旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

霍去病

2017年04月07日 20時18分11秒 | エッセイ
霍去病

 霍去病(かくきょへい)、この青年の死は2千年の時を越えて悔やまれる。彼には夭逝した人特有の透明感があり、その颯爽とした武者振りは漢字の羅列である史書の行間からも伝わる。思えば彼が活躍した短い年月は、帝国全体が希望に満ち栄光に彩られていた。漢はその領土の最大限に到達した。もう北からの異民族騎馬隊の侵入は無くなったのだ。
 時代は紀元前、漢帝国第7代皇帝の武帝(前156~前87年)は16歳で即位した。呉楚七国の乱により有力な封王が倒れたため、武帝は始めから中央集権を目指すことが出来た。諸侯王が自分の領地を子弟に分け与えて列侯に封建するのを許し、諸侯王の領土を細分化させた。先代、文景の治により国庫には金銀財宝が積み上がり、食糧庫は溢れんばかり。武帝は儒教を官学とし、新しい官吏任用法を採用して地方郷里から才能ある人物を登用した。
 そして宿敵匈奴への反攻作戦を画策する。漢帝国の創始者である高祖劉邦が冒頓単于に敗れて以来、漢は匈奴に対して屈辱的な低姿勢を採り続けてきた。武帝は第一段階として、敵の敵との同盟を模索する。月氏は匈奴に敗れて西に敗走した。王はそのシャレコウベを杯にされたと云う。武帝は月氏と同盟を結び匈奴を挟撃することを模索した。武帝の命により、張騫(ちょうけん)は使者として100人の随員を引き連れて大月氏の国を目指した。
 しかし張騫一行は、漢の勢力圏を出た途端に匈奴に捕えられた。匈奴の軍臣単于は、張騫の目的を知ると言った。「月氏は我々の北にいる。どうして漢はそこへ使者を送れるか。もし我々が漢の南の越への使者を出したら、漢はそれを許すか?」単于は張騫を十数年に渡って拘留したが、張騫の勇敢さに感銘を受け、妻を与え子供が生まれた。そんな張騫を見て、もう逃げ出さないだろうと監視を止めた。ところが張騫はその時を待っていた。
 匈奴の地から脱出した張騫は、西に数十日馬を走らせ大宛(フェルガナ)に至る。ここの王の歓迎を受け、更に西行して大月氏の国にたどり着いた。大月氏は匈奴に追われて北に逃げた後、烏孫にも追われて更に西に逃げていた。月氏の王に漢との同盟を説いたが、月氏王は受け入れなかった。月氏が逃げてきた地は、物産が豊かで周りに強敵は居らず中継貿易で大いに栄えていた。今さら匈奴への復讐などは考えられなかったのだ。
 失意の張騫は、崑崙山脈を伝ってチベット系の羌族の支配地を通るが、またしても匈奴に捕えられる。しかし1年程して軍臣単于が死去する。それに伴い匈奴が内部対立を起こしたので、その隙を突いて脱出。紀元前126年に遂に漢へ帰還した。出発時の100人余の随行員は、この時2人になっていた。妻子は同行したのだろうか。同盟はならなかったが、張騫が持ち帰った西域の知識は、極めて貴重なものであった。
 若い日に使者を派遣した事をすっかり忘れていた武帝は、張騫の報告を目を輝かせて聞いた。特に「血のような汗を流して走る馬」汗血馬が大宛に居るという話に注目した。中国の馬は痩せて非力で、とても重装備の兵士が跨って戦うことは出来なかったのだ。これでは遊牧騎馬民族の動きを止められない。歩兵隊では守ることは出来るが、攻勢は採れない。武帝は外交交渉で大宛から名馬を手に入れようとしたが拒絶され、2度の遠征軍を送って多数の名馬と3,000頭の繁殖用の馬を得た。この種馬を飼育して繁殖した事により、やっと匈奴に対抗出来る騎馬隊を組織することが出来た。
 李広利将軍による大宛遠征は、苦労の連続であった。大宛は遥かに遠く、補給は途絶え一回目は失敗した。武帝は激怒し、「玉門関より中に入るようなら斬る」と命令したため、李広利は敦煌に2年留まった。2度目は精兵6万、牛10万頭、馬3万頭、ロバ・ラクダ1万頭余に軍の糧秣を運ばせ、これに加えて18万の部隊が後方を支援した。大宛は降伏して良馬を奉じたが、帰路過酷な道のりの為に玉門関にたどり着いたのは、1万余の兵と馬千頭になっていたと云う。しかし武帝は汗血馬を得た喜びのあまり「西極天馬の歌」を作らせて「天馬」と汗血馬のことを褒め称えた。
 なお張騫は、蜀(四川)から雲南→ビルマを経て身毒(インド)へと繋がるルートがある事を武帝に告げ、雲南を支配下に入れるよう進言した。だが武帝はこちらには興味を示さなかった。漢がこの方面に遠征していたら、歴史は違ったものになったかもしれない。
 さて汗血馬だが、本当に血の汗をかく馬がいたんだろうか。汗血馬は一日に千里(約500km)を走ると言われる。現存するアケール・テケ(アハルテケ)という品種はとても丈夫で、汗血馬の子孫ではないかと思われている。汗血馬のいわれは「王の血統の馬」というもの。馬の毛色によって、汗を流した時に血のように見えたというもの。寄生虫の寄生によって滲んだ血液が「血を流す」ように見えたというもの(この寄生虫による能力の低下はあまり無い)。諸説あるが、この馬の入手なくして対匈奴戦の攻勢は無かった。武帝が喜んだ訳だ。汗血馬は切り札の新兵器だった。

 さて霍去兵の活躍を見てみよう。だがその前に武帝の後半生を書いておく。武帝は霍去病の死を痛切に悼んだ。同性愛を疑うほどだ。彼の死によって性格が変わってしまった。祁連山から巨石を取り寄せ、自身の墓所の隣りに霍去病の壮大な墓を築いた。だが武帝の輝かしい治世は、霍去病の死と共に終わりを告げた。霍去病の死後、武帝には良い事は何一つ無かった。政事は顧みられなくなり、外征や贅沢により国庫は空になった。その解決のために塩鉄の専売、増税、貨幣改鋳を行い、その負担により流民化する民衆が増え、各地で反乱が起こり盗賊が横行した。それを厳しく取り締まったため、厳罰主義が更なる混乱を生んだ。罰を恐れた地方長官は、盗賊の横行や反乱を朝廷に報告しないまま放置するようになった。負の連鎖は更に続く。迷信深くなった武帝は、誰かに呪われているという強迫観念を募らせ、皇太子を始め無実の人々を追いつめていった。
 このように武帝の治世の前半と後半では、ポジとネガのように正反対の生涯を送った。その前半の栄光の頂点を彩ったのが、霍去病の活躍であった。だが武帝が最初に対匈奴戦に抜擢したのは李広将軍だった。李広は、前皇帝である文帝と景帝に仕えた武勇に優れた将で、匈奴から怖れられ「飛将軍」と呼ばれた。景帝の代では、呉楚七国の乱を鎮圧する功績をたてた。
 しかし武帝の代になり、しばしば匈奴と戦うがよい戦果を得られない。一度は捕虜になり、自力で脱出するが罪を問われ平民に落とされている。そこで武帝が次に登用したのが、不良青年・衛青で、これが中った。李広は平民から徐々に復活を遂げていたが、高齢を理由に匈奴攻撃から外されそうになった。李広は猛抗議をしてようやく参戦が許された。しかし搦め手の軍に廻され、道に迷い戦いに遅れてしまった。本隊の代将軍、衛青が報告のため李広の部下を詰問したところ、李広はこれも天命、だとして自吻した。部下も民衆も李広の死を聞いて皆涙したという。
  李広は清廉な人物で、泉を発見すれば部下に先に飲ませ、食事は下士官と共にし、全員が食事を始めるまで自分の分に手をつけなかったという。李広の孫が李陵、後で出てきます。五胡十六国時代に西涼を建国した李暠は李広の子孫で、唐代の詩人李白は李暠の末裔だという。
 では次に衛青とはどんな人物だったのだろう。霍去病は衛青の甥っ子である。衛青は地方豪族が、美貌の衛という女性(婢)に生ませた子であった。衛は生まれた女の子は手元に置き、男の子をこの豪族に家僕として売りつけた。衛青は正妻の異母兄弟からさんざん苛められ、父親から虐待されて育った。実の子なのに家僕とは酷い。シンデレラの男版だな、これは。衛青は家僕として北方で羊牧をしている時に匈奴と接し、彼らの生活や習慣、馬の扱い方を学んだ。この経験が後に大変役にたつ。
衛青が世に出るきっかけは、彼の姉であった。武帝の姉さん、平陽公主の屋敷で働いていた彼女は絶世の美女で、武帝の目に留まり寵愛を受けることになった。衛家の血統は美男美女なのだ。武帝の寵姫となった姉は、弟を平陽公主の使用人とし武帝に推薦する。武帝は試しに匈奴征伐に衛青を使ってみると連戦連勝、匈奴の首を数万討ち取り領土を広げた。プロフェッショナルな職業軍人が成しえなかったことを、アマチュアの不良青年がやってのけた。若い日の武帝には人を見る目があったのか、偶々なのか。しかし衛青に軍事的な才能があったことは、歴史が証明している。負けなしだった。
衛青はたちまち出世して、大司馬・大将軍となった。それでも衛青は、政治には口出しをしなかった。召使い時代の苦労が身に浸みているので腰が低く、将軍になっても威張ることなく、兵卒にも気軽に接した。また下級兵士のことをよく考えていた。その衛青の、別の姉の子霍去病は違った。霍は物心ついた時には既に一族は外戚(皇后、愛人の親戚)であった。霍去病は傲慢で、兵士たちが飢えている時でも、自分は豪華な幕舎の中で宴会を開いた。
衛青は自殺に追い込んでしまった李広に負い目を感じていたようだ。衛青は、李広の息子の李敢に殴られたが、それを黙っていた。しかし霍去病がそれを聞きつけて怒り、狩場で事故に見せかけて李敢を射殺した。霍去病が戦場に出ると、武帝は次々に高価な贈り物を届けた。その中の食物は余りの量に腐ってしまったが、霍去病は兵に与えようとはしなかった。意地が悪い訳ではない。気が付かないのだ。天真爛漫、無邪気といっても良い。馬鹿ボンボンとも言える。
それでもここが不思議なのだが、兵からも民衆からも好かれたのは断然霍去病で衛青ではない。気配りの人衛青が、皇帝にこび売って卑屈だと見られ、若いのに傲慢な霍去病が好かれる。全く人気というものは不思議だ。人間心理の不可思議な仕組みは、今も2千年前も変わらない。武術をたしなみ18歳で高級士官として宮廷に入った霍去病を、武帝は寵愛した。外見もあるよな。よほど美しい青年だったのだろう。
或る時、武帝が霍去病に孫氏の兵法を教えてやろうかと言うと、霍去病はこう言った。「戦はその時々の戦況に臨機応変に対応するものだから、兵法など必要ありません」 兵站に万全を期し、常に偵察を怠らず、兵法に通じ兵の健康を気遣う将軍がちっとも匈奴に勝てず、何も考えないで突っ走る霍去病が未曽有の大勝をする。補佐役に優秀な人材がいたんだろうな。
霍去病は戦場で蹴鞠をするため、疲れて空腹な兵を使いフィールドを作らせた。おかしいじゃないか。世の中不公平だ。だが2千年前もそんな物だった、世の中は。ブツブツ不平を言う兵も、しょーがねーなー大将は、本音は格好良くて威勢の良い若大将が大好きだ。何といっても勝ち戦さなのだ。戦さは勝たなきゃ。霍去病の戦さは機動戦だ。匈奴を上回るスピードで、まっしぐらに敵の本拠地を目指し、何のためらいもなく全力でぶつかる。この単純な戦法が見事に嵌った。
 19歳かそこら、最初の本格的な遠征で匈奴の折蘭王・慮侯王らを葬り、8千余の首級を挙げ長駆小月氏の国にまで攻め入った。この快進撃で匈奴の有力者。渾邪王が漢に投降した。その2年後、霍去病は衛青と共に匈奴の本拠地、祁連山を突いて敵を壊走させた。この鮮やかな勝利で、匈奴の勢力はぐんと後退した。西域諸国は漢に靡き、漢軍は西域に進出して駐屯するようになった。
 ところが軍神とまで崇められ、大将軍となった霍去病は、大勝利の3年後にあっさりと病死してしまう。名前は「病を去る」なのに。何の病だったのかは分からない。ただ一行、「病死した」と。
 衛青は霍去病の死後も10年ほど生き、大将軍であり続けた。昔の主人である平陽公主(武帝の姉)と結婚する。昔の召使いを婿に勧められた平陽公主は大層嫌がったが、彼女に見合う功績・人格・位のある男は衛青の他にいなかった。年は召していたが、昔の女主人を嫁にするのは、衛青からしたら隠微な喜びがあったのではあるまいか。

 さてキリストさんが生まれる以前の出来事が、これほどリアルに分かるのは文字で記録が残っているからだ。正史は斑古の『漢書』、人物伝は司馬遷の『史記』に詳しい。司馬遷が『史記』を後世に残すきっかけとなった人物が李陵だ。霍去病を始め、この時代の人物のことを生き生きと記した『史記』の列伝は、同時代の司馬遷によって書かれ、それはとても他人事などではなかった。司馬遷は血を流す思いで書き綴った。
 李陵は悲劇の将軍、李広の孫だ。父の李登戸は剛直の士だったが、李陵が生まれる前に早世した。紀元前99年、李陵は武帝の命により李広利の軍を救援するために5千の歩兵を率いて出陣した。漢軍にしてはずい分と少人数だ。はたして李陵は、李広利の本隊と合流する前に匈奴の本隊3万騎と遭遇した。李陵軍の奮戦は凄まじく、6倍の騎馬隊と相手に8日間に渡って激戦を繰り広げ、匈奴の兵1万を討ち取った。この状況を部下の陳歩楽を包囲から脱出させて武帝に知らせた。しかし李陵隊は矢尽き糧秣も失われて、やむなく降伏した。降伏の報を聞くと武帝は激怒し、陳歩楽を問詰したため陳は自決した。
 群臣は武帝に迎合して李陵を責めて罰を言いたてたが、司馬遷だけは李陵の勇戦と無実を訴えた。しかし若い日の聡明な武帝とは違い、甘言だけを吐く取り巻きに囲まれていた武帝は、権力を振りかざす醜い老人に成り下がっていた。こんな爺に道理は通じない。自分に逆らったというだけで、武帝は全身癇癪玉と化した。司馬遷を死罪、後に減じて宮刑とする。
 宮刑とは、男性器を切断する、ある意味死刑よりも残酷で屈辱的な刑罰だ。李陵の人柄と才能、勇敢さを気にいった匈奴の単于は、部下になるよう勧めるが李陵は受け入れない。だが武帝は、匈奴の捕虜から「李将軍」が匈奴に漢の軍略を教えていると聞いた。武帝は激怒し李陵の妻子・祖母・生母・兄と兄の家族・従弟一家までも皆殺しにする。ところが「李将軍」は、李陵よりも先に匈奴に帰順した李緒という将軍のことであった。李陵は血の涙を流し、李緒をぶった斬る。八つ当たりで殺された李緒こそ大迷惑だろうが、悪いのは武帝だ。
 老いて狂う権力者、若い時はあれほど魅力溢れる人物だったのに。何やら豊臣秀吉、毛沢東を思わせる。歴史は繰り返す。2千年前も400年前も今も人は愚かだ。だが全ての権力老人が狂う訳ではない。徳川家康(嫌いだけど)、トルコのケマル・アタテュルク、旧ユーゴスラビアのチトー大統領、キューバのカストロ議長らは、晩年を全うした。彼らは偉いね。もっとも身近にいたら嫌な所も多々あっただろうけど。
 李陵は後に単于の娘を娶って子をもうけた。そして匈奴の右校王となり、数々の武勲を立て紀元前74年に没した。かつて匈奴へ使節として赴いた人物の中で、李陵とは対照的に漢に忠節を貫き頑なな態度を取った硬骨漢がいる。蘇武という人物だが、李陵は彼を陰から助けた。
 中島敦に『李陵』という小説がある。そんなに長い物ではない。格調高い文章で、李陵の生涯を描いているので、興味のある方はご一読あれ。

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