棚原 勝也さんFBより
1945年の4月1日はアメリカ軍が沖縄本島に上陸した日『D-DAY』だ。
上陸地の読谷村では...
翌2日、住民らが逃げ込んだ自然壕『チビチリガマ』で〝集団自決〟があり
120人の住民のうち85人が犠牲になった…。
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きょう悲劇から72年の慰霊祭に行った。
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住民に対し、アメリカ兵らは投降を呼びかけたが、
日頃から〝捕まれば酷いことをされる〟と〝教育〟されていた住民らは
『無残な辱めをうけるならば…』と家族同士で殺し合いを始める。
〝間違った教育〟は恐ろしい。デマや流言に惑わされることなく、
〝正しい知識〟があればと考えた。
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85人の全犠牲者の約6割は18歳以下の子どもたちだった。
腐った大人による誤った教育の犠牲者は常に子ども達だ。
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きょうの慰霊祭では遺族や、生存者の方々数人と話をさせていただいた…。
地域の人たちが互いに〝殺しあった〟という事実、そして〝生き残ってしまった〟という
負わなくてもよい〝負い目〟を背負った辛さを語っていた…。
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読谷村史には愛する娘や息子を手にかける母の姿を生存者の証言が伝えている。
「〝敵にやられるよりか、お母さんの手で殺して下さい殺して下さい〟と
膝まづきして願うんだよね。
○○さんは体格も良くて美人でね。
この母親も〝そうか、敵にはさせないで自分でやろう〟
と言ってさ、あくまでも自分でやると母親が言うたもんだから私たちも止める間もなかった。」
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「馬乗りになってドンドンドンドン包丁で突いた。〝長男だから、自分の手で殺す〟と言って。」
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しかし、この悲惨な出来事も、真相が明らかになったのは戦後20年ほどたってから。
それほどに深い傷が残っていた。
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この悲劇の一方で
チビチリガマから800メートルほどしか離れていない『シヌクガマ』では
1000人がほどいた避難住民は集団自決を免れている。
壕の中にはその時、ハワイ帰りの2人がいて
「アメリカ人は住民を殺さない」と、住民たち説得して、全員の命が救われている。