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NHKがドラマ「とと姉ちゃん」で描かなかった花森安治の本当の反戦思想〈週刊朝日〉dot.

2016-09-28 01:42:13 | 平和 戦争 自衛隊

NHKがドラマ「とと姉ちゃん」で描かなかった花森安治の本当の反戦思想〈週刊朝日〉dot.

9月16日(金)7時0分配信

 NHKの人気連続テレビ小説「とと姉ちゃん」は、「暮しの手帖」を創刊した大橋鎭子(しずこ)、花森安治(やすじ) をモチーフとしている。ドラマでは、常子が「女性のための雑誌を作る」と雑誌への思いを語っているが、そこには花森の反戦思想が描かれていないという。

* *  *
 天才編集者、そしてジャーナリストとして昭和という時代を疾走した花森安治は、どのような人だったのか。

「暮しの手帖」元編集部員の河津一哉さん(86)は、こう振り返る。

「60年安保闘争のころ編集部員が、『デモの特集をしよう』という提案をした。ところが花森さんは、『そんなものはマスターベーションにすぎない!』と言い切るんです。『そういうことは、NHKや朝日や「世界」に任せておけばいい。僕らは便所の隅っこにあるゴミをどうするのかということをやるんだ』と」

 花森は「庶民」という言葉をよく使った。抽象的な概念を使って、理論を語るのではない。戦後の混乱で衣食住がままならないなか、庶民の日々の暮らしを少しでも良いものにするヒントを与えることが、雑誌の目的だった。

 それを物語るエピソードがある。創刊前に鎭子から「雑誌を作りたい」と相談を受けた花森が、鎭子に語った言葉だ。

〈国は軍国主義一色になり、誰もかれもが、なだれをうって戦争に突っ込んでいったのは、ひとりひとりが、自分の暮らしを大切にしなかったからだと思う。もしみんなに、あったかい家庭があったのなら、戦争にならなかったと思う〉(『「暮しの手帖」とわたし』大橋鎭子著)

 このエピソードは、ドラマの第15週でもモチーフにして取り上げられた。ただ、花森と鎭子のやり取りには、もう一つの重要な言葉があった。

〈君がどんな本を作りたいか、まだ、ぼくは知らないが、ひとつ約束してほしいことがある。それは、もう二度とこんな恐ろしい戦争をしないような世の中にしていくためのものを作りたいということだ。戦争は恐ろしい。なんでもない人たちを巻き込んで、末は死までに追い込んでしまう。戦争に反対しなくてはいけない。君はそのことがわかるか〉(前掲書)

 こう問われた鎭子は「わかります」と答えた。

『花森安治の青春』の著書がある馬場マコト氏は、こう話す。
「花森は自身の経験から、戦争がおきたら個人はその流れに逆らえないことがわかっていたのだと思います。だからこそ『戦争がおきないようにすること』が大切だという信念があった。そのために『庶民の暮らし』を守ることにこだわった」

 ドラマでは、常子は「女性のための雑誌を作る」ことは繰り返し語っているが、「暮しの手帖」には「二度と戦争をおこさせないための雑誌」という、もう一つの信念があったのだ。文筆家の木俣冬氏は、こう話す。

「『とと姉ちゃん』は視聴率は好調なのに、批判的な意見が多い。それは、第16週以降は花森を中心とした反戦の思想を描くことを避け、ドラマとして戦中と戦後がうまくつながっていないからです。制作スタッフは『朝から反戦思想のドラマは重すぎる』と話していますが、戦中のエピソードや人とのつながりも消え、軽いドラマになってしまった」

 花森安治は、1911年に神戸市で生まれた。6人きょうだいの長男で、33年に東京帝国大学に入学。新聞記者か編集者を希望し、「帝国大学新聞」の編集部に入部した。

 37年に大学を卒業するが、この年に日中戦争がはじまる。軍靴の音は日増しに高まっていた。花森も徴兵され、極寒の中国東北部(旧満州)に赴くことになる。前出の河津さんは、花森から従軍体験のつらさをよく聞いていた。

「満州北部の凍えるような土地に派遣されていたとき、夜通しの行軍で『小休止(休憩)!』の声がかかると、雪の上に倒れたそうです。『そんなときは欲も得もなく人間は寝るんだよ』と話していました。部隊にはむやみやたらに殴る上官もいて、末端兵士のつらさや恨みが骨身にしみてわかっていた」

 敗戦から27年が経ったとき、グアム島に潜伏していた旧日本兵が帰国したニュースが大きな話題となった。そのとき編集部員が「もっと早く出てくればよかったのに」と言うと、花森は、

「キミにそういうことを言う資格はない!」

 と、色をなして怒ったことがあったという。

 花森には別の一面もあった。戦地・満州で結核にかかった花森は、39年に病院船で帰国。翌年に除隊となり、前の勤め先に復職した。その次の年、帝大新聞の先輩に誘われ、大政翼賛会実践局宣伝部に勤めることになった。戦地で戦う立場から一転、国内で戦意高揚広告の作成に携わるようになったのだ。

 大政翼賛会時代には、〈進め!一億火の玉だ!〉〈屠れ!米英我らの敵だ〉の標語を公募から選び、ポスターの図案を考えた。
「花森さんは、受けた仕事はとことんやり遂げる人。大政翼賛会の新しい仕事も一生懸命、街頭演説までしたそうです。ただ、私たちにはそういった話はしませんでした」(河津さん)

 68年、花森は原点に返ると大号令をかけ、それまで商品テストやファッションなどが中心だった「暮しの手帖」の第96号の全ページを費やして「戦争中の暮しの記録」を発表。大きな反響を呼んだ。

 以降、これまで封印していた政治的メッセージも積極的に発することになる。70年には「見よ ぼくら一銭五厘の旗」という一文を掲載している。

〈民主々義の《民》は 庶民の民だ/ぼくらの暮しをなによりも第一にするということだ/ぼくらの暮しと企業の利益とが ぶつかったら 企業を倒す ということだ/ぼくらの暮しと 政府の考え方が ぶつかったら 政府を倒す ということだ/それが ほんとうの《民主々義》だ〉

「一五厘」とは、戦時中の郵便ハガキの値段を意味する。兵隊を召集することは一銭五厘の赤紙でできる。兵隊の命は、軍馬より安い。従軍経験のある花森は、庶民を一銭五厘にたとえたのだ。71年には週刊朝日も「花森安治における『一五厘』の精神」という記事を掲載。実は、花森と週刊朝日は浅からぬ縁があった。

 帝大新聞時代の先輩で、メディア界の盟友だった扇谷正造は、大学卒業後に朝日新聞社に入り、週刊朝日の編集長を務めた。その縁で、花森は週刊朝日の別冊本の表紙絵を描いたり、「衣装読本」「日本拝見」の連載を執筆したりした。

 だが、週刊朝日に掲載された記事の「ボクは、たしかに戦争犯罪をおかした。言訳をさせてもらうなら、当時は何も知らなかった、だまされた」という発言が、波紋を呼ぶことになる。

「暮しの手帖」の成功で時代の寵児となった花森に対し、「戦時中の戦意高揚ポスターを作った張本人」との批判はもともとあった。「欲しがりません勝つまでは」といった文案まで花森が作り上げたという、曲解された情報もあった。そのなかで自らの戦争責任に言及したことが反響を呼び、誤った解釈がさらに広がってしまった。それでも花森は、釈明は一切しなかった。

 花森にとって大切なことは、庶民の暮らしを守ること。一部の人の「戦争責任の罪滅ぼしで雑誌をつくった」という陰口には、興味がなかったのかもしれない。前出の馬場氏は言う。

「花森は、一銭五厘で戦地に送られた側であると同時に、後の翼賛会時代に兵隊を送ることをあおった側でした。花森のような人物でさえ、戦争に“反射”してのみ込まれてしまった。しかし、そのことを傍観者の立場で批判しても意味はありません。それよりも、日本が再び戦争をしないために、何をしなければならないのか。花森の仕事は、私たちにそれを問いかけている」本誌・西岡千史(一部敬称略)

※週刊朝日 2016年9月23日号

 

 

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とど兄ちゃん ‏@musicapiccolino 15時間前
#とと姉ちゃん【戦争中の暮しの記録】高度成長期を迎えた日本で、戦争の記憶が日々風化して行くのに危機感を感じた暮しの手帖は、96号で戦時下の暮しを記録に残すための特集を組みます。人気の商品テストも料理レシピも全ての企画を休載し、読者139名の戦争体験の手記だけで構成された一冊です。

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