おはようございます!
実は、昨日の夜遅くまでかかって、オリエンス宗教研究所の4講座めを終えた。
そこで、やはり、挨拶は、自分自身の立場上、全ての人々に対して、
日本の皇室、私の真実として、ローマの教皇様、創始者のイエス・キリスト様、そして、何より、全世界の全人類が知る全能の父なる神を通じて、
意見を書いたり、愛し合ったり、議論していることを、心の底から痛感し、また信じて言動したいので、
今から、極力、丁寧な言葉を使いたいと決心した。
しかし、全世界レヴェルで、私も十分な年長組みに入ったと思われるので、プライドを持って「ですます調」は、可能な限り避ける。
教皇フランシスコ様、ベネディクト16世様、そして、多くの力ある諸先輩方、
UK、USA、CANADAの諸先輩方、ご指導宜しくお願い致します。(もちろん、その他の国々の諸先輩方にも、お願いします。)
ところで、母の思い出の中に、私が郵便局の郵便配達に苦労していた頃、もちろん母はまだ若く、体も健康であったけれども、
良く私の苦労をねぎらって、入浴中の私の体を洗いたがったが、私が嫌がって鍵をいつもかけていた。
この頃気のせいか、私の入浴中、人が歩く音がする。父と弟ならば、トイレのはずだし、母なのだろうか?と思いたくなる。
そんなことが何度も続いている。長年カトリック研究をして、重大な問題点を知りつつ、
本当に心の底から気遣いながら、カトリック改宗を導きたかった私なので、今回の母の死は、その病の時からすでに痛恨の苦しみであり、
これは、もしかするとと思わずにはいられない。思えば私は、カトリック教会に熱心に通う前から、自信を待たないまでも、
冷静に、医学部での精神医学研究を、年老いてからするよう心に描いていたし、いつも努力していた。
今は幸いにも、教会を子供の時に離れた原因究明の手助けになった教育学・心理学・諸環境科学理化学を学ぶ。
教育学・心理学の学部での卒業をし、諸環境科学・理化学も。区切りとして、学部卒業も近い。
近年のこの地方では、キリスト教徒は、苦しめるだけ苦しめても、いい結果になると、信じられていた感じがある。
それは難民を生む環境にも影響したと思われる。私のように、現代にも、人間の姿でイエス様が現れ、言葉をかけるという現象に
出会った話は、世界中でも、ほとんど聞かないからだ。
教皇様や地域の司祭や司教には、悪いと思えても、今のところは、そんな過ちと甘えを起こさせないために、
適度な他の教会員との距離が必要なのと、本当に正しく思える結婚を心がけたい。その意味では、司式と司牧司祭にとって、
私が非常に、世間的な嫌な信徒のように、しばらくは見えると思うけれども、皆様お許し願いたい。
私もなるべく、理性的に、冷静に、現在、将来とも結婚して役立つ関係かどうかを、一人ひとりの女性について判断したいと思います。
もちろん世界中すべてということは出来ないし、限られている?のか?すべては、神の御心によると思われる。
しかし、一日も早い結論を出さないといけないし、そう出来ないならばそれは、私の怠りよっていると考えられます。
「頑張る」は、この場合、相応しい言葉ではないと思われるけれども「頑張る」事を約束したい。
私が司牧のために、今、司祭を目指すことは、全てを元に戻して、また日本や世界に混沌を生むことだと深く認識しています。
それは、私の理性的な社会生活から充実をし始めた今の社会であって、自発的な充実ではなかったからだ。
もし、私が、人々からの私への苦しみを覚えた憎しみならば、司牧や司式ができる司祭・司教へ招かれる可能性もあると認識している。
ただ、今のところ冷静な私は、現在の仕事の行政のサポートや、その他の可能性としての、教育学者や自然科学者としてのサポートや
精神医学者としてのでのサポートが、客観的に相応しいし、現代の社会には、必要と感じている。
それは、私の冷静で、客観的、理性的な社会生活の努力の結果、充実してきた今の全世界の全ての社会生活だから、
もし、これらを、止めてしまったら、全世界の、全ての良い努力が、おしまいになってしまうだろうから。
全世界に、神の愛と慈しみが、豊かに注がれることを祈りつつ、今日のブログを書き終える。
Pietro Francisco Xavier Francisco Hiroyuki Sawaguti
********************************「『ヨブ記』を読みなおす」から続き************************************
彼は、次のように厳しく神を訴えています。
「なぜ、神に逆らう者が生き永らえ、年を重ねてなお、力を増し加えるのか。
子孫は彼らを囲んで確かに続き、その末を目の前に見ることができる。
その家は平和で、何の恐れもなく、神の鞭が彼らに下ることはない。
彼らの雄牛は子を生んで、死なせることはない。
彼らは羊の群れのように子供を送り出し、その子らは踊り跳ね、・・・・」(21・7-12)
******************************本日の転記はこれまで********************************
実は、昨日の夜遅くまでかかって、オリエンス宗教研究所の4講座めを終えた。
そこで、やはり、挨拶は、自分自身の立場上、全ての人々に対して、
日本の皇室、私の真実として、ローマの教皇様、創始者のイエス・キリスト様、そして、何より、全世界の全人類が知る全能の父なる神を通じて、
意見を書いたり、愛し合ったり、議論していることを、心の底から痛感し、また信じて言動したいので、
今から、極力、丁寧な言葉を使いたいと決心した。
しかし、全世界レヴェルで、私も十分な年長組みに入ったと思われるので、プライドを持って「ですます調」は、可能な限り避ける。
教皇フランシスコ様、ベネディクト16世様、そして、多くの力ある諸先輩方、
UK、USA、CANADAの諸先輩方、ご指導宜しくお願い致します。(もちろん、その他の国々の諸先輩方にも、お願いします。)
ところで、母の思い出の中に、私が郵便局の郵便配達に苦労していた頃、もちろん母はまだ若く、体も健康であったけれども、
良く私の苦労をねぎらって、入浴中の私の体を洗いたがったが、私が嫌がって鍵をいつもかけていた。
この頃気のせいか、私の入浴中、人が歩く音がする。父と弟ならば、トイレのはずだし、母なのだろうか?と思いたくなる。
そんなことが何度も続いている。長年カトリック研究をして、重大な問題点を知りつつ、
本当に心の底から気遣いながら、カトリック改宗を導きたかった私なので、今回の母の死は、その病の時からすでに痛恨の苦しみであり、
これは、もしかするとと思わずにはいられない。思えば私は、カトリック教会に熱心に通う前から、自信を待たないまでも、
冷静に、医学部での精神医学研究を、年老いてからするよう心に描いていたし、いつも努力していた。
今は幸いにも、教会を子供の時に離れた原因究明の手助けになった教育学・心理学・諸環境科学理化学を学ぶ。
教育学・心理学の学部での卒業をし、諸環境科学・理化学も。区切りとして、学部卒業も近い。
近年のこの地方では、キリスト教徒は、苦しめるだけ苦しめても、いい結果になると、信じられていた感じがある。
それは難民を生む環境にも影響したと思われる。私のように、現代にも、人間の姿でイエス様が現れ、言葉をかけるという現象に
出会った話は、世界中でも、ほとんど聞かないからだ。
教皇様や地域の司祭や司教には、悪いと思えても、今のところは、そんな過ちと甘えを起こさせないために、
適度な他の教会員との距離が必要なのと、本当に正しく思える結婚を心がけたい。その意味では、司式と司牧司祭にとって、
私が非常に、世間的な嫌な信徒のように、しばらくは見えると思うけれども、皆様お許し願いたい。
私もなるべく、理性的に、冷静に、現在、将来とも結婚して役立つ関係かどうかを、一人ひとりの女性について判断したいと思います。
もちろん世界中すべてということは出来ないし、限られている?のか?すべては、神の御心によると思われる。
しかし、一日も早い結論を出さないといけないし、そう出来ないならばそれは、私の怠りよっていると考えられます。
「頑張る」は、この場合、相応しい言葉ではないと思われるけれども「頑張る」事を約束したい。
私が司牧のために、今、司祭を目指すことは、全てを元に戻して、また日本や世界に混沌を生むことだと深く認識しています。
それは、私の理性的な社会生活から充実をし始めた今の社会であって、自発的な充実ではなかったからだ。
もし、私が、人々からの私への苦しみを覚えた憎しみならば、司牧や司式ができる司祭・司教へ招かれる可能性もあると認識している。
ただ、今のところ冷静な私は、現在の仕事の行政のサポートや、その他の可能性としての、教育学者や自然科学者としてのサポートや
精神医学者としてのでのサポートが、客観的に相応しいし、現代の社会には、必要と感じている。
それは、私の冷静で、客観的、理性的な社会生活の努力の結果、充実してきた今の全世界の全ての社会生活だから、
もし、これらを、止めてしまったら、全世界の、全ての良い努力が、おしまいになってしまうだろうから。
全世界に、神の愛と慈しみが、豊かに注がれることを祈りつつ、今日のブログを書き終える。
Pietro Francisco Xavier Francisco Hiroyuki Sawaguti
********************************「『ヨブ記』を読みなおす」から続き************************************
彼は、次のように厳しく神を訴えています。
「なぜ、神に逆らう者が生き永らえ、年を重ねてなお、力を増し加えるのか。
子孫は彼らを囲んで確かに続き、その末を目の前に見ることができる。
その家は平和で、何の恐れもなく、神の鞭が彼らに下ることはない。
彼らの雄牛は子を生んで、死なせることはない。
彼らは羊の群れのように子供を送り出し、その子らは踊り跳ね、・・・・」(21・7-12)
******************************本日の転記はこれまで********************************