前回は、応神天皇の時代には、宇、于、紆、禹の4文字がわ行の「う」を表記する漢字だったということを論じました。
そこで今回は、次の仁徳天皇の時代においても、于がわ行の「う」を表記する漢字だったかどうか検証してみました。
次の歌は、仁徳天皇の二十二年に、天皇が、妃をもう一人皇居に住まわせるため、皇后の同意を求めて詠んだとされるものです。
なお、漢字の表記と読みについては『日本紀標註』を、意味については『紀記論究外篇 古代歌謡 上巻』を参照しました。
原文
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読み
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意味
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于磨臂苔能 | うまひとの | 長老の |
多菟屢虛等太氐 | たつることだて | 建言(によれば) |
于磋由豆流 | うさゆづる | 予備の弓弦(を必要とする) |
多由磨菟餓務珥 | たゆまつがむに | 途絶えた間を継ぐためには |
奈羅陪氐毛餓望 | ならべてもがも | 並べてみたいものである |
ここで、「うさゆづる」とは、弓の弦(つる)が切れた場合に使う予備の弦で、『大日本国語辞典』によると、これは「をさゆづる」とも言うので、于がわ行の「う」を表記する漢字だったことは間違いないでしょう。
【うさゆづる】(上田万年・松井簡治:著『大日本国語辞典』より)
したがって、仁徳天皇の時代には、わ行の「う」は、まだあ行に移動していなかったと思われるのです。
なお、この歌は、次のように括弧の部分を補って解釈すると、意味がよく理解できるそうです。
【歌の解釈】長老の意見によれば、切れた部分を継ぐためには予備の弦を必要とする。(それと同様に、皇居の空いた寝室をみたすために、妃をもう一人いれて)並べてみたいものである。
次回も古代歌謡の分析です。
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