津波被害に合った地域にも行ってみたいと思い、足を延ばしました。
その理由は、5年経ち、放射能被害はない地域の復興がどのように進んでいるのか、知りたいと思ったことによります。
1つは、阪神淡路大震災を契機に、日本に「ボランティア」が普及・一般化したように、東北大震災を契機に、何か新しい動きがあるような気がしていたからです。
こちらの方は、明日以降、まとめておきたいと思います(資料も含め宅急便で送ってしまったので)。
もう1つは、新聞等で報道されている「防潮堤」を見てみたかったからです。それに対する町の方々のご意見も聞いてみたいと思いました。
今回の旅の第一の目的は、前にこのブログでも書いた「オガール」をこの目で見ることでしたので、盛岡から東京に近づきつつ行ける場所ということで、気仙沼を選んでみました。
たまたま乗ったタクシーの運転手さんが防潮堤には、疑問を持っておられる方でした。生まれも育ちも気仙沼、津波の折には、欅の木につかまって助かったという方です。
生まれ故郷の姿がすっかり変貌してしまったり、友達や親戚を含め多くの方が亡くなったという方です。それでも、やはり、海は大好きで、故郷の心象風景という感じなようです。
ですから、7メートルの防潮堤がすっかり海を隠してしまっていることにどうしても納得がいかないご様子でした。
住民が反対したら、気仙沼漁港の辺りでは、アクリルの窓を作ることになった。別の浜では、コンクリートを半分にし、その上に鉄板を延ばすような形になった。・・とのことでした。
私は、漠然と、200年に1度といわれる大きな津波に備えるといっているが、コンクリートは、そんなに保つのだろうかと疑問の思っていたのだが、その運転手さんも同じ意見でした。
彼はそれよりも、山に逃げる道が狭いので、車が渋滞して亡くなった人が多い。だから、海に防潮堤を作るよりも、いざという時逃げやすいように、道を広げるようにと訴えているのだという。
気仙沼でも、コンクリートが少しあいているところがあって、そこには鉄板のドアのようなものをつけるのだという。彼は、どうやってドアを閉めるのだろう、別の浜のコンクリの上に延ばす鉄板もどうやって上げるのだろう、電気がストップしたらあかないだろうしと言う。防潮堤は、鉄の柱を建て、ほかでコンクリートを作ってうえから被せる形で作られるのだという。
気仙沼は、水産加工が主産業だが、観光も大きな柱なのに、海が見えなくてどうするんだろうとも言っていた。
昔から津波はあり、その地点には、印が立っている。また、「てんでんこ」と言われるように、ともかく高台に逃げろということを子供にまで知恵を伝えている。こういう生きた知恵を伝えていくことの方が大切だろう。
また、高齢化が進み、歩いて山道は逃げられない。どうしても、家族等を乗せて車でということになるだろう。そうであるなら、高台に逃げるための道を整備することの方がやはり大事ではないかと思う。
被災し、家族や知人が亡くなった方を前に、こうした意見を言うのは、憚られたのだが、運転手さんが同じような意見であったので、自分があまりにもかけ離れた意見ではなかったのに少しほっとした。
放射能の影響は、ないものの、気仙沼の復興もまだまだ道半ばだ。盛り土も途上だし、その盛り方も同じ地域でもバラバラな感じだ。
ようやく、避難所から仮設住宅へ、そして新しく建てられた災害公営団地へと動きが出てきたものの、まだ落ち着かない状況が続いている。
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