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深沢七郎の楢山節考(ならやまぶしこう)を読む。
そして、人生の締めくくり方の学びを考える。
姥捨山(うばすてやま)のことを調べる。
そして、人生の締めくくり方の学びを考える。
正しく言えば、シニアの人生の締めくくり方の学びを考える。
もっと正しく言えば、アクティブシニアの人生の締めくくり方の学びを考える。
全てを見つめて、「人生の締めくくり方の学び」を、肯定的に受けとめる。
⁑⁑
シニアの人生の締めくくり方の学びというのは、どう考えても明るい雰囲気ではありません。
誠実だけれど、内奥は辛く寂しい学びです。
死と直面させることによって、残りの生の充実を図る、などと言っても、
頑張る気になるシニアはいても、そのことによって明るくなるシニアなどいません。
例えば、「一日一生」という言葉がありますが、これは比較的若い層が使うから意味があるのです。
「一日一生」という言葉は、『今日一日が自分の一生の最後の日だと思って精一杯生きなさい』という意味です。
シニアの場合、この「一日一生」が、「すぐそこ在る死」と確実につながってしまうのです。
だから、「もうすぐ死ぬ」あるいは、「もういつ死ぬか分からない」から、
「残りの人生の一日一日を悔いなく大切に生きるんだ。」というふうにつながってしまうのです。
ああ、私が「死んだ後、みんなが争わないように」、「身の回りの整理をしなければ」などなど、
『「限定付き」一日一生』になってしまうのです。
だから、難しいのです。
学びの中で「死」をどう扱うか、という難かしさではなく
それ以前の難かしさなのです。
これは、現実に人生の最終期を迎えようとしているたくさんのシニアを前にしてみないと分からないことでもあります。
「残りの生を精一杯悔いのないように生きるのよ。」という学びが難かしいのではなく、
『あなたの死は、すぐそこにあるのよ。』という「見つめ」が難かしいのです。
しかも、彼らは、アクティブシニアなのです。
目の前のたくさんのアクティブシニアに
『自分の人生の締めくくり方の学び』を、
どういう内容で、どういうプログラムを組んで、どのチャンスで授業をつくっていけばよいのでしょうか?
私は、全てを見つめて、サークル員(シニア)と一緒に肯定的に受けとめて、
具体的に授業をつくっていきたいと考えています。
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