーーーーッというきれいな甲高いオナラの音の後、誰かがクスクスと笑い出し、そうしたらまた別の人も噴出し、そうしたらまた別の人が笑って咳き込み、どんどんとその波が広がっていきそれが数分間も続きました。何人かはアシスタント講師に外へ連れ出されて外で大爆笑していました。それまでも、みんなプッププップーとオナラをしまくっていたのに、なぜこの時だけそんなにツボにはまったのだろう?僕は全然面白くなかったのだけれども。おかげで、この出来事の後、自分がオナラするときにちょっと緊張するようになってしまいました。

そしてお茶休憩があり、この日最後の「決意の1時間」が来ました。前日までと同様に朝は楽だったのですが、昼と夜はきついです。この時も相変わらずの脚の痛みと戦っていました。しかし、40分くらい過ぎて脚の痛みがピークになりかけたころ、脚の痛みが気にならなくなり始め、その時、突然ヴィパッサナに対する深い理解が訪れました。”無常”に対する理解です。脚の痛みが消え、それまで頭に浮かんでいた雑念が消え、ただ”万物は無常である”という事実だけが感覚として残ったのです。心も体も突然軽くなったような気がしました。そして、この時、初めて僕はヴィパサナ瞑想は真実であり、ブッダの教えも真実である、と心から信じることができるようになったのです。今までの講話は右の耳から左の耳へ聞き流していたのですが、思い返してみると全てが真実だったのだとわかってきました。もちろん輪廻転生についてまでは、理解はできないのですが、ヴィパサナ瞑想がなぜ心を浄化するのかが、その仕組みが、わかったような気がしたのです。今までは「ふーん」という感じで聞き流していたのが、自分が自分の体内で体験して、ついに理解することができたのです。

僕がこの日理解したそのヴィパサナ瞑想の仕組みとは、だいたい以下のような感じです。
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1.人間の苦しみとは「嫌悪」と「渇望」であり、それらは表層意識のさらに奥の潜在意識の中で生まれたり蓄えられたりしている。不快な感情や感覚は「嫌悪」として表れたり蓄えられたりし、心地よい感情や感覚は「渇望」として現れたり蓄えられたりする。人間の行動習慣は、それらの心の奥底に蓄えられた「嫌悪」と「渇望」をエネルギーとして表れる。例えば、「嫌悪」が多く蓄えられている人は怒りっぽいとか、「渇望」が多く蓄えられている人は執着心が強かったりとか。

2.潜在意識で生まれる「嫌悪」と「渇望」は、体の感覚として現れる。また心が感じた感情も体の感覚として現れ、それが「嫌悪」か「渇望」へと姿を変えて潜在意識の中へ蓄えられる。

3.体の感覚として現れた「嫌悪」や「渇望」は、それに対して反応することなく、何も感情を抱くことなく、ただ平静な心で観察し続けていれば、いつか消える。そうすることによって、新しい「嫌悪」や「渇望」を今以上に潜在意識の中に増やすことが無くなる。

4.さらに新しい「嫌悪」や「渇望」が生まれてこなくなると、潜在意識にたっぷりと蓄えられている「嫌悪」や「渇望」が少しずつ体の感覚として現れ始める。それに対しても平静な心で観察し続けていれば、それもいつかは消えてしまう。

ヴィパサナ瞑想では、上記1~4を自分自身が体験することで理解し、3と4を瞑想により実践し続けることで、現在の心の平静を得て、さらに過去に自分で作った行動習慣が正されていく、ということが瞑想の効果です。

5.さらに、「全てのモノは生まれてはすぐに消える」ということを理解することによって、自我がなくなっていくという効果もあります。

肉体も心も、無機質な固いものも、全て構成しているのは、突き詰めていくと、物質でもなく原子でもなくさらに小さい「振動」というモノなのです。ブッダは自分の体の感覚を探っていくことで、この原子よりもさらに小さい単位の「振動」を発見したのだとか。

もちろん、悟りを開き涅槃へ至るためにはもっと深い理解と実践が必要になりますが。。。
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多分、これを読んでいる人には上記の説明は何のことかきっとわからないだろうと思います。途中から読み飛ばした人もきっといるでしょう。僕も夜の講話で話を聞いているだけではさっぱり何のことかわからなかったですし、講話の途中で別な妄想に入ってしまったりすることもありました。でも、今日まで8日間修行を続けて、自分の体の中で実体験として体験できたことで、なんとかある程度までは理解できるようになりました。(または理解したような気になっただけなのか)

この日から、夜の講話も素直な心で聞けるようになりました。今までは「くどいなあ。ええからはよ終わってや。」と思っていたブッダにまつわるありがたいお話も、苦痛に感じるのではなく、喜びの心で聞くことができるようになりました。

心と体がとにかく軽いです。明日からの瞑想が楽しみになってきました。

瞑想センターの中庭。昼休みはここで昼寝。


○後編へと続く

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2 コメント

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Unknown (さいとう)
2008-03-03 14:33:10
この6日目の我慢大会みたいなところおもしろすぎる-
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Unknown (しんいち)
2008-03-15 19:45:36
今は笑って話せるけど、あんときはきつかったなーーー(涙目)。
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