皆さんおはようございます!!
と、まじめな挨拶を、私は、いったい誰に?向けているのかな?と思わないでもないが、
昨日、俳優の故丹波さんのことを、TVでやっているのを、中学までの同級生の医師の待合室で見て、
息子さんの俳優さんが、父の教えとして「『おはよう』という挨拶は、誰にもしてはならない『おはようございます』と
どんな関係者にもしないことは、監督にもそうすること(良い挨拶をしないこと)と同じだと思え」という『皆が、平等』」と教えられていたと証言した。
なるほど、平等か?と今まで「私も挨拶では(自分自身)いつも、そうしないと、心が重く感じられたのは、そうゆうことに繋がるのか」と
自分の知らない自分の心を客観的に教えられたと感じた。しかし、自分自身は、途中から、自分が変なのかな?と
疑いを、持っていたのだけれども、なんか心が晴れた。
丹波さんを、皆が「悪童」という中で、最後に、兄夫妻が、「死後の世界」を書き著した事を、重要なことを果たした人物として評価されていた。
なるほど、私も紆余曲折したものの、様々な苦労や経験は、聖書の理解や日本仏教の理解とイエス様の理解に大いに役立っている。
私にもきっと、何かを大成する日が来るに違いない、と少し安堵の気持ちになる。
今日は久しぶりで、早朝のミサに出た。自分自身の結婚についても考えたが、まだ具体化しない。
しかし、何かが自分の中で変わったことも感じた。ローマの教皇様のフェイスブックを、まじめに受け容れる事が出来そうだし、
前教皇、前々教皇様も、理解してくださっていたことを改めて思う。ただ、私も、自身の経験は、反省して記憶していたから、
そして、普通の人々は理解しないが、私としては、この上ない大きな苦難をも経験したので、かみ合わなかったに違いない前教皇様についても
理解でき、心から感謝したいと思う。
というわけで、今日は、誰にもなんだかわからないブログ本来の姿を書いた。きっとブログとは、こうあるべきなのかもしれない。
日記のような、親密な手紙のような、現実のような、非現実・・妄想のような・・・希望や怒りや賛美の表明のような。
一日も早く、神にも人々にも愛され、理解され、希望される家庭を創りたいと切に祈りたい。
それから勢いの余韻で、昨日も二つ東京都内の仕事にインターネットで応募してしまったが、このまま頑張るのがベスト。
放送大学の二回目の卒業後は、仕事をしながら、真摯に福島県立医科大学医学部に合格し進学できるよう努力したい。
余力があれば放送大学の大学院の修士、博士もとるけれど、今後のお楽しみと言うところだ。
Pietro Francisco Xavier Francisco Hiroyuki Sawaguti
*********************「『ヨブ記』を読みなおす」から続き***********************
同じダビデは、逃亡の身で異国の地をさ迷いながら、自分が遭遇している「孤独」の恐ろしさを、
「その道を行けば、そこには罠がしかけられています。目を注いで御覧ください。
右に立ってくれる友もなく、逃れ場は失われ、命を助けようとしてくれる人もありません」(詩142・4-5)、と
嘆いています。しかしダビデは、「主よ、あなたに向かって叫び、申します。『あなたはわたしの避けどころ、
命あるものの地で、わたしの分となってくださる方』と。わたしの叫びに耳を傾けてください。
迫害する者から助け出してください。彼らはわたしより強いのです。わたしの魂を枷から引き出してください。
あなたの御名に感謝することができますように。主に従う人々がわたしを冠としますように。
あなたがわたしに報いてくださいますように」(詩142・6-8)と、神への絶対的な信頼を表現しています。
同じ孤独の苦しみを体験しながら、少なくともこの時点での、ヨブと、ダビデとの違いはここにある、と
わたしは思います。
*******************本日の転記はこれまで*****************
と、まじめな挨拶を、私は、いったい誰に?向けているのかな?と思わないでもないが、
昨日、俳優の故丹波さんのことを、TVでやっているのを、中学までの同級生の医師の待合室で見て、
息子さんの俳優さんが、父の教えとして「『おはよう』という挨拶は、誰にもしてはならない『おはようございます』と
どんな関係者にもしないことは、監督にもそうすること(良い挨拶をしないこと)と同じだと思え」という『皆が、平等』」と教えられていたと証言した。
なるほど、平等か?と今まで「私も挨拶では(自分自身)いつも、そうしないと、心が重く感じられたのは、そうゆうことに繋がるのか」と
自分の知らない自分の心を客観的に教えられたと感じた。しかし、自分自身は、途中から、自分が変なのかな?と
疑いを、持っていたのだけれども、なんか心が晴れた。
丹波さんを、皆が「悪童」という中で、最後に、兄夫妻が、「死後の世界」を書き著した事を、重要なことを果たした人物として評価されていた。
なるほど、私も紆余曲折したものの、様々な苦労や経験は、聖書の理解や日本仏教の理解とイエス様の理解に大いに役立っている。
私にもきっと、何かを大成する日が来るに違いない、と少し安堵の気持ちになる。
今日は久しぶりで、早朝のミサに出た。自分自身の結婚についても考えたが、まだ具体化しない。
しかし、何かが自分の中で変わったことも感じた。ローマの教皇様のフェイスブックを、まじめに受け容れる事が出来そうだし、
前教皇、前々教皇様も、理解してくださっていたことを改めて思う。ただ、私も、自身の経験は、反省して記憶していたから、
そして、普通の人々は理解しないが、私としては、この上ない大きな苦難をも経験したので、かみ合わなかったに違いない前教皇様についても
理解でき、心から感謝したいと思う。
というわけで、今日は、誰にもなんだかわからないブログ本来の姿を書いた。きっとブログとは、こうあるべきなのかもしれない。
日記のような、親密な手紙のような、現実のような、非現実・・妄想のような・・・希望や怒りや賛美の表明のような。
一日も早く、神にも人々にも愛され、理解され、希望される家庭を創りたいと切に祈りたい。
それから勢いの余韻で、昨日も二つ東京都内の仕事にインターネットで応募してしまったが、このまま頑張るのがベスト。
放送大学の二回目の卒業後は、仕事をしながら、真摯に福島県立医科大学医学部に合格し進学できるよう努力したい。
余力があれば放送大学の大学院の修士、博士もとるけれど、今後のお楽しみと言うところだ。
Pietro Francisco Xavier Francisco Hiroyuki Sawaguti
*********************「『ヨブ記』を読みなおす」から続き***********************
同じダビデは、逃亡の身で異国の地をさ迷いながら、自分が遭遇している「孤独」の恐ろしさを、
「その道を行けば、そこには罠がしかけられています。目を注いで御覧ください。
右に立ってくれる友もなく、逃れ場は失われ、命を助けようとしてくれる人もありません」(詩142・4-5)、と
嘆いています。しかしダビデは、「主よ、あなたに向かって叫び、申します。『あなたはわたしの避けどころ、
命あるものの地で、わたしの分となってくださる方』と。わたしの叫びに耳を傾けてください。
迫害する者から助け出してください。彼らはわたしより強いのです。わたしの魂を枷から引き出してください。
あなたの御名に感謝することができますように。主に従う人々がわたしを冠としますように。
あなたがわたしに報いてくださいますように」(詩142・6-8)と、神への絶対的な信頼を表現しています。
同じ孤独の苦しみを体験しながら、少なくともこの時点での、ヨブと、ダビデとの違いはここにある、と
わたしは思います。
*******************本日の転記はこれまで*****************