海軍大将コルシンカの航海日誌

ロシアの作曲家リムスキー=コルサコフについてあれこれ

《不死身のカシチェイ》公演~6

2008年09月11日 | 《不死身のカシチェイ》
これまで《不死身のカシチェイ》に登場するキャラ評を書いてきましたが、登場人物は他にもいて(イヴァン・コローレヴィチと見飽きぬ美の王女)、しかし彼等の役どころで取り立てて新しい発見は今回の公演では特にありませんでした。

イヴァン・コローレヴィチは、ある意味リムスキーのオペラでの弱点の一つと言ってもいいかもしれませんが、彼のオペラの登場人物における典型的な「何もしない」ヒーローであって、存在感がいま一つなんです。
《ムラダ》のヤロミールしかり、《皇帝の花嫁》のルイコフしかり。イヴァン・コローレヴィチも何もしていないのに、カシチェエヴナからの殺害を免れ、何もしないのに嵐の勇士の用意した空飛ぶじゅうたんで王女と再会し、フィナーレにおいても彼は何ら筋書きに関与をしていないのですね。
ここら辺がもう少し練れていれば、あるいはこのオペラ(というかリムスキーのオペラ全般にも当てはまるかもしれませんが)も今よりは世に受け入れられたのではないかとも思うのです。

見飽きぬ美の王女については、こちらもリムスキーのオペラにおける「子守唄の系譜」なるものが存在していて(《サトコ》《貴族婦人ヴェラ・シェロガ》《皇帝サルタンの物語》《パン・ヴォエヴォーダ》《金鶏》)、彼女の歌ういびつな子守唄をこの系譜上で論じるときっと面白いことがわかるのでしょうけど、ちょっと私には手に負えません。

以上の二人にはあまり発見はないといいましたが、今回の公演でイヴァン・コローレヴィチを演じたアレクサンドル・ゲルガロフ、王女役のマリーナ・シャグチともにマリインスキー劇場のソリストであるばかりか、ゲルギエフ指揮の元で録音された《不死身のカシチェイ》(PHILIPS)で同じ役で出演していましたから、配役としては申し分のないところ。

シャグチのあの立派な体格はビジュアル重視の昨今の状況では、オペラの公演ではなかなかツライものがあると思いますが、彼女のくぐもってて個人的にはあまり好きでなかった声質も、今回聞いてみると意外にクリヤーな感じで、十分に楽しむことができました。
ゲルガロフの方は一か所だけ声が割れかけてドキリとしましたが、声量も十分あって貫禄勝ち。

オーケストラの演奏の方ですが、まずは申し分のないものでした。
細かいところをいえば、せっかく用意したチェレスタの音がかき消されて聞こえにくかったとか、第2場の終わりで大太鼓とシンバルが同時に強打するところが物足りなかったとかあるのですが、まあ、録音で聴くようにはいかないのでしょう。
コンマスのブロンド美女は、《カシチェイ》の前の《シェヘラザード》では、スレンダーボディをまるで鞭がしなるようなオーバーな動作でタイミングを取っていたのが目に付いたのですが、オペラの方では私の視線はシェバチカたんの方に行ってしまっていたので、同じようにしなっていたのかどうか...。

合唱は指定のとおり舞台裏からでした。
私の好きな吹雪の場面は、通常のテンポよりもかなり速く演奏されていたのですが、合唱の方はオケよりもわずかに早く歌ってしまっていて、ここは聴いていてかなりヒヤヒヤしたところ。
私は前の方の席だったので、ステージの袖で合唱指揮者が振っている赤い光を発する指揮棒の動きもよく見えたのですが、合唱はどうもその指揮よりもテンポが速めでやや暴走ぎみだったように思います。

今回の公演はステージ形式でしたので、舞台装置も何もありませんでしたが、登場人物は実際のオペラのように出たり入ったりをしたほか、ソリスト用の譜面台には、鏡や杯、刀といった小道具も用意されていました。
演出ということでもないのでしょうけど、一応舞台上の照明は場面に合わせて色を変えたり明暗をつけたりしていました。
私が好きな第1場の終わりの管弦楽だけで奏される少し長めの間奏部分で、暗闇の中からうっすらと光が漏れてこようとしながらも、やがて元の暗黒の世界に戻ってしまう───という部分では、照明もそれに合わせて明暗をつけてくれればいっそう良かったのに...とまあ、これは無い物ねだりですね。

オペラは原語のロシア語で演奏され、舞台両側には字幕が出ておりましたので、筋を理解するのには非常に便利でした。
ただ、聴いていて思ったのですが、このオペラでは重唱のところでそれぞれの登場人物が結構重要なことを言っていたりして、それが字幕には反映しきれてない部分もあっため、字幕だけで筋を追っていた人には、何のことやらと思う場面もあったのではないでしょうか。
《カシチェイ》の録音は3種類ほど出ていますが、国内盤として日本語訳のついたものはないだけに、私なぞは字幕付きで《カシチェイ》を観れるというだけで感謝感激(感謝観劇?)だったのですが、初めて観られた方には、その点、少々不満だったかもしれませんね。

《不死身のカシチェイ》公演~5

2008年09月08日 | 《不死身のカシチェイ》
《不死身のカシチェイ》の数少ない登場人物の中で、もっとも「困った」キャラが「嵐の勇士」です。
なぜ彼が困ったちゃんかというと、お調子者でお馬鹿なくせに「嵐の勇士」なんてカッコイイ役名が与えられてしまっているからなんです。
元々「お約束」で物語が成立しているおとぎ話で、「嵐の勇士」と聞けば、誰だってヒーローだと思ってしまいますよね。
この「役名トラップ」にはまってしまうと《不死身のカシチェイ》の物語が混乱してしまいますので、要注意なのです。

嵐の勇士───彼もまたカシチェイに囚われの身となっていたのですが、そこはそれ、風のようにどこへでも自由に飛んで行けることから、「メッセンジャー」(要はパシリ)として娘のところへお使いに行くことになります(そこで逃げてしまえばいいのに,,,とは、この際考えないことにします)。
しかし、彼がカシチェエヴナに伝えるべきは、「わしの『死』は大丈夫か?」というカシチェイからのメッセージだったのに、間違えて王女の嘆きの言葉をしゃべってしまうのですね(ここがお馬鹿)。
まあ、それが意識を取り戻したイヴァン・コローレヴィチの「里心」がつきはじめるきっかけとなったのですから、結果オーライではあるのですけど。

ちなみに飲み屋で男性客の「里心」がつくのはトイレに行ったときなんだそうです。
そのため、トイレから戻ってきた客に間髪入れずおしぼりを手渡し、矢継ぎ早に話題を持ち掛けて飲んでいた時の状態に戻し、里心をなくさせて少しでも滞在時間を伸ばしてカネを落とさせる───というのが、やり手のホステスのテクニックらしいですね。
そういう意味では、イヴァン・コローレヴィチを取り逃がしたカシチェエヴナはホステス失格です。

さて、嵐の勇士は「自由だ!自由だ!」という台詞をことあるごとに喋っています。
確かに「自由」というのはこのオペラでの重要なテーマのひとつではありますが、自由の象徴がこの嵐の勇士であるならば、若干ちぐはぐな感じは否めません。
彼は、どちらかというとこのオペラではコミカルな役どころであるために、演出家も彼をどう解釈したら良いのかさぞ頭を悩ますことでしょう。

ちょっとオツムが弱くて、放浪癖があって、でもそれが「自由」の象徴である───という嵐の勇士の性格にどう回答するかが、《不死身のカシチェイ》の演出上の大きな鍵を握っているように思います。

《不死身のカシチェイ》公演~4

2008年09月07日 | 《不死身のカシチェイ》
美貌のツンデレキャラ、カシチェエヴナの2つ目の見せ所は、第3場でイヴァン・コローレヴィチに復縁(?)を迫る場面。
そもそもこのオペラでは、イヴァン・コローレヴィチは嵐の勇士の空飛ぶ絨毯に乗って苦もなくあまりにもあっさりと王女と再会してしまうため、盛り上がりを期待していた観客があっけにとられてしまいかねない所。そのため、ここで追いすがって来るカシチェエヴナの役割は極めて重要です。

カシチェエヴナはイヴァン・コローレヴィチに、自らのプライドも何もかも捨て去って「一緒に暮らしましょう」と泣きすがり、終いには王女は逃がしてあげるから、私たちは一緒にね、とまで持ち掛けてきます。
ここのカシチェエヴナは、《皇帝の花嫁》のリュバーシャを彷佛とさせますが、いかんせん持ち時間が短いため、リュバーシャのように臓の府から生暖かい血がどくどくと溢れ出てくるようなねちっこい表現は無理でしょうけど、逆に限られた時間でどこまで彼女の情念を表すことが出来るかというのが、演出上の大きなポイントとなりそうです。

いずれにせよ、ここでカシチェエヴナは明らかにこのオペラの主人公となっていますから、もはや父親のカシチェイもお邪魔虫扱いです。

「えっと、わしの『死』は...?」
「アンタの死なんか、知ったことじゃないわよ!」

と逆切れ気味に一蹴されてしまい、不死身の魔王もすっかり形なしとなってしまいました。

こんなカシチェエヴナを哀れに思った王女は、さきほどは「誰このオンナ...恐いわ」などと言っていたにもかかわらず、彼女にキスをします。
これがカシチェエヴナの邪悪な心を浄化し、それで彼女は救済され、優しい涙を流して枝垂れ柳に姿を変える...と、こうしたプロットは、リムスキーのオペラによく見られるもの。

ヒロインあるいはその仇役の死もしくは変容の場面は、《雪娘》(スネグローチカは「愛」を知り、溶けてなくなる)、《サトコ》(海の女王ヴォルホヴァは川に姿を変える)、《皇帝の花嫁》(リュバーシャの死)、《セルヴィリア》(セルヴィリアの死)、《見えざる街キーテジ》(フェヴローニャの死)など、多く挙げることができます。
ワーグナーの影響について私はよく知りませんが、よく指摘されているところですね。


《不死身のカシチェイ》公演~3

2008年09月02日 | 《不死身のカシチェイ》
カシチェエヴナの話に戻りますが、彼女のキャラ特性を一言でいえば、さしずめ「ツンデレ」となるのではないでしょうか。
まあ「ツンデレ」の定義もいろいろあるようで、ここでは「普段ツンとしているのに、好きな人に対してはデレデレしてしまう」という意味で考えています。
彼女をアニメでありそうなキャラで例えるなら、美人だけどヒステリック、そのくせ自己愛に満ちた学級委員長といったところ。

自分の城に迷い込んできたイヴァン・コローレヴィチを薬の入った杯でまんまと眠らせ、後はいつものように剣で始末をするだけ───と、ここで彼の美貌に心を奪われ、カシチェエヴナの心に葛藤が生じてしまいます。

───こやつはわが父の命を狙う不届者。目の覚めぬうちに始末しなければ。しかし...美しい...美しすぎる...わが美貌にも勝るとも劣らぬ...われに似つかわしい男は、世界広しといえども、この眠っている勇者をおいて他にはいるまい───などと独り悶絶(これは私の勝手な脳内イメージで、実際の台詞でこんなふうに言っているわけではありません。念のため)。
オペラにおいては、この場面がカシチェエヴナに与えられた一つ目の見せ場となっています。

そうこうしているところに乱入してきたのが「嵐の勇士」。
せっかく自己陶酔して勝手に盛り上がっていたところを台無しにされたばかりか、イヴァン・コローレヴィチも目を覚ましてしまい、ムードはぶちこわし。
おまけに、カシチェイのメッセンジャーたる嵐の勇士は、主人のカシチェイではなく、王女の言葉をカシチェエヴナに語りだしてしまうのですね(この困ったキャラについては後日)。

「ちょっとアンタ!何わけのわかんないこと言ってるのよ!」

しかしブチ切れぎみの彼女にはおかまい無しに、嵐の勇士はイヴァン・コローレヴィチを空飛ぶじゅうたんに乗せてさっさとトンズラしてしまいます。
呆然と立ち尽くすカシチェエヴナ...。

せっかくの美貌も魔力もまったく威力を発揮することなく、間抜けな嵐の勇士のおかけで愛の芽生えはじめたイヴァン・コローレヴィチをも簡単に奪取されてしまった彼女。
この哀れっぽさ、なんとなくツンデレキャラにふさわしいとは思いませんか?
もし《不死身のカシチェイ》がアニメにでもなれば、一番の萌えキャラはカシチェエヴナで決まりです。