海軍大将コルシンカの航海日誌

ロシアの作曲家リムスキー=コルサコフについてあれこれ

《ドゥビヌシカ》覚書その2~「仕事の歌」?

2020年03月30日 | 管弦楽曲
この《ドゥビヌシカ》は、「仕事の歌」とも呼ばれますが、これはどういうことなのでしょうか。
(三省堂『クラシック音楽作品名辞典』によると、リムスキー=コルサコフの《ドゥビヌシカ》の項に「1905年革命のときの革命歌として歌われた『仕事の歌』である」とあります。)

「仕事の歌」という題名は、津川主一によってこの曲が日本語に訳詞された際に付けられた邦題とのこと。
少なくとも「仕事の歌」は原語で用いられているタイトルではないということです。

リムスキー=コルサコフの作品として出版された楽譜には、表紙にロシア語で「ドゥビヌシカ」、フランス語で「ロシアの歌」と記されており、外国人には意味が通じにくい「ドゥビヌシカ」とは別に海外向けのタイトルを付けたようです。

このあたりは海外向けに「ロシアの復活祭」、国内向けに「輝く祝日」と別々につけたのと同様ですね。
面白いのは、わざわざ海外向けに「ロシアの歌」とタイトルをつけたのに、ショボかったのか、こちらはせいぜい副題的に添えられる程度で、海外でもタイトルとしては《ドゥビヌシカ》が定着してしまったことですね。

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さて、リムスキーの《ドゥビヌシカ》ですが、かのシャリャーピンの歌った「ドゥビヌシカ」や、日本で「仕事の歌」として合唱曲に編曲されたものと比べてみるとまるで違っています。
便宜上、後者二つを「民謡調『ドゥビヌシカ』」としてリムスキーのものと区別しますが、民謡調「ドゥビヌシカ」は哀愁を帯びた中に厳しさも感じられる、いかにもロシアの歌といった風情ですが、リムスキーの《ドゥビヌシカ》はそんな要素はまるでなくて、平和で陽気な行進曲となっております。

私は民謡調「ドゥビヌシカ」よりも前にリムスキーの《ドゥビヌシカ》を知ってしまったので、民謡調「ドゥビヌシカ」を聴いた時に、リムスキーの作品で使われているメロディーが全く登場しないので非常に困惑したものです。

両者の音楽的な違いについてあまり言及されたものはありませんが、カワイ出版『ロシア音楽事典』の「ドゥビーヌシカ」の項に手掛かりになるような記述があります。
以下、同項の記述をもとに箇条書きにしていくと、

①1865年に発表されたボグダーノフの詩により1880年代から歌われていた
②1870年頃にオリヒンにより革命歌に改作 ← ①の「1880年代から歌われていた」ものとは別のもの?
③スローノフによって作曲されたものをシャリャーピンもレパートリーにしていた ← ①②とはまた別のもの?
④1905年前後には労働者によって広く歌われた ← これは③のことですかね?
⑤この歌のリフレインは・・・古い労働歌を、歌詞と旋律の両方で借用したもので ← 「この歌」とは③のこと?
⑥同じく《ドゥビーヌシカ》と呼ばれた ← 歌詞と旋律だけでなく、題名も同じになったということ?
⑦これは港湾労働者を組織した・・・組合の歌の題名だった ← ①②は《ドゥビーヌシカ》とは呼ばれていなかった?
⑧この古い労働歌の《ドゥビーヌシカ》はリームスキイ=コールサコフがオーケストラと合唱のために編曲


ということになりますが、この事典の記述は時系列というか、前後の関係がよくわからないのが難点(特に①から③に至る経緯)。
ただ⑦と⑧から、リムスキーの《ドゥビヌシカ》のルーツは港湾労働者の組合の歌である「古い労働歌」ということははっきりしました。

一方、シャリャーピンの③の歌が、「古い労働歌」の歌詞や旋律の一部を拝借し、同じ「ドゥビーヌシュカ」で呼ばれたということなら、③はいわば体の一部を移植手術したものの、もともとの「古い労働歌」とは別物と捉えるべきなのでしょう。

こうしたいきさつを鑑みれば、民謡調「ドゥビヌシカ」とリムスキーの《ドゥビヌシカ》が似ていないの理解できます。
逆に、よく聞いてみると、民謡調「ドゥビヌシカ」のリフレインの「Эх, дубинушка, ухнем!」は、リムスキーの《ドゥビヌシカ》の主題を短調に変換したように聞こえなくもないですね。
ついでながら、冒頭に掲げた「1905年革命のときの革命歌として歌われた『仕事の歌』である」との記述は、これまで見てきたとおり説明としては適切でないように思われます。

さて「ドゥビヌシカ」は、バリエーションが非常にたくさんあるらしく、それらを一つ一つ解明していくのは相当困難なことのようです。
肝心のリムスキーの《ドゥビヌシカ》の元ネタであるらしい「古い労働歌」も、ネットで探した範囲では見つけることができませんでした。
《ドゥビヌシカ》の元ネタのメロディを突き止めるのは今後の課題です。

《ドゥビヌシカ》覚書その1~初めて聴いた時の想い出

2020年03月26日 | 管弦楽曲
リムスキー=コルサコフの晩年の作品である《ドゥビヌシカ》は、今でこそ複数の音源があり、ネットでも探せば簡単に見つかり手軽に聴ける作品ですが、昔はいわゆる文献上でしか存在を知らない、まあ「幻の音楽」だったわけです。

私がリムスキーの作品に興味を持ち始め、《シェヘラザード》などの有名曲以外の音楽にも食指を伸ばしていた頃は、クラシックでもポツポツとCDがようやく出回り始めた時期だったので、珍しい作品はまだレコードでしか、それもロシアものとなると、神田にあった新世界レコード社を経由して国内販売されていたメロデイア盤に頼らざるを得ない状況でした。

ある時たまたま入った、特にマニア臭もない普通のレコード屋に、どういうわけか新世界レコードのメロデイア盤が複数置いてあって、その中に《ドゥビヌシカ》が収録されているスヴェトラノフ指揮のリムスキー管弦楽曲集があったので、私は狂喜乱舞してすぐに買い求めたのでした。

早速帰宅してはやる気持ちを抑えつつターンテーブルにセットして針を落とそうとしたのですが、テーブルが回らない。
(ステレオのアンプが壊れていたのでラジカセに接続していました。)
どういうことかと点検してみると、モーターからターンテーブルに回転を伝達するゴムベルトが伸びきっていたのですね。

ここで替えのゴムベルトを注文してなどとやっていると、せっかくの《ドゥビヌシカ》がお預けになってしまう。
私にはそんな我慢は出来ない相談だったので、伸びたゴムを適当な長さになるようカットして、ごく小さな断面を瞬間接着剤で注意深く接合させて応急復旧。
さあいよいよ幻の音楽と初めてのご対面です(正座)。

すると、あの「ズッタタタンタン」というリズムの刻みに乗せて登場するトランペットによる主題。
親しみやすい陽気なメロディーです。
そしてピチカートと小太鼓がリズムに加わり、メロディーに木管が重なって華やかさを増す。
いったんごく短くまとめてから、トランペットはリズムにまわって今度は弦により主題が堂々と力強く奏でられます。
メロディが弦の高音域に移って中音域がスカスカになったところに、バーン!と金管による主題がなだれ込んでくる...

そんな音楽を、私は応急修理で回転数が一定にならないレコードプレーヤーで、しかも音質の悪いラジカセのスピーカーから聴いていたのでした。
古い蓄音機から流れてくるような不安定なメロディー。

しかし、これが期せずして、遠い異国で昔に起きた出来事の様子を、時空を超えて耳にしているかのような効果を生んでしまったのですね。
この作品の歴史的な背景は知っていましたから、あたかも民衆がプラカードを掲げて行進をしているのを目の当たりにしているような錯覚すら覚えたものです。
再生装置としてはひどい状況だったのが、《ドゥビヌシカ》とは妙にシンクロして、かえって強烈な印象として残ることになったのでした。

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後から知りましたが、スヴェトラノフの《ドゥビヌシカ》はテンポが楽譜の指定よりもゆっくりなんですね。
これが重厚な金管とあいまって、よく言われる「重戦車」のような感じを出していますが、軽快な小太鼓によって程よく中和されていて、バランスの良い演奏になっていると思います。

いくつかある《ドゥビヌシカ》の演奏ですが、個人的にはやはりこのスヴェトラノフのものが群を抜いていると感じますね。

《ロシアの復活祭》覚書その6~補足など

2020年03月11日 | 《ロシアの復活祭》
《ロシアの復活祭》覚書は、今回でいったん終わりにしますが、いろいろ調べているうちに「?」と思ったことをいくつか挙げておきます。
覚書その3でも書きましたが、この作品に関して巷で言われたり、書かれていたりするものが不正確なことが案外あるようなので、その指摘です。

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<聖歌2>は「嘆く天使」とか「天使は嘆く」などと訳されていますが、どんな歌詞なんだろう(何を嘆いているのか?)と調べてみると、キリストの復活を聖母マリアに「天使が告げる」という内容のようです。
復活祭の喜ばしい時になぜ嘆くことがあるのかと思っていたのですが、これはどうやら誤訳のようです。
キリストの復活を告げるのであれば、まさに復活祭にふさわしい聖歌ということになりますね。

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オイレンブルク・スコアの日本語訳ですが、【練習番号D】からの「恐れ多い光明を表現」の部分を「曲がアレグロに移行すると」としていますが、これは明らかにアレグロに入る直前の音楽を指していますから、「曲がアレグロに移行する前には」などとすべきと思います。

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同じくオイレンブルク・スコアの日本語訳ですが、「意気揚々とした大天使たちのトランペットのような...」の部分もしっかり読むと少々おかしい気がします(というか、曲と対比すると何を言っているのかよくわからない)。
自伝でこのくだりは一文がやたらと長く、構文がつかみにくくて今一つしっくりしませんが、おおよそ次のような意味になりそうです。

トランペットのような荘厳な大天使の声は、ある時には輔祭たちの流暢な誦経に、またある時には司祭の象徴的で美しい節回しの福音書の誦経に変化しながら、喜びに満ちた、まるで踊っているような鐘を模した音色に取って替えられた。


時系列的な観点ではやや難ありかもしれませんが、私は「輔祭たち(複数形)の流暢な誦経」が弦や木管で奏でられる<聖歌3>、「司祭(単数形)の象徴的で美しい節回しの福音書の誦経」がトロンボーン・ソロに対応しているとみました。
「喜びに満ちた、踊っているような鐘を模した音色」はわかりやすくて、【練習番号K】や【練習番号U】の部分ですね。

ちなみにですが、この作品でトロンボーンのソロを第2奏者が吹くこと(《シェヘラザード》にもあり)の理由についてはいろいろと憶測があるようで、「リムスキー=コルサコフがオーケストラのトロンボーン第2奏者と仲良しだったから」とか、「第2奏者がリムスキー=コルサコフの妻と不倫をしており、懲らしめるためにわざと難しい旋律を書いた」(!?!)とか諸説あるようです...。

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今回の《ロシアの復活祭》に関する探究はアレグロ(・アジタート)の部分を中心に行いましたが、いろいろ調べていく過程で新しく知ったり、理解することができたりして楽しいものでした。
なんといってもそのきっかけとなったのが、覚書その1ではじめにご紹介したティンパニ奏者の女性ですね。
もともと好きだった《ロシアの復活祭》がこんなにも凶暴に(笑)太鼓が鳴っているのに気付かされましたし、それによってよくわからなかったアレグロの曲想も自分なりに理解もできました。

彼女は見ていても、鳴らす音に反して(?)エレガントでチャーミングな感じもして、アップで映らないのは残念ですが、反面曲の最初から最後まで動きを見ることができて、繰り返しになりますが、私の眼はずっと彼女にくぎ付け状態なのです。
名前などもわかりませんが、ささやかながら彼女に感謝の気持ちをささげようと思います。

(了)

《ロシアの復活祭》覚書その5~アレグロが表現すること

2020年03月05日 | 《ロシアの復活祭》
覚書その5は、私がこの作品に抱いていた疑問────アレグロの曲想が何を表しているのかについて改めて考察してみようと思います。
リムスキー=コルサコフの自伝では、次のように記しています。(和訳はオイレンブルク・スコア「《ロシアの復活祭》序曲」解説より。以下同じ)

アレグロの冒頭部『憎しみを抱く者たちも、主の面前で逃避させよう』のくだりは、ロシア正教会の復活祭の朝の祝祭的雰囲気を醸し出す。


このアレグロの激しい曲想が「ロシア正教会の復活祭の朝の祝祭的雰囲気」なのでしょうか?
もちろん、私はロシアの復活祭の朝を経験したことはなく、したがって実体験と比較して雰囲気が云々と言うことはできません。
しかし、キリストの復活を祝う朝は、曲想のような雰囲気とは違うのではないかと普通に思ったりしてしまうのですね。

ここで、アレグロの部分がどのような音楽なのかを今一度振り返ってみましょう。練習番号はオイレンブルク・スコアに付されているものです。

【練習番号Dの途中(アレグロ・アジタート)】<聖歌1>"Да воскреснет Бог"の終結部分を変形させながら弦主体で短い導入部を作ったのち、【練習番号E】ファゴット・チューバと木管で<聖歌1>の掛け合いがあり、それがティンパニも加わった全楽器の激しい全体の動きに飲み込まれていく。

【練習番号F】そして弦のうねり上がるような音型になおも低音で<聖歌1>が現れ、【練習番号G】再び導入部のメロディーが登場し、絶妙な間隔のスフォルツァンドを伴って繰り返される。

ティンパニの連打に導かれるように弦がうねり続けながら、【練習番号H】今度はトゥッティで新しい音型が登場する。教会内の重厚な合唱を模したもののように「タータタ・タータタ・タータタ・タタタタ」のリズムで力強く奏される。この合唱に弦が激しく動いて応え、さらにもう一度合唱と弦の呼応が繰り返される。

【練習番号I】弦のうねりに木管も加わって輝きを増す中、トランペットが高らかに鳴り響いたのを合図に急速に静まっていく────


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このアレグロの部分を何度も聴いているうちに、気が付いたことがあります。
私はそれまで自伝に記された「ロシア正教会の復活祭の朝の祝祭的雰囲気」にとらわれていましたが、むしろ重要なのは『憎しみを抱く者たちも、主の面前で逃避させよう』の方であるということです。
アレグロの曲想を理解するための回答は実はこの一節にあったのですね。

「主を呼び起こし、敵を退散させよう。憎しみを抱く者たちも、主の面前で逃避させよう。
煙が追い払われる如く、彼らを追い払おう。炎の前で蝋が溶ける如く、邪悪な者を主の御前で消滅させよう」

────ダビデ詩篇68編


この『憎しみを...』の部分は、旧約聖書のダビデ詩編68編(ちなみに正教では67編と一つずれるようです)からの引用ですが、作曲者はなぜこの一節をわざわざこの作品のプログラムの一つとして掲げたのでしょうか。

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私はこの聖書の引用を特に気にも留めていなかったのですが、よくよく読むと、ものすごいことが書いてありますよね。
(翻訳によっては、文末が神への「願い」だったり、そのようになるといった「予定」だったりしますが、ひとまず措くとします。)
にわかには復活祭とは関連しそうもないないように思えますが、それにしても仕返しするとか一矢報いるとかのレベルではなく、敵の存在そのものを地上から消し去ってしまおうというのです。

もちろんそれはよみがえった神によって実行されるのでしょう。
それこそが再び現れるであろう神に民が望んだことなのです。
われわれ日本人にはなかなか想像できないことですが、苛烈な運命をたどったイスラエルの民は、(少なくともイエス・キリストの登場以前は)敵に対してこのような激しい感情を抱いていたのですね。
このような理解を前提にすれば、キリスト教の復活祭には、単にキリストが復活したことへのお祝いにとどまらず、その先にあるユダヤ教時代の名残としての再臨した神による敵への復讐への「期待感」と、それがやがて成就されるであろうという「喜び」の要素も含まれているということになるのではないでしょうか。

***

そうすると、《ロシアの復活祭》のアレグロの曲想は、「再臨した神により敵が消滅させられる様子を描いたもの」ではないか────と考えられるわけです。
いったんこう解釈すると、今までよくわからなかった曲想がとたんに理解できるようになるのです。
つまり、うねるような弦は、神の御業によって引き起こされる、敵を煙のように追い払う強烈な嵐や、敵を焼き尽くす渦巻く炎を描写しているもの。
勇ましいティンパニは神の軍隊を鼓舞するためのもの。
高らかなトランペットは天使の告げる勝利...。
なるほどね...。

個人的にはこれで一応の結論が得られました。
もちろん私の解釈ですし、間違っていたり、共感できなかったりする方もいらっしゃることでしょう。
(自分がわかっていなかっただけで、ほかの人には初めからわかりきった内容である可能性もありますね。)
ただ、このことに触れたものは少なくとも日本語では目にしたことがなかったので、今回つらつらと書き連ねてみました。