第壱話 芽生え
「睦美、どうにか降ろしてくれないか、俺が子育てなんて無理だ、子供は嫌いだ、嫌いなことのために金を稼ごうなんて俺にはできねぇよ、ナンセンスだ、ありえない、ありえない」
大学を卒業して二年が経ち、三歳上の先輩とカフェ風の定食屋を始めた六田睦美(ろくたむつみ)は、身籠った子の父親にあたる実業家の古川真夜(ふるかわまや)に妊娠したことを喜ばれていなかった。
「あっそう、まぁそういうかと思ったわ、あなたの大切なものは第一にお金で次にストレスを発散する女の身体なよね、私は独りで産んで独りで育てるから、もう出て行きなさいよ、もう真夜とは関わらないから」
睦美はこれまでに誰にも見せたことがない鬼の形相で家から追い出した。
「おう、ありがたいや」
真夜は捨て台詞をはいた。
睦美は知っていた。真夜の実業家としての手腕、事業を広げる絶妙な嗅覚を持った男だと。しかし、プライベートでの女性の扱いが悪いことも。だから、定食屋の経営や商品開発の相談等、勉強になっていたが、男女の関係は避けようと考えていた。でも、巧みに心の隙を広げられ気をゆるしてしまった。
子供が授かったことを打ち明けるこの日が今後の人生の重大局面だと覚悟した。予想通りだった。
遊びと分かっていて、自分自身も遊ぼうと考えてしまい、コンドームを用意していたにも拘らず、魔法のような身のこなしに、真夜を受け入れてしまったのである。ほんの少し、期待を持ってしまった。
「むっちゃん、大丈夫よ、私はあなたの味方、協力するわよ」
翌日、職場の定食屋へ出勤し、協同経営者の古謝愛優嶺(こじゃあゆね)に妊娠と真夜を突っ撥ねた経緯を説明すと、温かい空気に包まれ、少しだけ残っていた不安な気持ちを消し平してくれた感覚を覚えた。
この日は真夏日で、早い時間帯から気温が上がり、まだ、蝉が泣き止まない時間帯だった。
「愛優嶺さん、ありがとう、宜しくお願いします」
睦美はその暑さを忘れたかのように涼しげな笑顔を見せた。
「睦美さん少し、お腹が目立ってきましたね、冬の新作のレシピ作りだけにしたらどうですか」
定食屋の立ち上げ時に採用した、ここの地元出身で、二人の子を持つ河井美佐江(かわいみさえ)が気を利かせてきた。
「そうですよ、まだ用心しないといけない時期じゃないですか、店は自分らに任せて下さい」
料理人の高松獏之氶(たかまつばくのじょう)も気を遣った。
「そうしてもらおうかしら、ごめんね私は子供産んだ経験ないから、ありがとね、美佐、獏さん。むっちゃんはレシピ作りお願いね」
そうやって睦美は職場のみんなが常に気にかけてくれて、出産準備が捗る環境を作ってもらえた。
しかしながら、睦美は仲間達に身籠った子らが一人ではないことをいえないでいた。あまりの優しさに、自分自身の失敗でこの状況を引き起こしてしまったことに、劣等さを覚えいえなかったのである。毎晩毎晩、床に着くと、真夜の顔が浮かんできて、憤りを浮かべては定食屋のみんなに迷惑をかけまいと、心を鎮めていたのだ。
年が明け、三が日も過ぎ、そろそろ正月気分が薄れようとしていた。
「ああー、ぎゃー」
定食屋の開店時間まで一時間程前に睦美の陣痛が始まった。
「睦美さん、大丈夫」
一番に駆けつけたのは美佐江だった。壁にもたれ身体を丸くして座り込む睦美の傍にしゃがみ、右腕は俯き加減の睦美の襟足と両肩を包むように添え、左手は、お腹を抱えている右手の甲に添えた。
「むっちゃん大丈夫、美佐、陣痛なの」
遅れて駆けつけた愛優嶺が二人に聞いた。
「はい」
痛みを踏ん張り顔を上げられないまま、小さな声で睦美は答えた。
「おう、いよいよですか、どうしましょう、私、車出しますか」
獏之氶は嬉しい緊急事態と、顔が緩んだり硬くなったりと戸惑っていた。
「睦美さん立てますか」
美佐江は優しく声をかけ、一旦、二人で立ち上がり、美佐江は椅子に座らせた。
「はぁ、びっくりした、とても痛いのね、すみません、黙ってましたけど、実は六子なんです、恐らく、女四人と男二人なんです」
「えっ、そうだったの、凄いわね、とりあえず、病院行ったほうがいいわね、とてもキツそうよ、獏さん車お願いね、今日はお店、休みにしよう」
睦美がそういうと愛優嶺は、驚くのを我慢して返事した。
身支度を始めると、再び陣痛が始まった。一回目から三〇分後のことだった。そして落ち着くと、愛優嶺と美佐江は睦美が歩くのを介助し、獏之氶の車までゆっくり進んだ。
「獏さん、私達が病院に着いたら留守番で店に帰ってね、男手は要らないからさ」
全員が車に乗り込むと、真っ先に愛優嶺は古臭いことをいい出した。
「愛優さん、獏さんもいてくれたほうがいいと思います、念のために」
「そうなの、ごめん、私の考えは古いかしら」
全員がクスクス笑った。
「私、何でもしますから、出産に立ち合う以外なら」
また、全員笑い、場が和んだ。
獏之氶のハンドル捌きは睦美にとても気を遣ったものだった。陣痛を繰り返す身にはありがたいようだが、出産の経験のない愛優嶺にはもどかしいのもで、睦美と同じように体力を消耗していた。
「六田さん、いよいよですね、頑張りましょう」
病院に着くと助産師の産河里美(うぶかわさとみ)が玄関先でストレッチャーを準備して待っていて、産科の診察室に案内した。
「産河さん、分娩室に入りましょう、六田さん、私達と一緒に元気な子供達を産みましょうね」
産科医の町田博子(まちだひろこ)は診察を終えると産河へ指示を出した。
エレベーターで二階の病棟へ上がり、産河は睦美が横になっているストレッチャーと分娩室へ入っていった。
「美佐、大丈夫よね、私、子供産んだことないからさぁ、むっちゃんの陣痛の時の雄叫びっていうか、凄かったように感じたんだけど」
「はい、私はあんなに叫んだ記憶がないですね、難産になりそう、ですかね」
美佐江をも不安がらせた睦美の叫びは、愛優嶺の不安を余計に強く抱かせてしまい、両手を握りしめ、上下に動かし祈るような素振りを始めさせた。
一方、獏之氶は我関せずではないが、初めての体験であるから、周りをキョロキョロするばかりであった。
続