爺さんが伝えたいこと

寡黙に生きて来た爺さんが、一つの言葉ででも若い人達の役に立つならば、幸いです。

特攻に思う

2020-04-14 12:35:11 | 日記
また航空特攻についてです。
いくつかの特攻記念館を訪れると、館内に出撃2時間前に撮られたという、子犬を抱いた5人の少年兵達の写真が展示されています。この写真の事は以前から知っていましたが、5人の少年達の事に詳しくなるにつれ、写真前列右側の千田孝正さん(愛知県出身)が、台湾の台南空から鹿児島の万世(ばんせい)飛行場に赴任する途上で、近隣の目達原(めたばる)飛行場(現目達原自衛隊駐屯地)に、立ち寄られていた事が分かっています。周辺のお寺に寄宿し、彼等のお世話をされていた地元の福田〇子さんを、母親の様に慕っておられた事も分かりました。出撃当日急きょ命令が変更され、〇子さんは千田さんを見送る事が出来なかった様です。赤の他人のお二人が心を通わす事が出来たのは、千田さんにとって一時の安らぎではなかったかと、思われます。特攻で亡くなられた若者は4千人程だと言われています。4千人それぞれに、それぞれの希望の人生が有った筈です。また第二次世界大戦の日本の戦没者は、230万人と言われています。230万の希望の人生が有った筈です。無為な戦争に駆り出された、若者達の将来を奪った戦争の事を、私達は忘れてはならないと思います。一部の指導者の采配で多くの若者が命を落として行った事を、私達は決して忘れてはならないと思います。




命を思う

2020-04-14 11:01:47 | 日記
先の大戦において、将来有望な若者達が自らの命を賭して戦ったあの時。確かに国策として、異議など唱える事が出来なかった時代に、生き残った先人から『九州の奴らは、私が往きます、往かせて下さい』と名乗り出た事と聞きます。血気盛んな若者達が精神教育の末とは言え、余りにも惜しくも悲しい出来事だと感じます。私はバイトの身とは言え、職場の同僚から「お前、特攻で亡くなった霊が、付いとるんやないとか?」とよく言われます。別に構わないんです。滅者を弔うのが坊主の仕事なんですから。特に特攻に惹かれます。若い彼等が日本の行く末を憂い、故郷の両親、家族そして最愛の人の為に、勇んで飛び立って行った事を思うと、残念でなりません。鹿児島知覧、万世、鹿屋、福岡太刀洗、徳山大津島の記念館には何度も足を運び、彼等が残した遺書を目にする度に、頭が下がる思いです。鹿児島坊の岬近くには戦艦大和の慰霊碑が有ります。毎年大和が沈んだ4月7日に、海上自衛隊の皆様により慰霊祭が行われています。散華された彼等の犠牲の上に、今の日本が有るのですから。戦後95年、飛び立ち、出航して行った彼等の心情を思うと、涙を禁じ得ません。日々のうのうと暮らす私達の日本に、こんな史実があったのです。これは爺さんの私心ですから、読み流して頂ければ幸いです。


生きて来て

2020-04-14 10:45:35 | 日記
この道46年になります。定年して12年。現役の頃には毎日、信徒の皆様の願いが叶うべく、私情を挟まずに一生懸命祈りました。人の願いは千差万別でそれぞれでした。欲にかまけてもっとと祈る人、商売や健康が将来も続く様に祈る人、掛かった病気が回復する様に祈る人、病気の快復は望めないが進行を遅らせる様に祈る人。置かれた立場で精一杯生きて行こうとするのが、人間だと思います。持って生まれた寿命(命の長さ)は変えられないと思います。そして誰でも明日の命の保証も無いと思います。だから朝目覚めたら、その一日を大切に一生懸命生きて欲しいと感じます。

海にても

2020-04-14 01:10:46 | 日記
次は海上特攻です。
昭和20年4月7日午後2時23分、北緯30°43′ 東経128°04′
鹿児島県坊の岬南西沖約120浬(1かいり=1,852m・約220㎞)にて、『戦艦大和を含む第二艦隊』が米軍艦載機約360機の猛攻を受け、次々と沈没して行きました。当時世界最大級と言われた戦艦大和でしたが、日本海軍のシンボルである大和を、陸軍と連携し米軍を迎撃する為に、沖縄特攻を敢行しました。4月1日に沖縄侵攻を果たした米軍に対し、援軍の飛行機も僅かな、旗艦大和と巡洋艦矢矧以下9隻の第二艦隊は、将官以下6000名にのぼる兵士達でした。航空特攻の彼等と同じ様に、兵士達は皆必死の覚悟で挑み、生きて戻れぬ出航で殆どの兵士達が亡くなりました。日本の礎となられた彼等に、無念の死を遂げられた彼等に、生業にする坊主として、彼等のご冥福を心からお祈りしたいと思います。