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なぜ、自己顕示欲を持つのですか

2018-10-06 16:07:50 | 日記

「辛い顔をして仕事をするのも仕事。ケロッとした顔をして仕事をするのも仕事」

「苦しんで仕事をするのも仕事。楽しんで仕事をするのも仕事」。

そのうち退職して、ボーっとして、

そのうち死ぬが、同じ一生をどんな風に過ごしたい?

そもそも仕事って辛いものなの?

それって誰かが代わってやってくれないかな、

と思っているから辛くなるんじゃない?

それとも「自分」には「出来ないかもしれない」という不安や

「自分」が「人から馬鹿にされたくない」という気持ちが原因じゃない?

 

ずっと昔から、今までたくさんの人たちが同じような仕事をしてきて、

同じような深刻な顔をして、

時には虚勢を張って仕事をこなし、

退職して、去っていった。

そしてこれからも我々の時代を引き継いで、

次の世代の人たちが

同じように「深刻」に仕事をこなして、

その次の世代の人たちが又その後をついで、

時に虚勢を張ったりしながら、

同じように「深刻」に仕事をしていく。

その時、そのときの担当者は、

まるで自分だけが、同じように不安や恐と戦って仕事をしている、

かのような気持ちを抱きながら。

ただ、その時、その役割を、自分が担当するだけのことなのに。

自分だけがその役割をこなしているかのような気になる。

そして無事乗り切ると、やり遂げた感でいっぱいになる。

中にはまるで専門家になったような偉そうな顔をして見せる人もいる。

まったく大したことをしたわけではないのに。

 

いつも少しも気負うことなく、

淡々と、きれいに仕事をこなし、

次々と処理していけばいいだけの話。

時々、馬鹿な話をして周りを楽しませて、

その喜ぶ様子を見て、また自分も楽しむ。

それだけでいいのに。

お互い知らない事だらけなんだから、

自分だけ知った顔なんてしてちゃいけない。

なんでも聞いて、教えあわなきゃ。

そこには少しも出来たから偉いとか、

優越感とかそんなものは存在しない。

むしろ、あったら不愉快な事だし、邪魔でしかない。

 

人間は、人間関係の中ですぐに「感情」というものが発生する。

これは「自分」に固執することで生まれる。

脳科学的には存在しないはずの「自分」に

なぜか「感情」が発生する。

これは、生体独自の絶対的価値から生まれる感覚

なんて立派なものじゃなくて、

個々の生体が成長する中で作ってきた

単なる「こだわり」にある現象が引っかかったために、

脳内に摩擦が生じただけのもの。

なんら倫理的に正しいわけでも、普遍的なことでも、何でもない。

「自分」が勝手に固執しただけ。

 

そんな「感情」は、判断の優先順位としては最下位におかなくちゃいけない。

そして、決して「言葉」になどしてはいけない。

「感情」から生まれる「言葉」には、まず間違い無く「害」がある。

 

 

本来、「自分」なんてものは存在しない。

それなのに、そんな「自分」の存在が気になることがある。

でも、「自分」というものは虹のようなもので、

見えるんだけど、決して捕まえることはできないもの。

そこにあるように見えるけど、

それは幻で、実は存在しない。

 

我々は、相手がいるから「自分」を自覚することができる。

この身体はあるけれど、これ自体が何か大事なものではない。

たまたま分子が集まって形作っているだけで、

いずれ散って、消える。

我々の本体はこんなものじゃない。

「波動」だ。

「宇宙」そのものかもしれない。

時々、共鳴することがある。

そのときに「感動」が走る。

そういう存在だ。

だから「波」を乱すものを嫌悪し、

「波」に身をゆだねると気持ちよく生きることが出切る。

 


我々、一生の半分は、就職して仕事を割り当てられて、

社会のために働く。

代わりに報酬という生活の糧を得る。

その間、ブスッとした顔で辛そうに働くのはもったいない。

様々な問題を同じ職場の人たちと共有し合い、

助け合いながら、一つ一つ課題を解決し、

お客さんが喜ぶ顔を自分の喜びとし、

仕事仲間が嬉しそうにする顔を見て、

自分もニッコリ笑える、そんな生き方をしたいものだ。

それもこれも「自分」なんぞ無いのだ、

と自覚できてこそ、出来ること。

 

 

「相手がいてはじめて、『自分』は存在できる。」

これにどれだけの人が気づいているんだろうか。

例えば、

誰か相手を想定しないで一人でニッコリ笑えるだろうか?

相手がいないのに、一人で怒り出せるだろうか?

誰かを想定せずに考えることが出来ますか?

もし、この世に私以外誰もいないとして、食べ物もあるとして、

さて何か考えることがあるかしら。

寂しくはなるかもしれない。

でも怒ることも、笑うことも、話しかけることもなくなる。

深刻そうな顔をすることも無ければ、

優しそうな顔をする必要もない。

服を着る必要も無い。

そんな状態で、「自分」という自覚が生じるだろうか。

周囲を見て、花を見て、海を見て、森を見て、

何か感じることがあるだろうか。

あるままに見るだけではないだろうか。

そこに「自分」を意識させることはないだろう。

全て、人間が相手にいて初めて生じる感覚だ。

 

人間社会があって初めて私たちは、私たちでいられる。

島に「人は人の中(チュウやチュンナー)」という言葉がある。

人は人の中にいてこそ人である、という意味だ。

人の中には、盗人や乱暴者、支配欲にあふれた者といった悪人たちもいる。

そんな人たちは、どの道よい一生は送れない。

それだけで罰を受けているようなものだ。

ほっとけばよろしい。

 

「自分」とは「波動」である。

「波動」は共鳴させることによって、「感動」を生じる。

「波動」に素直に従えば、「自分」が生き生きとしてくる。

せっかく身体をもらってるんだ。

「波動」を感じながら生きる。

それこそが最高の生き方。

まず、その第一歩として

「自己顕示欲」(watasi is Number 1)を捨ててしまいなさい。

良い人生の邪魔だから。

コメント
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