キュイの歌劇で唯一全曲盤がリリースされている《ペスト流行期の酒宴》は、ロシアの大詩人プーシキンの生誕100周年を記念して作曲されたものです。
「ペスト流行期の酒宴」とは歌劇らしからぬ奇妙なタイトルですが、原作となったプーシキンの小悲劇の題名をそのまま使っているものです(英訳の'A Feast in Time of Plague'のPlagueは、プラハPragueではありません。念のため)。
プーシキンの創作の中で「悲劇」に分類される作品は、未完も含めると7作ありますが、もっともよく知られているのが『ボリス・ゴドゥノフ』でしょう。
言うまでもなくムソルグスキーの同名の歌劇の元となった作品です。
以下「小悲劇」として、『ペスト流行期の酒宴』のほかに『吝嗇の騎士』『モーツァルトとサリエリ』『石の客』、未完のものとして『ルサルカ』『騎士時代からの場面』があります。
もうお気づきでしょうが、最後の作品を除けばこれらは全てロシアの作曲家たちによってオペラ化されています(ダルゴムィジスキーの歌劇《ルサルカ》は、未完の部分を自ら補って台本として使用)。
これまでただ一つ『ペスト流行期の酒宴』のみが録音の機会に恵まれなかったのですが、今回シャンドスからリリースされたことによって、目出度くプーシキンの悲劇を原作として作曲された歌劇は、全て聴くことが可能になったわけです。
マイナーな歌劇を楽しもうとするときにネックになるのが、その話の内容です。
筋書きに関係なく、オペラを純粋な音楽として聴くことも一つの方法でしょうけど、私は舞台の時代背景などにも詮索してみたいクチで、あらすじ位は押さえておかないと話になりません。
外国語に堪能であれば、CDに付いているブックレットの英語の解説やテキストなどを頼りに理解していくことはできるのでしょうけど、私のような数行読んだだけで頭痛がする人間は、やはり日本語でラクに済ませたいところです。
有名な文学作品が原作であれば、その邦訳を探すのが一番手っ取り早いです。
ありがたいことに『ペスト流行期の酒宴』はプーシキン全集の中にちゃんと収録されていて(河出書房新社刊「プーシキン全集」第3巻)、しかもキュイはこの作品のオペラ化に際して原作にほとんど手を入れずにそのままテキストとして使用したそうですから、図書館に行く労さえ厭わなければ、簡単に「歌詞カード」や「解説」を手に入れることができるわけです。
最初に聴いたときにはわからなかった、途中に挟まれる重苦しい音楽は、ペストで死んだ人々を乗せた荷車が傍らを通り過ぎる時のものであるということも、日本語を読みながらだとすぐにわかるのですから、ラクチンですね。
《ペスト流行期の酒宴》は30分ほどの短い歌劇です。
ペストの流行する17世紀のロンドン。
日は我が身かと絶望しつつも、路傍で酒盛りをして気を紛らわす数人の男女たちの様子を描いた作品ですが、「狂乱の酒宴」というよりは、死を面前にして淡々と酒を酌み交わすといった表現のがふさわしい情景です。
この歌劇の中核をなすのは2つの歌───「メリーの歌」と「ワルシンガムのペスト賛歌」です。
キュイはこの2つの歌をちゃっかり自分の過去の歌曲から転用していますが、悪くはありません。
途中、周囲の者たちがワルシンガムを称えて囃し立てる箇所だけは、ロシアの歴史オペラにおける民衆の合唱ばりに盛り上がってしまい、ついニヤリとしてしまいますが、全体に手の込んだ、熟達した筆による佳品であるように思います。
この歌劇(小悲劇)の主題は、プーシキン全集の解説によれば、プーシキンの他の悲劇と同じく、「極限状況における人間の心理を描き出す」ことにあるとされています。
ペストによる死を面前にした人間の振るまいは、この劇の中では「忘却」「宗教」「運命愛」としてそれぞれの人物に投影されているというのです。
特に、「宗教」と「運命愛」については、この話のオチに相当する部分───妻を亡くして気の狂ってしまった司祭と宴会を取り仕切るワルシンガムが実は親子とわかる───によって、より先鋭に対比されているようでもあります。
二人が「親子」ということについては、解説には触れられておらず、私も今ひとつ確証がもてません。
しかし、司祭がワルシンガムの亡母のことを持ち出して彼に改悛を迫る場面で、ある女に「埋葬された奥様のことをうわごとのように言っている」とつぶやかせ、この二人の関係はあるいは───とうかがわせておき、最後に「さらばじゃ、我が子よ」と司祭がワルシンガムに言って別れるのは、単に宗教的な指導者と信徒という関係から「子」と呼んでいるだけではなく、実は本当の親子ではないか───ということを、依然謎をはらみつつもほのめかしているように私には思えます。
《ペスト流行期の酒宴》の結末の何とも言いようのない後味の悪さ───《モーツァルトとサリエリ》もそうでしたが、1回かそこら聴いただけではわからない 「何か」───日常の生活ではあまり感じない漠然とした不安感──に引き込まれて、何度も聴くうちにだんだんと深みにはまっていってしまう、そんな危険な香りのするオペラであるといえるでしょうか。
***
そして2020年の今。
新型コロナで世界中がひっくり返っています。
歴史上の出来事でしか知らなかった世界が、今まさにわれわれに降りかかってきていますね。
[この記事は「コルシンカの雑記帳」に掲載していたものに加筆修正して再掲しました]
「ペスト流行期の酒宴」とは歌劇らしからぬ奇妙なタイトルですが、原作となったプーシキンの小悲劇の題名をそのまま使っているものです(英訳の'A Feast in Time of Plague'のPlagueは、プラハPragueではありません。念のため)。
プーシキンの創作の中で「悲劇」に分類される作品は、未完も含めると7作ありますが、もっともよく知られているのが『ボリス・ゴドゥノフ』でしょう。
言うまでもなくムソルグスキーの同名の歌劇の元となった作品です。
以下「小悲劇」として、『ペスト流行期の酒宴』のほかに『吝嗇の騎士』『モーツァルトとサリエリ』『石の客』、未完のものとして『ルサルカ』『騎士時代からの場面』があります。
もうお気づきでしょうが、最後の作品を除けばこれらは全てロシアの作曲家たちによってオペラ化されています(ダルゴムィジスキーの歌劇《ルサルカ》は、未完の部分を自ら補って台本として使用)。
これまでただ一つ『ペスト流行期の酒宴』のみが録音の機会に恵まれなかったのですが、今回シャンドスからリリースされたことによって、目出度くプーシキンの悲劇を原作として作曲された歌劇は、全て聴くことが可能になったわけです。
マイナーな歌劇を楽しもうとするときにネックになるのが、その話の内容です。
筋書きに関係なく、オペラを純粋な音楽として聴くことも一つの方法でしょうけど、私は舞台の時代背景などにも詮索してみたいクチで、あらすじ位は押さえておかないと話になりません。
外国語に堪能であれば、CDに付いているブックレットの英語の解説やテキストなどを頼りに理解していくことはできるのでしょうけど、私のような数行読んだだけで頭痛がする人間は、やはり日本語でラクに済ませたいところです。
有名な文学作品が原作であれば、その邦訳を探すのが一番手っ取り早いです。
ありがたいことに『ペスト流行期の酒宴』はプーシキン全集の中にちゃんと収録されていて(河出書房新社刊「プーシキン全集」第3巻)、しかもキュイはこの作品のオペラ化に際して原作にほとんど手を入れずにそのままテキストとして使用したそうですから、図書館に行く労さえ厭わなければ、簡単に「歌詞カード」や「解説」を手に入れることができるわけです。
最初に聴いたときにはわからなかった、途中に挟まれる重苦しい音楽は、ペストで死んだ人々を乗せた荷車が傍らを通り過ぎる時のものであるということも、日本語を読みながらだとすぐにわかるのですから、ラクチンですね。
《ペスト流行期の酒宴》は30分ほどの短い歌劇です。
ペストの流行する17世紀のロンドン。
日は我が身かと絶望しつつも、路傍で酒盛りをして気を紛らわす数人の男女たちの様子を描いた作品ですが、「狂乱の酒宴」というよりは、死を面前にして淡々と酒を酌み交わすといった表現のがふさわしい情景です。
この歌劇の中核をなすのは2つの歌───「メリーの歌」と「ワルシンガムのペスト賛歌」です。
キュイはこの2つの歌をちゃっかり自分の過去の歌曲から転用していますが、悪くはありません。
途中、周囲の者たちがワルシンガムを称えて囃し立てる箇所だけは、ロシアの歴史オペラにおける民衆の合唱ばりに盛り上がってしまい、ついニヤリとしてしまいますが、全体に手の込んだ、熟達した筆による佳品であるように思います。
この歌劇(小悲劇)の主題は、プーシキン全集の解説によれば、プーシキンの他の悲劇と同じく、「極限状況における人間の心理を描き出す」ことにあるとされています。
ペストによる死を面前にした人間の振るまいは、この劇の中では「忘却」「宗教」「運命愛」としてそれぞれの人物に投影されているというのです。
特に、「宗教」と「運命愛」については、この話のオチに相当する部分───妻を亡くして気の狂ってしまった司祭と宴会を取り仕切るワルシンガムが実は親子とわかる───によって、より先鋭に対比されているようでもあります。
二人が「親子」ということについては、解説には触れられておらず、私も今ひとつ確証がもてません。
しかし、司祭がワルシンガムの亡母のことを持ち出して彼に改悛を迫る場面で、ある女に「埋葬された奥様のことをうわごとのように言っている」とつぶやかせ、この二人の関係はあるいは───とうかがわせておき、最後に「さらばじゃ、我が子よ」と司祭がワルシンガムに言って別れるのは、単に宗教的な指導者と信徒という関係から「子」と呼んでいるだけではなく、実は本当の親子ではないか───ということを、依然謎をはらみつつもほのめかしているように私には思えます。
《ペスト流行期の酒宴》の結末の何とも言いようのない後味の悪さ───《モーツァルトとサリエリ》もそうでしたが、1回かそこら聴いただけではわからない 「何か」───日常の生活ではあまり感じない漠然とした不安感──に引き込まれて、何度も聴くうちにだんだんと深みにはまっていってしまう、そんな危険な香りのするオペラであるといえるでしょうか。
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そして2020年の今。
新型コロナで世界中がひっくり返っています。
歴史上の出来事でしか知らなかった世界が、今まさにわれわれに降りかかってきていますね。
[この記事は「コルシンカの雑記帳」に掲載していたものに加筆修正して再掲しました]