NHK https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2017_0814.htmlより転載
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特集 最後の伝え手として 張本勲さんに聞く
あの日の記憶
昭和20年8月6日の朝。5歳だった張本さん。広島市の自宅から遊びに行くため戸を開けようとした瞬間でした。
それこそピカドン、本当にぱあっと光って、どーんという音がしたことしか覚えていないんですよ。気がついたら目の前が赤くて、どうしたのかなと思って見たらお袋が覆い被さってくれていて背中にガラスの破片がささってそこから血がにじんでいたんです。自宅は江戸時代の長屋みたいでしたが、比治山という山のふもとにあって、爆心地とは(山の)反対側でしたから、熱線や爆風を直接受けなかったので運よく無事だったんです。木造ですから家はぺしゃんこでしたけど。自宅から50mくらいの所のブドウ畑に避難したんですが、文字どおり地獄絵というような感じでした。何十人もの人が避難していて、夜中じゅう苦しい、痛いといううめき声や叫び声が聞こえていました。それと忘れられないのが焼けただれた人肉のくさい臭い。あとは目の前で何人も「熱い」と叫びながらどぶ川に飛び込んでいって息絶えていった様子。子どもながらに、「世の中がこのまま無くなるんじゃないか」とさえ思いました。
父親を早くに亡くし、母と兄、それに2人の姉の5人家族だった張本さん。あの日、6歳年上の長女・点子さんだけが、勤労奉仕のために外出していました。夜、担架に乗せられてブドウ畑に運ばれてきた点子さんは、変わり果てた姿になっていました。
上の姉は色白で背も高くて、友達からも「ええのお、勲ちゃんは、綺麗なお姉ちゃんがおって」と言われるほど、自慢の姉だったんです。それが本当に私の姉かと思ったくらい、見るも無残なほど焼けただれてね…。痛い、苦しい、熱い、考えたらねえ、涙が出ますよ…。実っていたブドウの実をちぎって、姉の口にあてがってあげました。まだ堅い実だったので水けが出たかどうかは覚えていませんが、「ありがとう」という姉のかすかな声は忘れることができません…。母親も2日くらいは一睡もしていないと思いますよ、溺愛するわが子がなすすべがないんですから。姉がいつ亡くなったのかは聞いても教えてくれませんでした。ひと晩ほどたった朝方、お袋が大きな声をあげて泣いたそうです。姉が亡くなったのはそのときではないかと、後に兄から聞きました。
原爆と野球人生
高校卒業後、プロ野球選手になった張本さんは一年目から活躍し、新人王や首位打者など数々のタイトルを獲得します。
張本勲さん(昭和51年)必死でした。貧乏でしたから、おいしいものを腹一杯食べたいというのと、苦労をかけていた母親に小さな家でも建ててバラックから連れ出してやりたい、その二つが念願でした。だから人の2倍3倍練習しましたよ。1日300回、素振りを自分に課したんです。365日、雪が降ろうが雨が降ろうが、クリスマスも正月も振りました。家を出るときに100本、帰ってから200本。1日休めばそれだけ相手に負けると思いましたから。だから王貞治とたまに食事をするときは、オレがいちばんバットを振ったな、いやオレだと今でもお互いに笑いながら言い合うんですけどね。そうやって一心不乱に野球に打ち込んでいる間は、被爆者であることも忘れられたんです。
王貞治さんと張本さん(昭和45年)しかしその一方で、ある不安を抱えていたと言います。被爆者の知人が突然、原爆症で亡くなり、いつか自分にも症状が出て、引退に追い込まれるのではないかという不安です。
年に1回の球団の健康診断が嫌でね。ひょっとしたら原爆症と言われるんじゃないかという気持ちになって、真綿で首を絞められているみたいでした。現役を引退してからも、今でも体調が悪いと、ひょっとしたら、と思ってしまいます。だから、戦後72年とは言われますが、われわれ被爆者にとっては、まだ戦争は終わっていないんです。
プロ野球選手が健康不安を口にすれば、即、引退につながります。そのため、選手時代はもちろん、引退後もしばらく、張本さんは自分が被爆者であることを周囲に語ることはありませんでした。
語り始めた理由
ところが、2006年秋、張本さんの気持ちを変える出来事がありました。張本さんが新聞社に寄稿した「被爆者はあの日を思い出したくない。だから8月6日と9日はカレンダーから消してほしい」という記事を読んだ、九州の当時小学5年生の女の子から、「それは違うと思います。あの悲しいできごとを決して忘れないためにも、8月6日と9日は残したほうがいいと思います」という手紙が張本さんのもとに届いたのです。
さらにその手紙には、「私はこれまで長崎の原爆資料館に怖くて入れませんでしたが、張本さんの記事を読んで、資料館に行って全部しっかりと見てきました」と書かれていました。実は張本さんは、それまでに2度、広島の原爆資料館の入口まで行きながら、引き返してしまったことがありました。
やられた相手が分かっているし、姉も取られているし、悔しさから入口で手が震えて、汗が出て、中に入ったらどうにかなってしまうと思ってどうしても入れなかったんです。でも、その少女からの手紙を読んで、背中を押されたみたいで、初めて資料館に入りました。涙なしでは見られませんでした。外国の女性も「ひどいことをする」と涙を流していました。ぜひ、全世界の人に原爆資料館に行ってもらい、悲惨な光景を思い浮かべて、こんなことは二度とやるべきじゃない、人間のやる所業じゃないという気持ちになってもらいたいね。
私は原爆の「犠牲者」とは言っていないんです。戦争で亡くなった方は私たちの「身代わり」なんです。その方たちが身代わりになってくれたから、今の平和な日本があるということを、忘れて欲しくないんです。
ちょうど同じ頃、偶然見たテレビ番組で、若者たちの「原爆が落ちた都市も知らない」という発言を聞き、驚きとともに、このままでは本当に戦争が風化してしまうという危機感を抱いた張本さんは、それから講演会などで積極的にみずからの被爆体験を語るようになりました。その数は30回を超えています。
最後の伝え手として
去年、広島市の原爆資料館を、アメリカの現職大統領として戦後初めて、オバマ前大統領が訪れました。張本さんは被爆者としての複雑な心境を明かしました。
まずはほっとした、というのが感想ですね。自分の国が原爆を落とした都市に、大統領という国の代表が、慰問というか、来てくれたということは、うれしくはありませんよ。私たち被爆者が「うれしい」とは発したくないですから。でも、彼(オバマ氏)の時代のことでもないから、怒ることもできないしね。勝った相手が来て、決して謝らなくても、一応花を添えてくれたことは、まあよかった、とは思いませんけど、ああそうかと、ほっとしています。
さらに先月には、張本さんが注目した出来事がありました。国連の会議で、核兵器を禁止する条約が採択されたのです。しかし、この条約に、日本は参加しない見通しです。
片方では残念だなと、被爆国ですから。片方ではしかたが無いかなと、核保有国に守られているから、傘の下にいるから。おそらく国としても難しい選択だったと思いますよ。それはもう核廃絶すべきなんですよ、核と人間の命を比較したら、それはもう、勝負になりませんよ、人間の命が大事であって、尊いんであってね。隣の国が核を捨てれば、守られる必要がないんですよね、ですから大国は、少しずつでも廃棄してもらって、そして末端の国々まで、この全世界が核廃絶まで、なってもらいたいですね。
戦後72年、戦争を経験した人が少なくなるなか、張本さんは、次の世代に平和への思いを託そうとしています。
われわれが最後のメッセンジャーなんですよ。その責任があるんじゃないかと。こういう悲惨なことはもう二度と、この国、全世界で起きて欲しくないという気持ちが非常に強くなったから、いろんなところで話をさせてもらっています。絶対に語り継いでいかないといけませんよ。思い出して欲しくはないけれども、忘れて欲しくないし、若い人は知識ぐらいは持ってもらいたいわね。その若い人がまた次の代に同じようにバトンタッチしてもらいたいわね。
今ではテレビ番組の「ご意見番」として知られる張本さん。その原点には、姉を失ったみずからの被爆体験と、それゆえに平和への強い思いがあるのだと感じました。
- 北野剛寛アナウンサー
- 平成11年入局
松江局、鹿児島局、札幌局、広島局でプロ野球、
ラグビーなどのスポーツ実況を担当
現在は「おはよう日本」スポーツキャスター(土日祝)